軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第29話:ウラジオストクの喧騒と、極東の巨星たち

大正七(一九一八)年、四月。

分厚い鉛色の雲が垂れ込めるウラジオストクの港町。異様な熱気と 喧騒(けんそう) が、凍てつく空気を震わせている。

数日前に発生した居留民殺害事件を機に、停泊していた軍艦から日本海軍の陸戦隊、そしてイギリス軍の兵士たちが上陸を果たした。銃剣を煌めかせた他国の軍隊が石畳を巡回し、街の至る所で現地の革命派兵士たちと鋭い視線を交え、一触即発の 火花(ひばな) を散らす。

その物々しい警戒網の只中を、数人のロシア人たちがひっそりと進んでいた。

トボリスクの運送組合の元締と、その家族たちである。彼らは極寒の原野を抜け、過酷な逃避行の末にこの極東の港へ辿り着いた。懐には、燕から手渡された金貨の重みがある。

やがて一行は、港の目抜き通りに建つ重厚な煉瓦造りの商館の前に立ち止まる。真鍮の 銘板(めいばん) に刻まれているのは、『瑞長財団』の文字。

木扉を押し開けると、外の怒号が嘘のように静まり返った空間が広がっていた。元締が受付の男に一通の封筒を差し出すと、奥から仕立ての良い背広を着た東洋人の男が現れる。ウラジオストク支部長である。

「よくぞご無事で。本部から、連絡を受けておりました」

支部長が流暢なロシア語で微笑みかけると、元締は張り詰めていた肩の力を抜き、その場に崩れ落ちそうになった。

「約束通り、受け入れてくれるのか。道中、何度過激派の秘密警察に追われているかと生きた心地がしなかった」

「ご安心を。我々に忠誠を尽くした方を、決して見捨てはしません」

支部長は穏やかな笑みを崩さず、彼らを奥の控室へと招き入れた。

「まずは温かい肉の汁物と、熱い湯浴みをご用意しております。長きに渡るシベリアの汚れと疲れを、どうかゆっくりと落としてください。あとの実務は、すべて我々が引き受けます」

湯気の立つ椀を手渡され、その温もりが凍えた掌にじんわりと伝わった瞬間。元締の妻が堪えきれずに 嗚咽(おえつ) を漏らし、震える両手で椀を包み込んだ。

数日後。

ウラジオストク港は、日英両軍の軍需物資を陸揚げする巨大な 起重機(きじゅうき) の駆動音と、飛び交う怒号で大混乱に陥っている。

港湾の要所には列強の憲兵たちが立ち並び、厳しい検問を行っていた。その物々しい門前へ、数日間の休息で生気を取り戻した元締たちが、財団の職員に付き添われて真っ直ぐに歩み寄る。

銃を構えたイギリス軍の将校が鋭い声で誰何した。しかし、支部長が分厚い書類の束、財団の公式な身元保証書と、連合国側へ手配を済ませた渡航許可証を提示すると、将校は書類に押された『瑞長財団』の 封蝋(ふうろう) を確認し、すぐさま道を空ける。

身を潜める必要などどこにもない。軍隊が入り乱れる厳戒態勢の港を、彼らは足を止められることなく通過した。財団が長年築き上げた資本と信用の力は、他国の銃剣の壁すらも容易く開け放ってみせた。

元締たちは、沖合に停泊する財団の大型客船へと無事に乗り込む。

出航の重い汽笛が港に響き渡る。甲板に立った元締は、海風に吹かれながら、遠ざかる凍てついた祖国を見つめた。

船尾が引く白い航跡が、ロシア国内に残る皇帝救出の記憶を、一つ残らず冷たい波の底へと運び去っていく。

四月下旬。日本、横浜沖。

穏やかな波に揺れる洋上に、偽装を施された大型の潜水艦救難艦『 安平(あんぴん) 』が音もなく錨を下ろしていた。

横付けされた目立たぬ 内火艇(うちびてい) から、外套を着込んだ男たちが次々と舷側の 舷梯(タラップ) を登ってくる。出迎えた和也の丁重な案内に従い、彼らは最上甲板の奥にしつらえられた貴賓室へと足を踏み入れた。

