作品タイトル不明
第15話:深海の劇薬と、帝国の軍服
大正五(一九一六)年、四月上旬。
台湾・ 基隆(キールン) 港。海風が吹き抜ける活気に満ちた 埠頭(ふとう) には、この港の象徴とも言える巨大な双胴の船体が堂々と 係留(けいりゅう) されていた。
中央に開口部を持ち、空へ向かって無骨な 起重機(きじゅうき) を突き出したその 威容(いよう) 。海中から命を救い上げるためだけに運用されてきた、財団が誇る潜水艇救難艦『 安平(あんぺい) 』である。今や基隆 工廠(こうしょう) の日常の風景にして、職人たちの誇りであった。
岸壁を歩く瑞長財団の設計理事・新城康政と、海軍からの出向者である真田大尉が、外洋から帰投したばかりのその双胴艦を見上げた。
「また、洋上補給の限界訓練を終えて帰投したようですな。甲板の潜水士たちが 疲労困憊(ひろうこんぱい) の様子だ」
真田の言葉に、康政は深く頷いた。
「ええ。沈んだ艇を引き上げ、命を救うのが彼らの本来の任務ですが……今は酷な要求をしています。荒れ狂う波の上で、一滴の不純物も混ぜずに『猛毒』を移し替える作業を身につけてもらわねばなりませんから」
真田は 僅(わず) かに顔を強張らせた。
二人はそのまま歩幅を広げ、一般区画を抜け、厳重な警備が敷かれた基隆工廠の最深部、第一 乾船渠(かんどっく) の建屋へと足を踏み入れた。
薄暗い巨大な空間を見下ろす通路に立つと、眼下の底には、排水量千二百トンという海軍の常識からすれば大型艦に分類される「試製特殊潜水艦」の船体が横たわっていた。すでに 竜骨(りゅうこつ) から分厚い耐圧殻へと急速に組み上がりつつある。
「しかし、奇妙な艦です」
真田が大仰な足場に囲まれた巨体を見下ろし、感嘆と戸惑いの混じった息を吐いた。
「あれだけの 図体(ずうたい) を持ちながら、魚雷発射管はおろか、甲板砲の一つすら据え付ける区画がない。滑らかな船体の中身は、おびただしい量の劇薬水槽と、不釣り合いなほど豪華な居住区画……。平和な客船なのか、自爆用の火薬庫なのか、海軍の 教本(きょうほん) がまったく通用しない代物です」
「それで良いのです。あの艦は戦うためのものではない。絶対に生き延びて、深海を長距離走り抜けるためだけに特化した器ですから」
康政は落ち着いた声で答え、懐中時計を取り出した。時刻は午前十時を回ろうとしている。
「救難艦も、乗組員たちも、すでに準備の最終段階に入っています。財団が社運を賭けるこの計画の厳しい工期を守るためには……今日、あの 我儘(わがまま) な『機関』に、どうしても要求性能を越えてもらわねばなりません」
真田が黙って頷く。二人は、さらに奥深く、分厚い 防爆扉(ぼうばくとびら) で隔てられた燃焼試験場へと向かった。
試験区画に足を踏み入れた瞬間、目を刺すような薬品の刺激臭と、鼓膜を打ち据える暴力的な 咆哮(ほうこう) が全身を突き抜けた。
「排気弁、さらに開け! 圧が規定値を越えるぞ!」
「 駄目(だめ) だ、これ以上開けば燃焼室の温度が下がる! 弁の隙間を三分の一だけ絞れ!」
巨大な試験台に 螺子(ねじ) で固定された鋼鉄の塊、次世代の非大気依存推進機関、のちに『ワルター機関』と呼ばれる機構の周囲では、日夜この機関と向き合い続けてきた技師や作業員たちが怒号を交わしていた。
燃料となる高濃度過酸化水素は、僅かな温度変化や微細な塵が混入しただけで大爆発を起こす、文字通りの猛毒である。防護服に身を包んだ若者たちが、熱波で顔を歪めながら手動の真鍮弁を 粍(ミリ) 単位で操作し、計器の針に鋭い目を向けている。
その後方では、二階堂や早川、荒金、ダンカンら各部門の責任者たちが、それぞれの専門的見地から計器の数値を追って短く的確な指示を飛ばしていた。康政もまた、現場の最前線で命がけの試行錯誤を続けてきた技術者たちの腕を信じ、その背中をただ静かに見守っている。
「一時間五十五分経過……! 振動、さらに増大します!」
計器板に張り付いていた若手の一人が、声が枯れるほどの絶叫で報告する。
彼らが目指しているのは、いざという絶体絶命の窮地にのみ火を入れ、驚異的な大馬力を叩き出すための副機関である。目標とする連続稼働時間は「二時間」。これこそが、あの巨大な潜水艦に積載できる猛毒の物理的な限界量であり、同時に、工期に間に合わせるための厳しい合格水準であった。
鋼鉄の塊が、断末魔のような 軋(きし) み声を上げる。配管の継ぎ目から白い蒸気が噴き出し、熱波が周囲の空気を歪ませた。誰もが息を呑み、万が一の爆発に備えて身を固くしたその時。
「二時間到達! 連続燃焼、目標値満たしました!」
弁(バルブ) を握っていた現場の若手技師が、涙声で叫んだ。
「停止手順へ移行! 燃料遮断!」
区画責任者の号令が下り、若者たちが一斉に遮断弁を叩き込む。耳を 劈(つんざ) く咆哮が徐々に低く唸り声を下げ、やがて重い静寂が試験場に降りてきた。
溶解(ようかい) も、爆発もない。試験台の上では、煤で黒光りする中枢部が、確かな駆動の余韻を残して静かに白煙を上げていた。
「……やった……やったぞ!」
