軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話:極東の蜘蛛の糸と、白い帝国への切符

大正五(一九一六)年、秋。

台湾・台北の中心部にある瑞長財団本部。厚手の 絨毯(じゅうたん) が敷き詰められた執務室には、隣室から漏れ聞こえる規則正しい電信機の 打鍵音(だけんおん) が響いていた。

「宛先は帝都・東京支部。指定の暗号電文、すべて送信完了いたしました」

報告に入ってきた通信士に対し、執務机で書類の山に目を通していた康政は、手を止めて小さく頷いた。

「お疲れ様です。これで最初の布石は打てましたね。助かりました」

康政が帝都へ向けて放った指示は、大きく分けて二つ。

一つは、ロシア帝国の広大な未開拓地であるシベリア・オビ川流域における、森林および鉱物資源の『瑞露合弁事業』の提案。

そしてもう一つは、その事業認可を皇帝ニコライ二世から円滑に取得するための手土産。皇后アレクサンドラが総裁を務めるロシア赤十字への『最新医療設備の寄贈』である。

すでに南洋の権益を握る財団が、北の大地へ進出する。表向きには資本の順当な拡張にしか見えないが、これは数年後の歴史の激動を見据え、極東の盤面を整えるための事業計画であった。

とはいえ、相手は主権国家だ。官僚的な手続きと外交上の下準備が終わるまでは、実務家として自室で静かに 稟議(りんぎ) が通るのを待つのみである。

その数日後、帝都・東京の霞が関。

ロシア帝国大使館の応接室には、最高級の葉巻の煙が漂っていた。

長椅子には駐日ロシア大使が座り、対面には、財団東京支部の重役たちと、外務省の高官が並んでいる。

「つまり、貴財団は我が国とシベリアで合弁会社を創り、初期投資から採掘機械まで全額を負担すると?」

ロシア大使が、信じられないものを見るような目で確認した。

「左様にございます」

財団の重役が、丁寧にお辞儀をした。

「資金の手出しを一切願うつもりはありません。我々の資本で眠れる資源を切り拓かせていただきたい。そして得られた利益は、両国で等しく折半。同盟国への最大の誠意でございます」

「しかし、我が国に無条件で半分の富を渡すなど……」

大使がなおも警戒の網を張ろうとしたその時、隣の外務高官が 鷹揚(おうよう) に笑声を上げた。

「大使閣下。我が国は現在、イギリス軍に対し多大な医療支援を行っております。しかし、東部戦線で最も血を流している誇り高きロシア帝国に対し、我が国からの支援が薄いのではないか。国内からもそのような声が上がっておるのです。この度の財団の提案は、我が政府の懸念をも見事に 払拭(ふっしょく) するものです」

その言葉に、ロシア大使の顔色が変わった。

「現在、基隆港の輸送船には、野戦病院の設備一式と最新の医薬品が待機しております。我々はこれを赤十字へ全量寄贈したい。資源開発の認可は、その人道的支援に対する皇帝陛下からの 恩賜(おんし) という形であれば、大使の顔も潰れず、両国の絆を世に誇る美しい話になりましょう」

イギリスへ行っている莫大な支援を、我が国へも。

外交上の自尊心を的確にくすぐる言葉と、「国庫を一切痛めずに事業が進む」という提案。長引く戦争で極端な物資不足に陥っているロシアにとって、これは抗いがたい話に違いなかった。

「素晴らしい。直ちに本国の外務大臣、並びに宮廷へ打電しよう」

大使は興奮気味に立ち上がった。財団の資本と日本政府の 威光(いこう) が噛み合い、強固な扉がひらいた瞬間であった。

それから数週間後の、台湾・基隆港。

財団の誇る大型貨客船『瑞長丸』の甲板には、ロシア宮廷から正式に発行された「国賓待遇での招待状」を手にした康政と瑞月の姿があった。後方には、阿長が直々に鍛え上げた数名の精鋭護衛たちと、燕がひっそりと控えている。

傍らには、分厚い革の書類鞄を手にした霧島が立っている。現地での法的手続きを隙なく進めるための法務担当だ。

「康政。帝政ロシアの情勢は決して良くはない。くれぐれも無理はするなよ」

見送りに来た父・和也が、憂いを帯びた目で声をかける。

「ご案じなく、父上。予測される危険性の計算と対策はすでに済ませてあります。ただの商談ですから」

康政は淡々と応じ、深く一礼して 舷梯(タラップ) を上がった。

大量の医療設備を満載した瑞長丸は、まず北上して内地の横浜港へと寄港した。

潮風が吹き抜ける岸壁には、大仰なシルクハットや軍服に身を包んだ政府・軍部の要人たちが待ち構えていた。これから乗り込んでくる彼らこそが、この旅に「大日本帝国を代表する公式な外交艦隊」という箔をつける存在である。

