作品タイトル不明
第13話:砂漠の白き城と、見えざる侵略
台湾・台北。
後に松山飛行場と呼ばれることになる、台北帝大航空学部の敷地内。その真新しい舗装滑走路の上で、空気を震わせる重低音が響き渡っていた。
双発の発動機の轟音の中、新城康政は、初夏の日差しを照り返す銀色の機体を静かに見上げていた。
ヨーロッパの空を飛ぶ軍用機が上下二枚の翼を持つ「 複葉機(ふくようき) 」であるのに対し、目の前の機体は空気抵抗を削ぎ落とした「 単葉機(たんようき) 」の姿を持っていた。
「各 気筒(きとう) の温度、規定値内で安定しています。基隆工廠で製作した特注のクランク軸も、計算通り寸分の狂いなく回っております。……良い燃焼音です」
分厚い測定記録から目を離し、技術者としての誇りを滲ませた声で報告したのは、内燃機関技師の二階堂 隆臣(たかおみ) であった。
かつて陸軍の気球連隊に所属し、誰よりも空の厳しさを知るこの男は、今や瑞長財団における航空発動機と特殊燃料開発の最高責任者である。
「理事。すでに完成した百五十馬力の空冷星型発動機を基礎に、圧縮比を高め、二百二十馬力まで出力を引き上げました。有効搭載量の計算上、台湾から内地の鹿児島まで、無給油で到達可能です」
康政は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「素晴らしいですね、二階堂さん。技術陣には、私から特別手当を出しておきましょう。前輪式の 降着装置(こうちゃくそうち) を採用したことで、客室の床面も水平に保たれている。これなら荷役機械による貨物の積み下ろしも、合理的に行えます」
康政の賞賛に小さく頭を下げた二階堂は、しかし発動機を見つめながら、真剣な眼差しで一つの懸念を口にした。
「ただ、この発動機の性能を引き出すには、現在の燃料では不十分です。圧縮比を高めたため、揮発性の低い粗悪な油では 異常燃焼(いじょうねんしょう) を起こす危険があります。いずれ理事が構想される『数十人を乗せて大洋を越える大型機』を実現するには、より純度が高く、発火点の最適な『次世代の航空用燃料』が不可欠になります」
「ええ、分かっています」
康政は静かに目を細めた。
「その『新たな燃料』の確保については、すでに手を打ってあります。二階堂さんは最高の機関を造ることに集中してください」
「力強い発動機の音ですわね」
ふと、日傘を差した瑞月が、静かな足取りで二人の会話に歩み寄ってきた。美貌の奥に冷徹な知略を秘めた彼女の登場に、場の空気がふっと華やぐ。
「いよいよこの機体で、内地との空路を繋ぐのですね」
「ええ。まずはこれを輸送機として、天候の安定した『昼間のみ』、台湾と内地を結ぶ物流経路として飛行実績を積んでいきます」
康政の言葉に、瑞月は涼やかな微笑みを浮かべたまま指摘を投げかけた。
「昼間のみ、ですか。康政様、財団の物流網を空にまで広げるのでしたら、昼夜を問わず飛ばした方が輸送の効率は跳ね上がります。なぜ、あえて昼間の運用に留めるおつもりですの?」
利益と効率を追求する統括代表としての合理的な疑問であった。だが、それに対して首を横に振ったのは、空の専門家である二階堂だった。
「瑞月代表。現在の 有視界飛行(ゆうしかいひこう) での夜間航行は、操縦士に死を命じるのと同じです。天候や暗闇という不確実な要素がある限り、定期航空路としては成立しません」
「二階堂さんの言う通りです。私たちの事業に、無謀な賭けは不要です」
康政は背広の懐から広域地図を取り出した。そこには台湾を出発点とし、沖縄、鹿児島、高知へと続く一直線の線上に、無数の赤い印が打たれている。
「中継点となる各地域での『電波塔』の建設工事は順調に進んでいます。軍部や逓信省との共用を条件に費用を全額こちらで持ったため、政府の認可も下りました」
「電波、ですか?」
「ええ。地上から発信する電波を機上の受信機と 回転儀(ジャイロ) に連動させ、雲の中でも夜間でも、現在位置を正確に割り出せる『見えざる空の道』です。……夜間飛行の解禁は、この航空網が完成してからです」
