作品タイトル不明
第19話:大戦の狂騒と、十五年目の城壁
大正五(一九一六)年、十二月。
海から吹き付ける身を切るような冬風の中、横浜港の岸壁には一隻の貨客船がその 威容(いよう) を休めていた。
極東の 凍土(とうど) から帰還した『瑞長丸』。政府の特命全権大使である後藤新平らを見送った後も、船は補給のために港に留まっている。厚い鋼鉄の壁に守られた客室には、外の冷気とは無縁の、穏やかで温かな台湾茶の香りが満ちていた。
「康政くん、無事に帰ってきてくれて本当に良かった」
「ああ。またお前は、俺たちの想像もつかないような 盤面(ばんめん) を動かしてきたんだろう?」
長椅子(ソファ) に深く腰を下ろし、安堵の笑みを浮かべる橘響子と、快活に肩を揺らす陸軍将校の制服姿の御子柴。その隣では、久世が湯呑みの温もりを両手で確かめながら、静かに頷いている。
台湾の尋常小学校時代からの学友たち。彼らの変わらぬ姿に、康政は極東で張り詰めていた実務家としての強張りを解き、二十歳の青年としての柔らかな微笑みを返した。
「皆も、変わりないようで何よりです。……帝都の窮屈な空気には、当てられていませんか」
「相変わらずだな、新城君は。君の言う通り、今の帝都はひどく息苦しいよ」
久世の隣でそう応じたのは、一高時代から彼らと親交を結んでいる若き公爵、近衛文麿であった。
近衛は出された茶を一口 啜(すす) り、柔らかな微笑の奥に鋭い知性の光を宿して康政を見つめた。
「欧州の大戦特需で、今の日本は空前の好景気だ。鉄と船の値段は跳ね上がり、昨日までの平民が『 船成金(ふななりきん) 』として夜な夜な札束をばら撒いている。……新城君。今夜、君は渋沢翁の夜会に招かれているね」
「ええ。十五年前の恩義がありますから、ご挨拶に伺うつもりです」
「気をつけることだ。大戦景気に浮かれる帝都の 有象無象(うぞうむぞう) は、君がロシアから持ち帰った権益と、台湾の船を、群れなす獣のように狙っている」
近衛の静かな忠告に、康政は伏し目がちに小さく頷いた。
「気合いや精神論で船が動くわけではないというのに、今の 内地(ないち) は少し熱に浮かされすぎている」
不意に、部屋の隅で背筋を伸ばして座っていた青年が、重い口を開いた。栗林忠道である。彼の纏う軍服には、帝都の喧騒とは無縁の、実直なまでの生真面目さが染み付いている。
「陸軍の内部も同じだ。兵器の質や補給の数字よりも、ただ気合いを説く空気ばかりが蔓延している。……新城、君が極東の鉄道と港湾を実務で押さえてきたと聞いた。どれほど声高に理想を叫ぼうと、君の築く揺るぎない土台がなければ、国は戦うことすらできんというのに」
「栗林さんの言う通りです。 兵站(へいたん) とは、命そのものですから」
康政は静かに応じ、再び彼らの湯呑みに温かい茶を注いだ。
客室の少し離れた窓際では、五年前に銀座の洋食屋で彼らを見守った時と同じように、瑞月が静かに紅茶を口に運んでいる。彼女の存在が、外の喧騒から若者たちの穏やかな時間を切り離す、見えない防壁となっていた。
その夜。帝都の中心に位置する 豪奢(ごうしゃ) な華族の邸宅は、目が眩むような黄金の光と、泡立つ 西洋酒(シャンパン) 、そして人々の熱狂的なざわめきに包まれていた。
軍需景気と海運特需によって巨万の富を得た新興の実業家たちが、仕立てたばかりの燕尾服や 夜会服(ドレス) を身に纏い、己の成功を声高に誇示し合っている。葉巻の煙と香水が混じり合う、むせ返るような空間。
そこへ、重厚な木製の両開き扉が静かに開いた。
入り口に姿を現したのは、 漆黒(しっこく) の夜会服に身を包んだ康政と、夜の海のように深い藍色の 洋装(ドレス) を纏う瑞月。そして彼らの背後には、一分の隙もない仕立ての背広を着こなす霧島と、闇に溶け込むような黒の洋装に身を包んだ燕が、静かに付き従っていた。
四人はただ歩みを進めているだけで、何一つ威圧的な態度をとっていない。しかし、極東の厳しい気候と死線を越えてきた者特有の 静謐(せいひつ) な 佇(たたず) まいは、浮足立った会場の空気の中で明らかに異質だった。彼らが纏う洗練された実務家の空気に、欲に目が眩んだ者たちすらも無意識のうちに道を譲り、迂闊に声をかけることすらできずに遠巻きに見つめるしかなかった。
その静かな空間へ、真っ先に歩み寄ってきたのは下世話な成金などではなかった。
「新城殿、お見事な 威風(いふう) ですな。極東でのご苦労、お察しいたします」
恰幅(かっぷく) の良い 体躯(たいく) に、商人の抜け目なさと野心を併せ持つ男、神戸の豪商・川西清兵衛である。そして彼の隣には、燃えるような眼差しで康政を見つめる、若き海軍の技術将校の姿があった。
「お初にお目にかかります、川西殿。神戸でのご活躍は、台湾にまで届いております」
康政が穏やかに一礼すると、川西も深く頷き、隣の青年を手で示した。
「新城代表にお目にかかれて光栄です。……こちらは中島知久平大尉。これからの時代を担う、『空の船』の才覚に溢れた男です」