やがて舷梯が降ろされると、随行の官僚たちを従え、ひときわ 恰幅(かっぷく) の良い巨漢が悠然とした足取りで甲板へと上がってきた。

現内閣の中枢を担う内務大臣であり、かつて台湾時代に幼児であった康政の実務能力をいち早く見抜いた最大の理解者、 後藤新平(ごとうしんぺい) である。その後ろには、新しく駐露特命全権大使として赴任する 内田康哉(うちだこうさい) の姿もあった。

「ご無沙汰しております、後藤大臣。そして内田大使。本日は遠路はるばるのお運び、誠にありがとうございます」

出迎えた康政は、洗練された所作で深く一礼した。周囲の官僚たちの手前、あくまで財団の一幹部としての分をわきまえた、隙のない挨拶である。

内田大使が温和に頷きを返す中、後藤新平は立ち止まり、眼下の青年を値踏みするようにじっと見下ろした。

最後に会ってから数年。あの台湾にいた得体の知れない子供は、今や立派な青年の 体躯(たいく) へと成長していた。だが、その後ろ手に組まれた姿勢の良さも、感情の読めない凪いだ瞳も、官僚特有のあの静かな佇まいだけは何一つ変わっていない。

「……立派になったな、新城康政」

後藤の太い声が、海風を裂いて響いた。

「恐れ入ります。大臣におかれましても、益々のご壮健なご様子、何よりと存じます」

「ふん。図体ばかりでかくなりおって。どうせその頭の中身は、あの頃の理屈屋のままだろう」

後藤が口元に 獰猛(どうもう) な笑みを浮かべると、康政もまた、控えめに微笑を返した。

「ありがたいお言葉です。相も変わらず、地道な実務ばかりをこなしております」

ふと、後藤は康政の隣で黙って控えていた美しい淑女へと視線を移した。

「……陳 瑞月。貴様も一緒か。台湾の統括代表が直々に随行とは、ずいぶんと気合いが入っているな」

後藤の言葉に、瑞月は豪奢な毛皮の 肩掛け(かたかけ) をわずかに揺らし、淑女の礼をとってみせた。

「ご無沙汰しております、後藤大臣。かつて長官が心血を注がれた台湾の産業基盤は、今や財団を支える確固たる産業へと成長いたしました。本日は、その恩返しも兼ねたご案内役でございますわ」

「ふん、相変わらず口の減らん才女だ。どうせ貴様のことだ、この小僧の広げた 大風呂敷(おおぶろしき) を、裏でせっせと現実の 帳簿(ちょうぼ) に変換しているのだろう」

「お褒めの言葉と受け取っておきます」

瑞月が艶やかに微笑むと、後藤は愉快そうに喉の奥で笑い声を立てた。

「結構だ。案内しろ。貴様らがこの船に、一体どれほどの『荷』を積んだのか、俺の目で確かめてやる」

後藤は大きく 外套(がいとう) の裾を翻し、船室へと歩みを進めた。

数日後。外洋を力強く進む瑞長丸の特別 客室(サロン) 。

長椅子に深く腰掛けた後藤の太い指が、瑞月のまとめ上げた「シベリア合弁事業計画書」の 頁(ページ) をめくっていく。内田大使らが別室で休んでいる今、この空間にいるのは康政と後藤の二人きりであった。

やがて、後藤の指がピタリと止まった。

「……康政。この予算書はどういうことだ」

後藤の眼光が、鋭く康政を射抜いた。康政は表情を変えることなく、落ち着いて応じた。

「何か、不手際がございましたでしょうか」

「とぼけるな。正式な許可が下りた後に 計上(けいじょう) される事業予算だ。なぜ大型機械や施設の建設費以上に、『現地労働者の糧食および医療・衛生』といった 待遇費(たいぐうひ) が、これほど異常に膨らんでいる? まるで軍隊でも養う気かのような予算組みではないか」

長年、国家規模の基盤整備を手掛けてきた大政治家の目は誤魔化せない。康政は手元の書類へ視線を落としながら、ひどく事務的な口調で答えた。

「ご指摘の通りです。広大な 凍土(とうど) で滞りなく事業を進めるにあたり、現地の労働力と輸送組合の確保は不可欠です。少し手厚い待遇に見えるかもしれませんが、これで彼らの衛生状態と士気を保ち、現地の物流網を掌握できれば、極めて安い投資かと存じます」