分厚い 絨毯(じゅうたん) を踏みしめ、室内に揃った六人の男たち。

伊藤博文、児玉源太郎、山本権兵衛、加藤友三郎、後藤新平、そして渋沢栄一。大日本帝国という国家の行く末を握る、六人の巨星である。

和也が重厚な扉を開き、室内の奥へと視線を促す。

革張りの長椅子に腰を下ろしていたのは、青白い顔に深い疲労を滲ませながらも、拭い去れぬ気品を纏った初老の男。ロシアの元皇帝ニコライ二世と、その家族の姿であった。

「……まさか本当に、シベリアの奥底から連れ帰るとはな」

伊藤博文が白髭を撫でながら、低く感嘆の息を漏らす。

「軍隊を動かさず、実務だけでやりおったわ。我々が裏で海軍や外務省を抑え込んだことも、この偉業の前にあっては、ほんの些末な手伝いにすぎんな」

児玉源太郎が、悪戯を成功させた少年のように目を細めた。

その後方で、巨大な体躯を持つ山本権兵衛の喉の奥から、地鳴りのような笑い声が漏れる。

「新城……。十七年前、精養軒の部屋でお前とあの坊主が広げた『箱』の構想は、波打ち際で止まるどころか、海を越えて歴史そのものを運び出しおったか」

一方、何も知らされずにこの場へ招かれた後藤新平、渋沢栄一、そして現役海相である加藤友三郎の三人は、ただ絶句し、目の前の光景に釘付けになっていた。

大英帝国の軍艦すら近づけなかった地から、一介の民間組織が皇帝一家の命を運び出した。その事実の重さに、渋沢の持つ杖の先が微かに震え、厚い絨毯に沈み込んでいる。

重い沈黙の中、皇帝一家の傍らに控えていた燕が、白磁の茶器に温かな湯を注ぎ、アナスタシアの手にそっと握らせた。数ヶ月に及ぶ死の淵からこの横浜沖まで、常に一家の傍で実務を差配し続けてきた彼女の存在は、ニコライたちにとって何よりの安心の証であった。

長椅子からゆっくりと立ち上がったニコライが、六人の男たちと和也に向けて口を開く。

「欧州の親族すら我々を見捨てたというのに……君たちは、極寒の地から我々をこの温かな海へ導いてくれた」

ニコライの深く響くロシア語を、燕が澄んだ声で、淀みなく日本語へと紡いでいく。

「私はこの旅で、確かな信義と、旧来の権威や武力に代わる『新しい時代の力』を、この目で見た。極東の財団の皆様に、心からの敬意を」

燕の通訳を通じ、元皇帝の重い言葉が室内に浸透していく。

それを受け、和也がおもむろに歩み出た。

彼は誇るでもなく、威圧するでもない。かつての上司である後藤新平へ敬意を払いながらも、瑞長財団という組織のトップとしての揺るぎない威厳を纏い、六人の重鎮へ向けて口を開いた。

「我々極東の財団は、ただ皇帝陛下をこの安全なる海へとお迎えしたまででございます。武力だけが国や尊き御方を護る盾ではないという、一つの証明にすぎません」

和也の低く透き通るような声が、貴賓室の空気を満たしていく。和也は柔らかな笑みを浮かべ、六人の巨星たちへ向き直った。

「さあ、皆様。温かな紅茶を用意しております」

和也の合図で、燕が落ち着いた所作で琥珀色のロシア紅茶を配り始める。

共に卓上に開かれたのは、 螺鈿(らでん) 細工が施された美しい重箱であった。中には、淡い緑色をした上品な緑豆の 落雁(らくがん) と、黄金色に輝く 鳳梨(ほうり) を煮詰めた焼き菓子が並んでいる。

過酷な逃避行の末にもたらされた南国の甘味に、アナスタシアが一口食べてふわりと顔をころばせた。その様子にニコライやアレクサンドラも穏やかに目を細め、緊張がゆっくりと解きほぐされていく。

一方、その独特な甘い香りを感じ取った児玉源太郎と後藤新平は、「……台湾の香りだ」と懐かしげに目を合わせ、和也へ向けて小さく杯を上げるように微笑みかけた。

皇帝一家と、日本の国家の行く末を握る六人の巨星たち。かつては国を挙げて戦った者たちが、今や極東の一財団が用意した船室で、同じ円卓を囲み、和やかに茶器を傾け合っている。

伊藤博文がニコライに敬意を込めてそっと杯を掲げ、加藤友三郎は紅茶の香りを楽しみながらも、この巨大な艦の精巧な造りに鋭い視線を這わせていた。渋沢栄一や後藤新平は、この和やかな茶会の空気を肌で感じながら、互いに視線を交わす。彼らの目には、もはやこの男の描く未来に同乗する以外の選択肢が存在しないという、声なき驚きと覚悟が宿っていた。

「陛下。台湾では、総督である乃木希典が皆様の到着を万全の態勢でお待ちしております」

燕の通訳を介した和也の言葉に、ニコライは黙って目を閉じ、安堵の表情で頷きを返した。

やがて、会談を終えた六人の男たちを乗せた内火艇が、霧の立ち込める横浜港へと戻っていく。

甲板に立つ和也と燕の背後で、『安平』の太い汽笛が海面を震わせた。分厚い雲の隙間から一筋の陽光が差し込み、巨大な艦の船首が、新しい安住の地たる南へ向けてゆっくりと旋回を始めた。