軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第28話:オビ湾の黒鋼と、母艦『安平』への帰還

大正七(一九一八)年、四月下旬。

二千キロに及ぶ大河の旅の果て、 偽装(ぎそう) を施された川舟は、ついに北極海へと連なる巨大な河口、オビ湾へと辿り着いた。海面を覆っていた分厚い氷はすでに溶け去り、雪解けの泥水と 荒波(あらなみ) が容赦なく船体を揺らし続けている。冷たい海風が 帆柱(ほばしら) を軋ませ、暗く沈んだ空からは細かな雪が舞い落ちていた。

深夜。揺れる船倉で、燕は分厚い防湿の木箱を静かに開いた。中から姿を現したのは、精巧な配線が施された最新鋭の 通信機(つうしんき) である。各国の軍隊がいまだ火花と耳障りな騒音を撒き散らす送信機に頼る中、その機械には 繊細(せんさい) なガラスの筒がいくつも組み込まれている。

燕が 電源(でんげん) を繋ぎ、慎重に 開閉器(スイッチ) を入れるとガラスの筒、 真空管(しんくうかん) が微かに熱を帯び、 仄(ほの) かな朱い光を放ち始めた。

凍える指先を 電鍵(でんけん) に添え、燕はガラスの灯りを見つめる。事前に取り決められた、限られた時間帯の定時連絡。沖合で浮上し、受信態勢を整えているはずの味方へ向け、彼女は短く明瞭な暗号を打ち込み始めた。

雑音の海を越え、目に見えぬ 電信(でんしん) の波がオビ湾の暗闇へと放たれていく。やがて、耳に当てた受話器の奥から、微かだが確かな応答の信号音が返ってきた。見えない橋が繋がった。燕は小さく息を吐き、無言のまま傍らの特務班に頷きを返した。

数時間後。川舟は海図と 羅針盤(らしんばん) だけを頼りに、オビ湾に突き出た特徴的な無人の 岬(みさき) の先へと到着し、波に揉まれながら錨を下ろしていた。やがて、岬の先の海面が不自然に大きく盛り上がった。白く砕ける波濤を割り、海中から巨大な黒い影が静かに 浮上(ふじょう) してくる。 重油機関(ディーゼル) の重々しい排気音が低く響き渡り、濃密な油の匂いが極寒の海風に混じった。

排水量千二百トン、全長七十メートル。水の抵抗を減らすため、甲板には大砲一つ備えられていない。ただ滑らかな 流線型(りゅうせんけい) を描くその黒鋼の船体は、暗い波間に浮かぶ伝説の巨魚を思わせた。

財団が保有する試製特殊潜水艦『 大鯤(たいこん) 』。艦橋の 昇降口(ハッチ) が開き、分厚い外套を着込んだ乗員が手回しの発光信号で合図を送る。事前の綿密な段取りと、寸分の狂いもない航海術がもたらした合流であった。特務班が素早く 纜(ともづな) を投げ渡し、川舟は巨大な鉄鯨の横腹へと静かに 接舷(せつげん) した。

激しく揺れる渡り板を踏み越え、皇帝一家は次々と『大鯤』の内部へと導かれた。艦橋からの狭い梯子を降りたニコライ二世は、通路に足を踏み入れた瞬間、思わず立ち尽くした。むき出しの鋼鉄。しかし、そこを走る無数の配管は恐ろしいほど整然と束ねられ、壁に並ぶ計器類は一つとして曇りなく 精緻(せいち) な針を刻んでいる。微かなオゾンの匂いと重油の熱気が、研ぎ澄まされた刃物のような空間の空気を生み出していた。

かつて彼が 閲兵(えっぺい) したロシア帝国海軍のどの最新鋭艦よりも、この艦の造りは理にかなっている。一介の東洋の商会が、これほどの艦を建造し、シベリアの果てで運用している。ニコライの視線が、壁面に真鍮で打ち込まれた『大鯤』の 銘板(めいばん) に落ちた。

神から与えられたと信じていた王冠や、連綿と続く血統の 威光(いこう) 。それらが革命という濁流に呑み込まれていく中、彼の目の前に存在するこの黒鋼の塊は、生まれの尊さとは無縁の場所で生み出されたものだった。莫大な資本と、冷徹なまでに研ぎ澄まされた技術力。新しい時代を牽引していくのは、もはや玉座の権威などではなく、こうした緻密な実務の力なのだと、元皇帝は深い沈黙の中で静かに悟った。

全員の移乗を見届けた特務班は、外の海面で最後の仕事に取り掛かっていた。もぬけの殻となった川舟の底へ降りた男たちが、船底の注水弁を大きく開放する。冷たく濁った海水が猛烈な勢いで船倉へと流れ込み、木板を軋ませた。男たちが素早く『大鯤』へ戻ると、偽装川舟は音を立てて傾き、やがてオビ湾の黒い海面下へと姿を消した。沈没の痕跡すら、荒れる波が即座に掻き消していく。追手が辿るべき手がかりは、海に葬られた。川舟の影が消えると、『大鯤』は浮上したまま重油機関の出力を上げ、夜のオビ湾を北上し始めた。艦全体を力強い振動が包み込む。

「陛下、こちらへ」

白衣姿の高柳が、通路の奥へと一家を促す。分厚い 防爆隔壁(ぼうばくかくへき) の扉を開くと、そこには艦特有の冷気や結露から遮断された、暖かく清潔な 貴賓区画(きひんくかく) が広がっていた。床には毛足の短い敷物が敷かれ、壁板には柔らかな布張りが施されている。