「白々しい。この合弁事業の拠点は、水運と鉄路が交わる『チュメニ駅』周辺だそうだな。貴様、現地の飢えた帰還兵や運送業者をその莫大な待遇費で丸ごと買い上げ、忠誠度の高い私兵を創る気だろう。あの凍土に、日本の出先機関を創るつもりか」

康政は居住まいを正し、後藤の目をまっすぐに見返した。

「おっしゃる通りです。資源開発はあくまで名目であり、真の狙いはチュメニ周辺の物流網と人員の確保にあります。将来、ロシア情勢がいかなる変化を見せようとも、我々が極東の命脈を握っておけば、帝国にとっての強固な防波堤として機能するはずです。そのための、ささやかな事前投資とお考えください」

「極東の防波堤、か……」

後藤は低く唸り、やがて腹の底から湧き上がるような 哄笑(こうしょう) を漏らした。

「相変わらず、とんでもない大風呂敷を広げおる。よかろう。貴様がそこまでして物流の 結節点(けっせつてん) を取りに行くと言うのなら、乗ってやろう。宮廷での交渉は、我が国が後押ししてやる」

「ありがとうございます。大変助かります」

康政は安堵したように、深く頭を下げた。

ウラジオストクから乗り込んだシベリア鉄道の特別列車。

高級な木材の壁板に囲まれた一等車内は 石炭煖炉(せきたんだんろ) で暖められていたが、二重 硝子(ガラス) の車窓の外に広がる景色は、車内の豪奢さとはあまりにもかけ離れていた。

向かいの席では、瑞月が分厚い書類の束に優雅な手つきで万年筆を走らせている。後藤新平をも呆れさせたあの『莫大な待遇費』を、現地の物価と照らし合わせ、冷徹な精度で実務の帳簿へと落とし込んでいる最中であった。

「…駅にいる人たち、皆とても痩せているように感じます」

窓際に静かに佇む燕が、ぽつりと呟いた。まだどこかあどけなさの残る滑らかな横顔だが、その声の調子はひどく静かで、波一つ立っていない。ホームにはぼろ布を纏った農民や 傷病兵(しょうびょうへい) の姿があった。

「ええ。戦争の 皺寄(しわよ) せは、常に最末端の物流と、 市井(しせい) の人々に現れますからね」

康政は手元の書類から顔を上げ、車窓の向こうの景色に痛ましそうに目を伏せた。

「だからこそ、私たちが先回りして『胃袋と薬』の陣地を築く意義があるのですわ」

瑞月がふと万年筆を置き、凛とした声で言葉を引き継いだ。

赤みを帯びた唇が、艶やかな微笑みの弧を描く。その美貌の奥にあるのは、巨大な帝国の崩壊すらも冷徹に計算し尽くし、自陣の駒として制圧してみせるという底知れぬ知略の響きであった。

燕は音もなく康政のそばへ歩み寄ると、窓からの僅かな隙間風を自身の体で遮るように、そっとその斜め後ろに立った。

「冷えますね。温かいお茶を淹れましょうか」

問いかけながら差し出された白磁の茶器。受け取ろうとした康政の指が、ほんのわずかに燕の指先に触れた。

燕は声を上げることも、あからさまに身を引くこともなかった。だが、すっと伏せられた長い 睫毛(まつげ) の下で、黒い瞳が小さく揺れる。彼女は空になった手を胸元に引き寄せると、微かに熱を帯びた耳端を隠すように一歩下がり、再び元の物言わぬ立ち位置へと戻っていった。

やがて列車が、途中の停車駅に滑り込む。

燕の手引きによって、外套の襟を立てた見知らぬ男が特室へ入ってきた。先行して現地に入っていた特務員である。

「失礼します、康政様。報告いたします。チュメニ駅周辺の顔役や、北のトボリスク方面へ向かう川舟の元締めへの事前の根回しはすべて完了しております。ペトログラードで皇帝陛下の 裁可(さいか) さえ下りれば、いつでも拠点の建設と人員の雇用に入れます」

「ご苦労さまです。順調ですね。引き続き、目立たぬよう慎重に進めてください」

「はっ」

特務員は一礼し、再び外へと消えていった。

鋭い汽笛の音が凍てつく空気を切り裂き、特別列車が動き出す。

一行を乗せた列車は、確固たる大義名分を手に入れるため、白銀の帝都・ペトログラードへと一直線に吸い込まれていった。