康政の青写真に、瑞月は感心したようにふふっと艶やかに笑った。
「なるほど。道なき空に、見えない軌道を敷く……。航空の基盤を独占してこそ、我々の商いも盤石になるということですわね」
「貨物輸送によって実証記録を蓄積し、この航空網の安全を確固たるものにできたその日こそが――」
康政は穏やかな口調のまま、滑走路の先の大空を見つめた。
「私たちの定期旅客機に、世界の要人を 賓客(ひんかく) としてお迎えする日になるのですよ」
ヨーロッパの列強が 泥沼(どろぬま) の 塹壕戦(ざんごうせん) で疲弊していく中、極東の怪物たちは、機体という「点」ではなく、航空網という「線」で次代の世界を支配しようとしていた。
一九一六年四月。中東、メソポタミア地方。
チグリス川とユーフラテス川が合流し、ペルシャ湾へと注ぐ大河を、純白の特設病院船『 美麗丸(みれいまる) 』がゆっくりと遡上していた。
その甲板から、アメリカ人記者のアーサーは双眼鏡越しに、 要衝(ようしょう) ・バスラ港の惨状を息を呑んで見下ろしていた。
気温四十度を超える熱風が吹き荒れる中、港の岸壁には 襤褸切(ぼろき) れのような姿のイギリス兵たちが無数に横たわっている。中東の要衝クートで完全包囲された数万の友軍を救出するため、幾度も突撃を繰り返し、その度に弾き返されてきた救援部隊の傷病兵たちだ。このままクートの将兵が餓死して降伏すれば、大英帝国建国以来の歴史的恥辱となる。だが、前線からバスラへ後送されてきた彼らを待っていたのもまた、敵の銃弾よりも恐ろしい飢えと病、そして深刻な水不足であった。
「ひどい有様だな。大英帝国の誇りもあったもんじゃない」
アーサーの呟きに応えるように、重厚な汽笛が泥の川に響き渡り、美麗丸が岸壁へと静かに接舷した。
渡り板が下ろされるや否や、作業着に身を包んだ財団の物流部隊が港へ展開し始める。
「おい、貴様ら! 医療品は第二区画へ運べ! 真水は将校の 天幕(てんまく) が先だ!」
混乱する港湾で、大英帝国の将校たちが威厳を保とうと、軍刀を手に怒号を飛ばしていた。世界最大の覇権国家としての、最後の意地であった。
だが、極東から来た作業員たちは、その高圧的な命令に反発することも、へりくだることもなかった。彼らはただ沈黙したまま、持ち込んだ荷役機械と計算し尽くされた 動線(どうせん) に従って、次々と物資を配置していく。
美麗丸の海水淡水化設備から汲み上げられた真水と、巨大な製氷機が作り出した氷。そして台湾で培養された感染症や化膿止めの特効薬。それらは将校の命令系統を意に介さず、最も効率的に、最も重症な者の元へ行き渡っていく。
怒鳴っていたイギリス軍の将校たちは、やがて声を失った。
自分たちの指揮がなくとも、現場は異常なほどの速さで救済され、整頓されていく。大英帝国の軍隊という巨大な組織が、財団の持ち込んだ『冷徹な兵站体制』の前に呑み込まれ、ただ立ち尽くすほかなかった。
(これが、極東の怪物のやり口か……)
アーサーは甲板からその異様な光景を写真機に収めながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
武力で制圧されたわけではない。だが、間違いなく大英帝国は、今この瞬間から「財団の物流網と技術がなければ、一日たりとも軍隊を維持できない」という支配下に置かれたのだ。
アーサーのすぐ横では、『極東公論』の腕章を巻いた気骨ある日本の新聞記者たちが、イギリス軍の惨状と財団の救済を、脚色なく写真とペンで記録し続けている。戦後の国際社会において大英帝国を沈黙させる『紙の弾丸』が、着々と製造されていた。
やがて夕闇が迫り、熱砂の熱気がようやく引き始めた頃。
アーサーは甲板から港の片隅を見下ろし、奇妙な光景を目撃した。軍の 憲兵(けんぺい) の目すら届かない区画で、財団の腕章をつけた一団が、現地調達したラクダと貨物自動車に機材を積み込んでいた。