「新城代表。貴財団が台湾で製造し、フランスへ納入しているという『百五十馬力空冷発動機』……あの規格と精度は、現在の内地の 工廠(こうしょう) では到底真似できるものではありません。どうか、あの技術の結晶を、この中島に見せてはいただけないか」
中島は身を乗り出すようにして、純粋な熱意を口にした。
康政は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと 首肯(しゅこう) した。
「中島大尉の熱意、そして川西殿の 先見(せんけん) の明に、深く敬意を表します。あの発動機は、いずれ内地の空を飛ぶ機体にも必要とされる日が来るでしょう。喜んで、技術の交流を持たせていただきます」
中島の顔にパッと朱が差したが、康政の次の言葉がその場を静かに引き締めた。
「ただ、その翼は他国を侵す槍ではなく、あくまで島国である我が国を守る『強固な盾』であってほしいと願います。中島大尉には陸の空を、そして川西殿には、いずれ長大な海路を結ぶ……巨大な『 飛行艇(ひこうてい) 』の夢を託してみたいのですが、いかがでしょうか」
康政の言葉に、川西の目が驚きに見開かれ、やがて深く、重々しく頷いた。
二人が去った後、今度は極めて洗練された足取りで初老の紳士が近づいてきた。
「空の次は、命の土台というわけですかな」
アメリカで工学を学んだ知性を漂わせる、三井財閥の総帥・ 團琢磨(だんたくま) である。そして彼の傍らには、後藤新平の縁に連なる製薬王、星一の姿があった。
團琢磨は優雅に硝子杯を掲げ、口元に微かな笑みを浮かべた。
「台湾でのペニシリンの開発と、その国内への製法の公開。財界の一員として、心より感謝申し上げます。星殿も、新城殿の衛生への取り組みには一目置かれておりましてな」
「過分なお言葉です、團殿、星殿。我々も、内地の医療発展に寄与できたことを誇りに思います」
康政が頭を下げる。星が進み出て、熱を帯びた声で語りかけた。
「新城君。君の財団が創り出す薬は、間違いなく衛生の形を変える。我々星製薬もまた、薬学による報国を掲げている。いずれ、君の知識と我々の生産力を結集する日が来るやもしれんな」
「……ええ。薬とは、平時だけではなく、いずれ来る不測の事態にこそ真価が問われるものです」
康政の声は静かで、波一つ立っていなかった。
「いざ国難が訪れた際、我々一介の商会では到底手が足りません。その時はどうか、星製薬の誇る巨大な生産力と、三井の持つ全国への物流網のお力をお貸しいただきたいのです」
静かに、しかし深い祈りのような響きを持った言葉。その奥にある果てしない視野の広さに、星と團は息を呑み、静かに感嘆の息を漏らした。
喧騒を遠く離れた、冷たい夜風が吹き抜ける 露台(バルコニー) 。
康政たちがそこへ出ると、すでに一人の老人が 杖(ステッキ) の両手に体重をかけ、夜の庭園を見下ろしていた。
「……十五年前の神童は、見事な実務家へと育ったようだな」
日本資本主義の父、渋沢栄一。老境に入り白髪が増えたその 双眸(そうぼう) は、十五年前の第一国立銀行の頭取室で康政を射抜いた時と同じ光を保っていた。
「お招きいただき、光栄に存じます。渋沢翁」
康政は深く頭を下げる。瑞月もまた、美しい所作で一礼した。
渋沢は、二十歳の青年となった康政の顔をじっと見上げ、静かに息を吐いた。
「十五年前、君は私の机で木片を並べて『外の国から守る城壁だ』と言った。……今度はシベリアの凍土に、本物の壁を築いてきたというわけか」
「巨大な帝国は、遠からず崩れ落ちます。その衝撃から我々の荷と人を守るためには、紙の契約ではなく、物理的な防波堤が必要でした」
康政は何も飾らず、純粋な実務の論理として答える。
渋沢は、室内の 煌(きら) びやかな会場を一瞥した。
「今の日本は、目先の金に酔って、己の足元がどれほど 脆(もろ) いかにも気づいておらん。だが、君は違う。先ほどの川西や星たちとのやり取り……君はすでに、次の時代の荒波を見据え、静かに縁を結んでいる」
渋沢は 杖(ステッキ) を突き直し、夜気の中で真っ直ぐに立ち上がった。
「外の過酷な荒波は、君たちの築く城壁に任せよう。その代わり、内の土台たるこの国の経済は、我々が命に代えても支え抜く。……共に、この国の未来を背負ってくれ、新城君」
その言葉は、世代を繋ぐ同志としての重い誓いであった。
数日後。内地の 柵(しがらみ) をあっさりと切り捨てた『瑞長丸』は、冬の日本を背にして、温暖な本拠地・台湾の基隆港へと帰還していた。
海風が吹き抜ける巨大な港湾。そこには、大戦景気に浮かれ、目先の金に 狂奔(きょうほん) していた帝都とは対照的な、生産の情景が広がっていた。
造船 船渠(ドック) では、欧州へ向けて売却される「新城型輸送艦」が進水の時を待ち、内陸の工廠からは、昼夜を問わず発動機の規則正しい燃焼音が響き渡っている。ここから遥か遠く離れた欧州の海では、財団の象徴である二万トン級病院船が、戦火の中で無数の命を救い続けている。
舷梯(タラップ) を降りた康政は、鉄と油、そして人々の熱気に包まれた故郷の風を深く吸い込んだ。