緊張の糸が切れ、現場の作業員たちが次々と床にへたり込み、あるいは互いの作業着を掴んで歓喜の声を上げた。
それを見守っていた二階堂が深く安堵の息を吐き、荒金が目頭を拭う。ダンカンと早川が、言葉もなく静かに頷き合った。十年の歳月と莫大な資金を飲み込んできた計画が、ついに実用化の壁を打ち破った瞬間であった。
康政は小さく息を吐き、静かに頭を下げた。現場で這いつくばってきた数多の技術者たちの執念に、心からの敬意を示すために。
その数日後。場面は変わり、台北の財団本部・ 迎賓館(げいひんかん) 。
高い天井で緩やかに扇風機が回る 豪奢(ごうしゃ) な応接室には、工廠の熱気とは対極にある、冷え切った政治の空気が漂っていた。
「祖国の危機を 蔑(ないがし) ろにし、フランスへ最新の発動機を売るそうだな。まったく、恐れ入る」
長椅子(ソファ) に深く腰掛けた 内地(日本本土) の海軍省視察官が、苛立ちを隠そうともせずに卓を叩いた。佐官の階級章を付けたその男の目は、明確な敵意と焦りを帯びていた。
「欧州の航空戦に、我が帝国が遅れをとるわけにはいかんのだ。一介の民間企業が外国の軍隊に兵器を輸出するなど、世間が知ればどう思うか。貴財団の新聞がどう取り繕おうとも、非国民の 誹り(そしり) は免れんぞ。フランスへの輸出など直ちに取りやめ、我が海軍へ最優先で納入したまえ」
それは、愛国心と世論の反発を盾にした強烈な圧力であった。現在の大日本帝国において、海軍とて瑞長財団ほどの巨大な組織の工廠を、強権のみで法的に 接収(せっしゅう) することなどできない。だからこそ、国益を名目に独占供給を迫ってきたのだ。
だが、対面に座る康政は表情一つ変えず、冷めた紅茶の 茶器(カップ) を音もなく置いた。
「お言葉ですが、我々は民間企業であり、正当な契約の自由を有しております。フランスとの取り決めを 反故(ほご) にするつもりはありません」
「なんだと? 貴様ら、本気で国賊となるつもりか!」
「そういう話ではありません」
激高(げっこう) して立ち上がりかけた視察官に対し、康政はあくまで淡々と事実だけを突きつけた。
「無論、祖国の防衛を蔑ろにするつもりもありません。フランスに納めるのと同じ『瑞式一五〇型』の完成品を、帝国海軍へも優先的に供給しましょう」
「……ひゃく、五十馬力を? 我が海軍に?」
「ええ。複雑な設計図も、工作機械の調整も不要です。機首の改修だけで直ちに運用できる完成品そのものをお渡しします」
視察官は息を呑み、絶句した。
現在、日本の官営工廠は悲惨な状況にあった。欧州の七〇馬力の発動機を見よう見まねで模倣し、数時間回しただけで気筒が焼き付く惨状に、海軍の技術将校たちは歯噛みしている。そんな彼らにとって、台湾の民間企業が独自設計した「瑞式一五〇型」の完成品など、魔法に等しい代物であった。
視察官が混乱している隙を突き、隣に座る瑞月が優雅な笑みを浮かべて口を開いた。
「私たちはただの商売人です。軍部内の予算獲得や、陸軍との力関係において、この発動機が海軍省の強力な武器になることは存じております。海軍省が我々の確かな後ろ楯となっていただけるなら、私たちは惜しみなく海軍の翼を強くいたしますわ」
視察官の顔色が変わった。フランスへの輸出を黙認しさえすれば、海軍は陸軍の旧式機を鼻であしらうほどの実力を一瞬で手に入れられる。手柄と政治的優位という極上の 餌(えさ) を前にして、視察官の愛国心はあっけなく 霧散(むさん) した。
「……分かった。貴様らのやり方は気に入らん。だが今は海軍が力を得る方が先だ、海軍省として貴財団の工廠運営に協力しようではないか」
態勢(たいせい) を取り繕うように咳払いをした視察官は、満足げに頷いた。
客が帰路へついた後。執務室に残った康政は、窓の外の台北の街並みを静かに見下ろしていた。
「百五十馬力で手を打ってくれましたね。これで海軍省という後ろ盾ができ、当面の政治的な横槍は防げますわ」
瑞月が安堵の息を吐きながら、康政の背中に声をかけた。
「内地海軍へも、瑞式一五〇型を納入するのですね」
「はい。海軍の惨状を見れば、フランスと同じものを渡すのが最も確実です」
康政は振り返り、淡々と答えた。瑞月は少しだけ首を傾げる。
「工廠の奥にある『試製二二〇型』を出そうとは、欠片も思いませんでしたの?」
「ええ。試製二二〇型は、まだ我々の望む量産水準に耐えうる代物ではありません」
康政の言葉に、他意や傲慢さは一切なかった。ただ純粋な技術者としての評価基準がそこにあった。
「未完成の試作機を軍に渡せば、馬力という数字に目が 眩(くら) んだ現場の兵士は、必ず無理な運用をします。結果、空で発動機が壊れ、不要な事故を起こして命を落とす。我々が責任を持って現場に送り出せるのは、今のところ瑞式一五〇型が限界です」
「……本当に、あなたという人は」
瑞月はふっと微笑み、呆れたように肩をすくめた。
無用な干渉を退け、今日も第一 船渠(ドック) で熱気を放っている技術と、それを積む巨大な器を、ただひたすらに完成へと導くこと。極東の技術者たちは、自らの使命を果たすためだけに、今日も冷徹な計算で盤上を生き抜いている。