憲兵の誰かが 咎(とが) めたのか、一団の長らしき男が愛想笑いを浮かべながら書類を見せている。アーサーの耳に「兵士たちを赤痢から守るため、地下水脈を探す井戸掘りの部隊です」という英語の言い訳が微かに聞こえてきた。
だが、アーサーは咥えていた煙草を落とし、自身の推測の恐ろしさに 戦慄(せんりつ) した。
彼らが慎重に荷台へ運び込んでいるのは、ただの井戸掘りの道具ではない。双眼鏡越しに見えたのは、見慣れぬ測量用の 経緯儀(けいいぎ) と、深層の地層を貫くための強靭な 掘削機(くっさくき) の刃。そして、広域の 地質図(ちしつず) であった。
「おいおい……嘘だろ」
大英帝国が数万の兵を失い、財団に莫大な借金をしてまでこの不毛の砂漠に執着している理由。それはただの領土的野心ではない。近い将来、世界中の軍艦と、極東の空を飛ぶであろう新しい飛行機を動かすための「新燃料」が、この砂の下に眠っているからに他ならない。
新城康政という男は、恩着せがましく大英帝国を救い、兵站で軍隊を支配下におきながら、その実、混乱に乗じて現地に地質学者を送り込み、戦後の「石油権益」の根幹となる調査記録を密かに盗み出そうと目論んでいるのだ。
「戦争の勝者は、イギリスでもドイツでもない」
アーサーの呟きは、宵闇の熱風に吹かれて砂漠の彼方へと消えていった。
領土を奪い合う旧世界の帝国主義を嘲笑うかのように、瑞長財団の見えざる侵略が、音もなく中東の砂を覆っていた。
その頃。遥か東の海に浮かぶ熱帯の島、台湾。
瑞長財団が所有する迎賓館の静かな中庭で、アリスは 藤棚(ふじだな) の影に 設(しつら) えられた白い椅子に深々と腰を沈めていた。
目の前の卓には、氷が浮かぶ紅茶が置かれている。遠くからは、港で働く起重機の音と、平和な人々のざわめきが聞こえてくる。だが、アリスの視線は宙を泳いだままであった。
(どうして、こんなに静かなの……)
目を閉じれば、今でも鋸で骨を挽く音が聞こえる。ガリポリの戦場で、叫び悶えながら息絶えていった兵士の手の感触が、手のひらに焼き付いて離れない。自分だけが安全で美しい場所にいていいのだろうかという罪悪感が、十六歳の少女の心を暗く縛り付けていた。
「アリス。お茶が 温(ぬる) くなってしまいますよ」
不意に、絹のように柔らかい声が響いた。振り返ると、銀色のお盆を持ったメイド姿の 燕(エン) と、日に焼けた顔に心配そうな笑みを浮かべた幼馴染のトーマスが立っていた。
「トーマス……燕……」
「これ、康政の提案で親父さんが 工廠(こうしょう) の連中と一緒に作った新型の 義足(ぎそく) の図面だ。アリスに見て意見を聞いてほしいってさ。現場で一番、切断手術を見てきたお前なら、どこを改良すべきか分かるはずだって」
トーマスが卓に広げた青写真。それは、財団が負傷兵のために開発しようとしている、軽く、実用的な義足の設計図であった。
「私の、意見……」
「ええ」
燕がそっと、アリスの震える手に自身の温かい手を重ねた。
「アリスが地獄で見てきたものは、消えることはありません。ですが、その悲しみを『次の命を救うための仕組み』に変えることはできます。財団の医療学校で、次の看護婦たちに前線の現実を教えること。新しい器具の開発に知恵を貸すこと。……ここで立ち止まらないことこそが、あなたが看取った兵士たちへの 弔(とむら) いになるはずです」
燕の言葉には、裏の世界で死線と向き合ってきた者だけが持つ、深く静かな重みがあった。
アリスの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちて青写真の端を濡らした。それは過去に囚われた涙ではなく、前を向くための涙であった。
「……ええ。そうね。私にしかできないことが、この島にはたくさんあるわ」
アリスが図面を真剣な目で見つめ始めたのを確信し、燕とトーマスは安堵の視線を交わした。少女は今、自身のトラウマを少し乗り越え、極東の組織の中核を担う一つの歯車として、再生の道を歩み始めた。
中東の熱砂で静かに牙を剥く冷徹な支配の裏側で、この南の島からは、次代の命を繋ぐための新たな鼓動が生まれようとしていた。