軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第18話:凍土の楔と、実務家たちの蹂躙

ペトログラードでの 謁見(えっけん) を終えた特別列車は、車窓に厚い霜を張り付かせながら、吹雪のシベリア鉄道を東へ向かってひた走っていた。

車輪が凍てつく鉄路を叩く重い音が、客車の中に響き続ける。

皇帝から 賜(たまわ) った「全権委任状」は、現時点ではインクの乗った紙切れに過ぎない。この紙が持つ 威光(いこう) の熱が冷め、ロシアの分厚い官僚機構の中に埋もれる前に、確固たる実効支配の拠点へと変えていく必要があった。

列車が、オビ川流域の物流の 要衝(ようしょう) ・チュメニ駅に停車した時のことだ。

駅の管理司令室。石炭 暖炉(だんろ) のむせ返るような熱気の中、重厚な執務机越しに座る地元の管区司令官は、冷ややかな笑みを浮かべて日本の使節団を見下していた。

「申し訳ないが、東洋からの客人。現在は戦時下でありましてな。外国の民間団体に駅の倉庫群を割り当てるには、管区司令部からの『特別な承認』と……それ相応の審査の時間がかかります。もっとも、その時間を短縮するための『手数料』というものも存在しますがね」

煩雑(はんざつ) な手続きを盾にした、手慣れた 賄賂(わいろ) の要求。まともに取り合えば、数ヶ月は書類の山の中でたらい回しにされる。

康政は、司令官の顔に浮かぶ 卑俗(ひぞく) な欲の光を見据えたまま、表情一つ変えずに頷いた。

「おっしゃる通りです。前線の兵を支える貴官らの労苦、察するに余りある。ですから、我々はその手続きの手間を省いてまいりました」

康政は革の筒から一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、机の上に滑らせた。

司令官は煩わしそうにため息をつき、その書類に目を落とし、ぴたりと息を止めた。

そこに押されていたのは、双頭の鷲の紋章。末尾にはロシア帝国最高権力者、ニコライ二世の直筆による 裁可(さいか) の 署名(しょめい) が記されている。

司令官の顔から、さっと血の気が引くのが見えた。喉仏が上下し、脂ぎった額に冷たい汗が滲む。この書類を無視して手続きを引き延ばせば、軍法会議すら経ない即決の銃殺刑が待っている。

「こ、これは……」

「ええ。その『特別な承認』です」

かすれた声を絞り出す司令官の前に、音もなく進み出たのは、法務担当の霧島であった。

彼は手にした革 鞄(かばん) を開き、ロシア帝国の法律に 則(のっと) って隙間なく作成された『チュメニ駅周辺の土地および倉庫群の貸与契約書』を机に並べる。

「さて、司令官殿。貴官が過去半年にわたり、帳簿上で『 損耗(そんもう) 』として処理した三千トン分の小麦の行方について、 憲兵隊(けんぺいたい) に報告する手間も省きましょうか。それとも、こちらの施設貸与契約書に直ちに署名をなさいますか?」

司令官の肩がびくりと跳ねた。

「……す、すぐに、手続きを……」

震える手で万年筆を握り、司令官はひきつった顔で契約書に自らの名を記す。

怒号が飛び交うことも、憲兵が雪崩れ込んでくることもない。霧島の冷たく事務的な手続きの連続によって、チュメニの駅一帯は、合法的に財団の「 治外法権(ちがいほうけん) 区域」として切り取られた。

同じ頃、チュメニの市街地にある薄暗い酒場では、別の 掌握(しょうあく) が進んでいた。

安酒とカビの臭いが染み付いた土間に集められていたのは、現地の 運送組合(アルテリ) を束ねる労働者たちの顔役である。連日の過酷な労働と、政府からの配給停止により、屈強な男たちの目は飢えと怒りで血走っていた。

張り詰めた暴力の気配が漂う空間へ、 漆黒(しっこく) の和服を纏った瑞月が、衣擦れの音をさせてふわりと腰を下ろす。その後ろには、屈強な体格をした通訳の特務員が影のように控えている。

