軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話:撤退の海と、二つの航跡

一九一六年一月。エーゲ海に浮かぶガリポリ半島の夜は、息が詰まるほどの不気味な静寂に包まれていた。

この数ヶ月にわたり、何十万という兵士の血と肉を 泥濘(ぬかるみ) にすり潰してきた激戦の海岸から、今、イギリス軍をはじめとする連合国部隊が、亡霊のように音もなく姿を消しつつあった。軍靴には足音を消すためのぼろ布が巻かれ、海面を叩く 櫂(かい) の音すら厳重に押し殺した、 極秘裏(ごくひり) の撤退作戦である。

波打ち際には放棄された莫大な物資が黒い山を作り、無人の 塹壕(ざんごう) には、敵を欺くために仕掛けられた時限式改造の小銃だけが、時折虚しく銃声を響かせている。

沖合に停泊する純白の特設病院船、第一船『 蓬莱丸(ほうらいまる) 』の甲板から、アリス・ミラーはその暗い海岸線をじっと見つめていた。隣には、アメリカ人記者のアーサーが万年筆を握りしめたまま立ち尽くしている。

「奇跡、だな。十万の兵が、トルコ軍に気付かれることなく、犠牲者もほぼ出さずに地獄から抜け出した」

アーサーの絞り出すような呟きに、アリスは力なく頷いた。戦史に残る見事な撤退戦かもしれない。だが、連日連夜、揺れるランプの下の手術室で、数え切れないほどの切断された手足と、息絶えていく同世代の若者たちを見送ってきた彼女にとって、残されたのは深い 徒労感(とろうかん) と、鼻の奥にこびりついて離れない強烈な血と腐敗の匂いだけだった。

「――橘少佐、高柳少佐! イギリス軍現地司令部より至急電です!」

二人の背後、少し離れた場所に設けられた甲板の仮設指揮所で、通信兵の切羽詰まった声が響いた。アリスとアーサーは思わず振り返る。

そこには、最前線の救護所から泥まみれで撤収してきていた医療大隊指揮官の橘少佐と、幾重にも血の滲んだ白衣を羽織った医療統括の高柳少佐の姿があった。

通信兵が手渡した電文を一読し、橘の眉間に深い皺が刻まれる。

「『我々は近くフランスにて次なる大攻勢を予定している。瑞長財団の船団には、このまま欧州に留まり、我が軍の兵站と医療を支援されたし』……だと」

橘が読み上げた内容に、アーサーが息を呑む。泥沼の戦争は終わらない。大英帝国は、この白き巨船と規格化された黒船団の力に依存し、自らの都合の良い手足として限界まで使い潰す腹積もりなのだ。

「馬鹿を言うな」

高柳少佐が、極度の疲労から血走った目で吐き捨てた。

「この半年間、不眠不休で戦場の医療、兵站を支え続けた我が医療陣は、疲労の極限にある。特効薬も麻酔も底をつきかけ、軍医の中には立ったまま気絶する者すら出ているのだ。これ以上の連続稼働は、医療過誤と組織の共倒れを招くだけだ」

「同感だ。船の機関も、船底にこびりついた分厚い 牡蠣(かき) も限界に近い。我々は金で動く 傭兵(ようへい) でもなければ、大英帝国の奴隷でもない」

橘少佐は電文を冷徹に折りたたみ、周囲の士官たちへ 毅然(きぜん) と命じた。

「台湾本部の規則通り、丁重に、しかし断固として拒絶しろ。我々の最優先事項は『自組織の乗員と機材の保護』だ。これより艦隊を二つに分ける。我々『蓬莱丸』はスエズ運河を抜けて台湾へと帰還する。合流したばかりで余力のある第二船『 美麗丸(みれいまる) 』と追加の輸送船団には、そのまま地中海を南下させよ」

大英帝国の威信よりも、自組織の徹底したルールと合理性を優先する。その決断が下された甲板の片隅では、『極東公論』の腕章を巻いた財団専属の記者たちが、重い写真機材を抱えてそそくさと『美麗丸』への乗り換え準備を進めていた。