「殿下をこちらの寝台へ。もはや追手の銃声を気にする必要はありません」

アレクセイが柔らかい白麻の寝台に横たえられると、高柳は 傍(かたわ) らの皇后アレクサンドラと皇女たちに向け、静かに告げた。

「この海域を抜け、深く潜るまでは重油機関を回し続けます。機関が動いている今のうちに、奥の 浴室(よくしつ) をお使いください」

案内された先には、狭いながらも磨き上げられた配管が通う温水室があった。真水は艦の命綱であるため、無闇には使えない。だが、力強く稼働する機関の膨大な排熱を利用して海水を温め、その湯で汚れを落とした後に、最後に少量の真水の温水で潮を流すという工夫が凝らされていた。アナスタシアが 栓(せん) を捻ると、温かな海水が勢いよく降り注いだ。数ヶ月にわたって身体にこびりついていたシベリアの凍てつく泥と、いつ処刑されるかという死の恐怖。それらが、温かな湯気と共に足元の排水溝へと吸い込まれていく。

「……ああ……」

アレクサンドラが両手で顔を覆い、声にならない 嗚咽(おえつ) を漏らした。それは、彼女たちが人間としての尊厳をようやく取り戻した、確かな安堵の涙であった。

艦は浮上航行を続け、波を切り裂いて進む。落ち着きを取り戻し、清潔な衣服に着替えた一家のいる貴賓区画を、燕が静かに訪れた。ニコライ二世は二年前の冬宮での出会いを思い返し、深く頭を下げた。

「君たちに、そして極東の瑞長財団に心からの礼を言う。だが……欧州の親族すら我々を見捨てたというのに、なぜ康政殿はこれほどの危険を冒してまで、我々を救う決断をしたのだ」

皇帝の問いに、燕は背筋を伸ばし、静かな声で答えた。

「当主は、一度結んだ信義を重んじる方です。かつて我が財団が医療支援に赴いた際、陛下からいただいた真摯な 友誼(ゆうぎ) を、世界が背を向けたからといって、我々が反故にするわけにはいきません」

ニコライは小さく息を呑み、力なく微笑んだ。国と国との冷酷な駆け引きの中で失われて久しい、信義という重み。それを極東の一商会が命懸けで守り抜いたという事実に、彼は深く胸を打たれていた。

「……我々は、これからどこへ向かうのか」

「遥か南。台湾という暖かな島です」

燕の言葉に、アナスタシアが顔を上げた。

「台湾……」

「はい。皆様の今後の生活は、我々が責任を持って保障いたします。何も憂うことはありません」

その言葉に、極寒の地で死を待つばかりだった少女の瞳に、かすかな希望の光が宿った。

やがて『大鯤』は、沿岸の監視網が及ぶ警戒水域と、北極海特有の残存する流氷帯へと差し掛かった。艦体を震わせていた重油機関の鼓動が止まり、 一瞬(いっしゅん) の静寂が訪れる。大容量の 鉛蓄電池(なまりちくでんち) から動力が供給され、床下から低く力強い 電動機(モーター) の駆動音が響き始めた。ゴボゴボという 注水音(ちゅうすいおん) と共に艦の傾きが変わり、黒鋼の船体は波の間に沈み込んだ。いかなる監視の目も届かぬ、深く冷たい海の底への 潜航(せんこう) が始まった。

ここから先は、氷の下の息詰まる潜航と、浮上充電の繰り返しである。

財団が独自に開発した水中 聴音器(ちょうおんき) で氷の薄い場所や 裂(さ) け目を探り、安全な海面を見極めて浮上する。重油機関を回して蓄電池へ充電し、夜の闇が訪れるのを待って再び潜航に移る。潜航中、時おり流氷が船体を 擦(かす) める。氷の 底(てい) が鋼板をなぞるたび、 軋(きし) むような低い音が艦内に響く。だが、流線型に 剃刀(かみそり) の如く研ぎ澄まされた船殻が、その圧力を滑らかに受け流す。耐圧殻に傷が付くことは無かった。

数週間の旅路を越え、試製特殊潜水艦『大鯤』はユーラシア大陸の東の果て、ベーリング海へと躍り出る。分厚い海氷が途切れ、外洋の荒波の中へ浮上した黒鋼の潜水艦。その目前には、すでに指定座標で待機していた巨大な船影が横たわっていた。潜水艇救難艦『 安平(あんぴん) 』。うねる海上で二隻の船が慎重に横付けされると、太い送油管が這わされ、大量の重油が『大鯤』の腹へと補給されていく。洋上のいかなる場所でも活動を維持できる、財団のすさまじい兵站の力であった。

皇帝一家は、太陽の光が降り注ぎ、広い客室を備えた『安平』へと移乗した。潮風が吹き抜ける広々とした甲板に立ち、ニコライ二世と燕は、大きく旋回する船首を見つめた。羅針盤の針が、遥か南を指し示す。シベリアの凍てつく海から、新しい安住の地への航海が始まった。

時を同じくして、遥か南の台湾。瑞長財団本部。太平洋を越えて届いた『安平』からの強力な無線電信が暗号解読され、一葉の紙片となって康政の執務室へと届けられた。

『作戦成功、対象ト共ニ帰還ノ途ニツク』

その短い一文に目を通した康政は、長く張り詰めていた息を静かに吐き出し、深く椅子に背を預けた。開け放たれた窓からは、南国の眩しい陽光と、果てしなく広がる青い海が見える。一つの大帝国が終焉を迎え、彼らの一家がこの島へやってくる。それは、財団が世界の歴史の裏側で、途方もない重荷を背負ったことを意味していた。康政は波の音に耳を傾けながら、来るべき新しい時代を見据え、静かに目を閉じた。