「おい、東洋の女。俺たちを 同盟罷業(どうめいひぎょう) から引き戻したいなら、 御託(ごたく) じゃなく麦を持ってこい。言葉じゃ腹は膨れねえんだ」

顔役の一人が、テーブルに拳を叩きつけてロシア語で 凄(すご) む。

瑞月は、通訳が耳打ちするよりも早く、相手の荒い語気と聞き取れる簡単な単語から要求を正確に察した。帯の乱れをそっと直し、扇子で口元を隠して優雅に微笑む。

「ええ。ですから、外の貨車を見てごらんなさい」

瑞月が落ち着いた日本語で告げると、すかさず特務員がドスを効かせたロシア語で男たちへ言い放つ。

男たちが疑わしげに窓の外を見ると、そこには 先遣隊(せんけんたい) が手配していた大量の小麦粉の袋、木箱に詰められた肉の缶詰、凍傷を防ぐための医療品、そして真新しい分厚い 外套(がいとう) が、雪を避けるように積まれていた。

「これらがすべて、今日からあなた方の家族のものになります。冬を越すための 薪(まき) も、我々が保証いたしましょう。その代わり、」

瑞月の瞳が、すっと細められる。通訳の声が響くより先に、その視線の鋭さだけで、顔役の男たちが思わず息を呑む。

「あなた方の命と忠誠は、我が瑞長財団が買い上げます。政府の理不尽な命令ではなく、我々の荷を最優先で運ぶのです」

通訳の冷徹なロシア語が酒場に落ちる。男たちは無言のまま互いの顔を見合わせ、やがて深く首を縦に振った。

瑞月の差し出した恩恵と、言葉の壁を越える強烈な威圧感。そして霧島が背後で隙なく結んだ雇用契約。彼らの連携により、チュメニの荒くれ者たちは財団の実働部隊として取り込まれた。

数日後。ユーラシア大陸を横断しきった一行は、極東の玄関口・沿海州のウラジオストクへと到着した。

康政たちが海風の吹き荒れる巨大な港で目にしたものは、帝国の物流が迎えた終着点の姿であった。

「これが、現実ですか」

港湾部には、日本やアメリカから送られた大砲、鋼鉄の部品、弾薬の入った木箱が、雪に埋もれて小山のようにうず高く積まれている。雨ざらしになった鉄は無残に錆びつき、木箱は腐り始めている。シベリア鉄道の輸送力が限界を超え、前線へ送る術を失った物資の成れの果て。まさに 兵站(へいたん) の墓場であった。

ウラジオストク港湾管理局の長官室。

連日の激務と重圧で顔色を土のようにした白髪の長官が、山積みの 積荷目録(つみにもくろく) に囲まれて頭を抱えていた。

「悪いが、日本からの支援物資はもう受け取れん。見ての通り、港の物流はすでに 麻痺(まひ) しておる。機関車も足りず、貨車も戻ってこない。私を銃殺してもらって構わんから、どうか帰ってくれ」

長官は虚ろな目で書類の山を見つめ、 自暴自棄(じぼうじき) に嘆く。彼を法務で脅しても、この物理的な詰まりは解消しない。

康政は歩み寄り、長官の机に積まれた書類の束を手に取って目を通した。

「長官殿。あなたは水を流すために、土砂で詰まった配管にさらに圧力をかけようとしている。それでは破裂するだけです」

「なんだと……?」

「大砲や鋼鉄など、前線ですぐに必要ない重貨物の輸送指定を解除しなさい。それらは空になった日本の輸送船を臨時の浮き倉庫として再積載します。その代わり、チュメニで我々が手配した運送組合の労働力と馬車を使い、軽量の食糧と医療品のみを小回りの利く貨車で休むことなく 反復輸送(はんぷくゆそう) させるのです」

康政は机の上にあった地図を引き寄せ、自ら持参した 算盤(そろばん) を弾いた。静まり返った室内に、乾いた木の音が響く。荷物の仕分けと、停滞を解消するための運行計画が数字となって書き出されていく。