彼らは、政府の広報めいた 御用記事(ごようきじ) を書く単なる宣伝屋ではない。一切の 検閲(けんえつ) を排し、最前線の真実を撃ち込むために財団が日本 内地(ないち) から集めた、気骨ある「紙の弾丸」たちである。自前の報道機関を前線へ投入し、戦局の世論すらも自在に操ろうとする財団の徹底ぶりに、アーサーは同業者としての敬意と、底知れぬ凄みを交えて肩をすくめた。

「お別れだな、アリス。俺も美麗丸に乗り換えるよ」

アーサーは、台湾へ帰還するアリスへ帽子を取って別れを告げた。

「極東公論の連中は、間違いなく凄まじい特ダネをすくい上げるだろう。だが、俺は俺のペンで、極東の怪物が中東で何を起こすのか、第三者の目線からアメリカへ伝える義務があるんでね」

そう言い残し、野心的なアメリカ人記者は、次なる激戦地へと向かう巨船へ乗り込んでいった。

その数日前。台湾、瑞長財団本部の重厚な扉に閉ざされた会議室。

豪華な洋風の長椅子に身を沈めていた和也と康政の前に、大英帝国の正式な外交特使が、額に脂汗を浮かべて深く頭を下げていた。

かつて「世界の工場」として七つの海を支配し、極東の島国など 歯牙(しが) にもかけなかった覇権国家の 驕(おご) りは、砂上の楼閣のごとく崩れ去っていた。

「……どうか、お願いしたい。現在、中東の要衝クートにおいて、我が軍数万がオスマン帝国軍に完全包囲され、深刻な物資と医療の欠乏に 喘(あえ) いでいる。このままでは降伏という大英帝国建国以来の恥辱にまみれることとなるのだ!」

縋(すが) り付くような特使の悲鳴を、康政は冷たい 硝子(ガラス) 玉のような瞳で静かに聞き流していた。

康政の胸中で、冷酷な計算の歯車がカチリと音を立てて噛み合った。

大英帝国が、海軍の次世代の生命線である「石油」が眠る 中東(メソポタミア) へ、自ら進んで瑞長財団を招き入れたのだ。これこそが、戦後に中東の石油権益へ合法的かつ必然的に食い込むために康政が数年越しで張り巡らせていた、策略であった。

「特使閣下。我が財団はすでに、余力のある病院船『美麗丸』をスエズ運河経由で中東へ向かわせております」

「おお……!」

「しかし、それだけでは足りないでしょう。人道支援と兵站の絶対的な維持のため、我が財団は急ぎ『追加の船団』を編成し、ペルシャ湾のバスラへ向けて出港させます。大英帝国の苦難、我々が総力を挙げて下支えいたしましょう」

確かな「実利の鎖」を首根っこに巻き付ける康政の言葉に、特使は安堵の涙を浮かべながら何度も首を縦に振るしかなかった。

台湾・高雄。

通常の岸壁に横付けされた蓬莱丸から 舷梯(タラップ) が下ろされ、アリスは久しぶりに台湾の固い大地を踏みしめた。

長い航海を終えた乗員や医療陣の下船が終わるや否や、岸壁では造船・火工を束ねる荒金親方が、早くも筋骨隆々の職人たちを怒鳴り散らし、作業用の 曳船(ひきぶね) の準備を急がせていた。

「もたもたするな! 人と荷物が降りたらすぐに 乾船渠(かんどっく) へ 曳航(えいこう) しろ! 盤木(ばんぎ) の準備はできているな! 船底の 牡蠣(かき) を一つ残らず落とし、徹底的に磨き上げるんだ。この船はまたすぐに地獄へ戻るんだぞ!」

まだ機関の熱を持つ白き巨船は、休む間もなく次の出港へ向けた再生の準備へと引き継がれていく。

アリスがふと港の別の区画へ目を向けると、そこには戦場とは全く異なる、狂気的なまでの「物量」が渦を巻いていた。

物流を統括する阿長が、小山のように積まれた木箱の群れを指揮棒一つで 捌(さば) いていた。それは、先んじて中東へ向かった美麗丸の後を追う、巨大な追加輸送船団への積み込み作業であった。