「この手順通りに荷を流せば、うまく回れば十日で三割は消えます。鉄道の 滞留(たいりゅう) は解消されるはずです」

長官は、康政が書き殴った計算書を見て、血走った目を大きく見開いた。

「お前は……魔法使いか……?」

「ただの物運びですよ。……ただし、この計画を実行する条件があります」

康政は長官の目を見据え、指で地図の一角を叩いた。

「港の西側にある第三倉庫群の区画を貸与していただき、そこに『瑞長財団 ウラジオストク支店』の看板を掲げることをお認め願いたい」

「倉庫でも港でも、持っていくがいい!」

長官は康政の手にすがるように頷いた。書類と数字がもたらした解決策をもって、財団は極東における公式な拠点を確保したのである。

港に停泊している財団の大型貨客船『瑞長丸』に乗船する直前。

康政は 舷梯(タラップ) の手前で足を止め、氷が張り始めている金角湾の冷たい海面を見つめていた。

「……瑞月姉さん」

「はい。ここにおりますよ、康政」

公の場での硬質な面差しは消え、風の音に紛れるような柔らかな響きが返る。

「台湾の造船部門へ、至急 打電(だでん) してください」

康政の落ち着いた声が、波一つない白く濁った海へ向けられる。

「もしこの国で内乱が起きれば、海軍の持つ 砕氷艦(さいひょうかん) は暴徒に握られる可能性があります。そうなれば、冬のウラジオストクは氷によって封鎖され、我々はいざという時の海路を失ってしまう」

康政は振り返り、瑞月の目を見た。

「自前で氷を砕く牙が必要です。既存の大型船を改修するか、新造するか……いかなる氷海をも単独で突破できる、当財団専用の砕氷艦の建造を、至急進めてもらえませんか」

その穏やかだが譲らない声色に、瑞月は微かに目を細めた。

「……承知いたしましたわ」

瑞月は冷たい海風に流れる黒髪をそっと押さえ、口元に柔らかな笑みを浮かべて小さく頷いた。

鋭い汽笛の音が響き、『瑞長丸』はロシア海軍の砕氷艦が切り拓いた水路を抜け、凍てつく極東の地を離れて日本の横浜港を目指し日本海を南下していた。

夜の甲板。波の音だけが響く暗闇の中で、赤い火の粉が小さく舞う。後藤新平が深く葉巻を燻らせていた。

「ペトログラードで得た紙切れを、帰りの道中で早々に物理的な陣地へと変えるとはな。政府の役人には真似できん 荒業(あらわざ) だ」

煙の向こうから、後藤の低くしゃがれた声が響く。並んで海を見つめていた康政は、夜風に上着の襟を立てながら淡々と応じた。

「鉄道の機能が限界を迎えている以上、あの巨大な帝国はいずれ内側から崩れます。そうなれば紙の契約など無意味になる。法と金で実効支配を固め、拠点を築いておく必要がありました」

「……崩れるときのための、防波堤というわけか」

後藤が痛快そうに喉の奥で笑う。

「よかろう。帝都の 喧騒(けんそう) は我が政府が引き受ける。君たちは存分に、極東の 澱(よど) みを 浚(さら) ってくれ」

康政が深く一礼する傍らで、微かな衣擦れの音が響いた。

瑞月がふわりと進み出ると、 袂(たもと) から小さな和紙の包みを取り出し、後藤へと恭しく差し出す。

「これは?」

「児玉総督にもお渡ししております、滋養に効く漢方の薬でございます。これからの政局、どうかご無理をなさいませんよう」

後藤は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに人の良い笑みを浮かべてその包みを受け取った。

「やれやれ、東洋の物運びは、政治家の健康まで管理してくるらしい」

数日後。船は日本の玄関口である横浜港へと入港した。

冬晴れの空の下、無数の汽船と行き交う人々でごった返す港の風景が広がる。ここで後藤ら政府一行は下船し、それぞれの役割を果たすべく帝都へと戻っていく。

甲板の片隅で、燕は冷たい潮風に吹かれながら、北の空を見上げていた。

彼女は、懐に忍ばせた和紙の束にそっと触れた。

実務家たちが敷いた無数の防波堤を極東に残し、船は次なる準備のため、温暖な台湾へと向けて再び出発の時を待っていた。