アリスは、流れていく木箱の中身を知っている。

八田與一が開発した大規模 灌漑(かんがい) によって台湾の大地が育んだ、無尽蔵のサトウキビ。そこから精製された砂糖と、残った「 廃糖蜜(はいとうみつ) 」を培養液として利用し、工場で昼夜を問わず生産され続ける奇跡の特効薬――ペニシリン。

農業、工業、医療。台湾という豊かな大地から絶え間なく湧き出す物資の 奔流(ほんりゅう) が、阿長の完璧な 采配(さいはい) によって次々と船底へと飲み込まれていく。

(戦争を支配しているのは、前線の兵士の勇気じゃない。この正確で、無駄のない生産と物流の仕組みそのものなんだわ……)

大英帝国すら及ばない財団の真の力に、アリスは 畏怖(いふ) の念を抱きながら息を吐いた。

「アリス!」

懐かしい声に振り向くと、そこには父のミラーと、背が伸びてすっかり青年の顔つきになった幼馴染のトーマスが立っていた。そしてその後ろには、静かな笑みを浮かべた康政と、純和風の控えめな着物姿に身を包んだ 燕(エン) の姿があった。

「パパ……! トーマス!」

アリスは駆け出し、父の分厚い胸に飛び込んだ。数ヶ月ぶりに嗅ぐ、血と泥の匂いがしない、太陽と機械油の匂いがする父の背中。その暖かさに触れた瞬間、アリスの中でギリギリに張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

「うわあああぁぁッ……!」

それは、再会の喜びだけで溢れた涙ではなかった。震えるアリスの小さな 双眸(そうぼう) の奥には、夜な夜な彼女を 苛(さいな) んだ野戦病院の光景―― 鋸(のこぎり) で骨を挽く音、泥に塗れた包帯、そして助けられなかった若き兵士たちの虚ろな瞳が、未だに生々しく焼き付いていたのだ。言葉にならない 嗚咽(おえつ) を漏らし、父の服を強く握りしめて崩れ落ちそうになる彼女の背中に、そっと、絹のように優しい手が触れた。

「おかえりなさいませ、アリス様」

燕であった。彼女は同情めいた安っぽい言葉をかけなかった。ただ、その温かい両手で、無数の血を拭い、死と向き合い続けたアリスの震える指先をそっと包み込んだ。

「よく、生きてお戻りになりました。あなたのその小さな手が、どれほど多くの命をあの暗闇から引きずり出したか。どうか、ご自身の戦いを誇りになさってください」

普段は冷徹な諜報員や護衛でもある燕の言葉には、死線を知る者特有の、深く静かな重みがあった。その温もりに包まれ、アリスの絶叫のような嗚咽は、やがて安堵の涙へと変わっていった。

康政は、少し離れた場所からその光景を静かに見つめていた。

大国の運命を盤上で弄ぶ冷徹な理事としての顔は、そこにはない。彼には分かっていた。自分の描いた冷酷な青写真が、十六歳の少女を地獄の最前線へ送り込んだのだという事実を。

『燕。彼女の心から血の匂いが消えるまで、傍にいてやってくれ』

康政の無言の視線による指示に、燕が伏し目がちに、しかし力強く頷きを返した。表の平和と裏の狂気、その両方の世界を知る燕にしかできない、心の治癒であった。康政はアリスたちに背を向けると、再び止まることのない歴史の歯車を回すため、一人本部へと歩き出した。

それから数週間後。

中東、ペルシャ湾の奥深く。太陽が容赦なく照りつけ、海面すら沸騰するかのような灼熱のバスラ港に、一隻の純白の巨船が姿を現した。

スエズ運河を抜け、地中海から直接駆けつけた『美麗丸』と、重油の陽炎を揺らす輸送船団である。

大英帝国の命運と、来たるべき世紀の血液たる「石油」を握るための、新たな戦いの幕が今、熱砂の地で切って落とされた。