軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「新しい朝」

髪を結い上げる手が、三度目で止まった。

鏡の中の自分を見た。子爵家の書斎ではなく、宰相府の客間の鏡だった。婚約公表から数週間。今日は宰相家の茶会に、婚約者として初めて公式に同席する。

衣装はカティアが選んでくれた。淡い紫の正装。トーレス家の紋章は付いていない。代わりに、宰相家の婚約者であることを示す銀の留め具が襟元にある。ギルベルトの母が用意してくれたものだった。

留め具に触れた。冷たい金属の感触。小さいのに、重い。

「ロゼリア、準備はできたか」

扉の向こうからギルベルトの声がした。

「もう少しだけ」

髪を結い直した。四度目でようやくまとまった。子爵家の茶会なら、ここまで気を遣わない。だが、宰相家の茶会は違う。出席者の格が違う。視線の重さが違う。

鏡の中の自分は、子爵令嬢のままだった。衣装が変わっても、留め具が付いても、中身は変わっていない。

それでいいのか。それではだめなのか。

分からないまま、客間を出た。

宰相府の大広間。

茶会と言っても、子爵家のそれとは規模が違った。長いテーブルに白い布が敷かれ、銀の茶器が並んでいる。壁には王国の紋章と宰相家の紋章が並んで掛かっている。

出席者は二十名ほど。侯爵家、伯爵家、王府の高官。宰相家の茶会に招かれるのは、王都の政界で一定以上の立場を持つ人間だけだった。

私はギルベルトの隣に立った。婚約者としての定位置。ギルベルトが小さく頷いた。大丈夫だ、という合図。

だが、大丈夫ではなかった。

最初の挨拶からつまずいた。

侯爵夫人への挨拶。子爵令嬢として面識はあったが、宰相家の婚約者として会うのは初めてだった。挨拶の順序が違う。子爵令嬢のときは、相手が先に声をかけてくれるのを待てばよかった。だが、宰相家の婚約者は、自分から挨拶に回らなければならない。宰相家は侯爵家より上位だからだ。

「本日はお越しいただきありがとうございます」

侯爵夫人に頭を下げた。だが、下げすぎた。子爵令嬢の所作が抜けていない。宰相家の婚約者として、侯爵夫人に対する礼は浅い一礼で十分だった。

侯爵夫人は微笑んだ。優しい笑みだった。だが、その笑みの奥に、品定めの目があることを感じた。

茶会の間中、同じことが繰り返された。

会話の格式。話題の選び方。紅茶の注ぎ方。座る位置。立ち上がるタイミング。全てが子爵家とは違った。

私は、ここでは新参者だった。

報告書を書いたときの自信はなかった。聖女制度の検証報告書を王太子に提出した、あのときの覚悟はなかった。あのときは、事実を整理して届ければよかった。自分の得意なことだった。

だが、茶会の所作は事実の整理ではない。身体で覚えるものだ。経験の積み重ねだ。子爵家で二十年かけて身につけた慣例が、ここでは通用しない。

宰相家の格式。その壁の高さを、初めて肌で知った。

茶会が終わった後、ギルベルトの母が声をかけてくれた。

宰相府の奥にある居間。家族だけが使う部屋だった。壁に花が飾ってある。修道院から帰還した後、母が自分で飾り始めたのだとギルベルトが教えてくれた。

「お疲れさまでした、ロゼリアさん」

ギルベルトの母は穏やかな人だった。芯の強さを内に秘めた、静かな声。修道院で長い年月を過ごしても折れなかった人。その声に、今日の緊張が少しだけほどけた。

「至らない点ばかりで、申し訳ありません」

正直に言った。取り繕う気力もなかった。

「挨拶の順序も、お辞儀の深さも、会話の間合いも。子爵家の慣例とは全く違いました」

「そうね。違うわ」

母は否定しなかった。

「宰相家の格式は、子爵家とは違う。それは事実よ」

事実。その言葉に、少しだけ安心した。嘘をつかない人だ。ギルベルトに似ている。いや、ギルベルトが母に似ているのだ。

「でもね、ロゼリアさん」

母が紅茶を注いでくれた。家族用の、飾りのない茶器。茶会の銀の茶器より、ずっと温かく感じた。

「完璧である必要はないのよ」

「ですが、宰相家の婚約者として——」

「誠実であればいいの」

母の目が、まっすぐ私を見た。

「格式は覚えられる。所作は身につく。でも、誠実さは教えられない。あなたには、それがある」

胸の奥が、じんと熱くなった。

再審のとき、ギルベルトの母の手が私の手を取った。「ありがとう」と言ってくれた。あのときの温かさと、同じだった。

「私が教えられることは、全て教えるわ。宰相家の慣例。茶会の作法。招待状の書き方。式次第の順序。一つずつ、ゆっくりで構わない」

「ありがとうございます」

頭を下げた。今度は深すぎなかった。家族への礼。それがどの深さなのか、まだ正確には分からない。でも、この人の前では、形より気持ちが先に出ていいのだと思った。

ギルベルトが居間に入ってきたのは、その少し後だった。

宰相府の仕事を終えたのだろう。正装の上着を脱いで、椅子に座った。

「茶会、どうだった」

「散々でした」

「そうか」

ギルベルトが小さく笑った。

「僕も最初は散々だった。宰相家の長男として生まれたのはクラウスで、僕は次男だ。茶会の作法を叩き込まれたのは兄の方で、僕は見よう見まねだった」

「あなたでも、そうだったんですか」

「ああ。父の茶会で侯爵家の当主に挨拶するとき、礼の角度を間違えて、クラウスに廊下で三十分説教された」

想像して、少しだけ笑った。

「お兄様が説教を」

「真面目な顔で、礼の角度を定規で測りかねない勢いだった」

母が微笑んでいた。息子たちの話を聞く、穏やかな顔。

この家には、こういう時間があるのだ。

家族の時間。

子爵家にもあった。父と二人の夕食。書斎で帳簿を広げる夜。静かで、地味で、だけど温かい時間。

宰相家の家族の時間は、子爵家とは違う形をしていた。でも、温かさは同じだった。

その夜、子爵家の書斎に戻った。

机に向かい、今日の茶会を振り返った。

子爵令嬢としての自分。宰相家の婚約者としての自分。

二つの自分が、まだ一つになっていない。報告書を書いたときの自分は、「ロゼリア・トーレス」として事実を整理する人間だった。それは変わらない。

だが、宰相家に入るということは、「ロゼリア・トーレス」に新しい肩書きが加わるということだ。宰相家の格式。宰相家の慣例。宰相家の責任。

それらを身につけることは、自分を失うことではない。

母の言葉が耳に残っていた。「完璧である必要はない。誠実であればいい」。

ギルベルトの笑い話が耳に残っていた。「クラウスに廊下で三十分説教された」。

一つずつ、覚えればいい。子爵家の帳簿を覚えたように。図書室の蔵書目録を覚えたように。再審の記録の通し番号を覚えたように。

私は覚えるのが得意だ。事実を整理して、構造を見つけて、身につける。それが私のやり方だった。

宰相家の格式も、同じように覚えればいい。

窓の外は暗かった。冬が近づいている。秋の終わりの空に、星がいくつか光っていた。

新しい場所に立っている。

まだ慣れない。まだ震える。でも、受け入れてくれる人がいる。教えてくれる人がいる。隣にいてくれる人がいる。

エレーヌから手紙が届いていた。封を開けた。

「聖女制度改革の施行細則策定が、宰相府主導で開始されたとのことです。ロゼリアさんの報告書が再び注目されています」

報告書が再び注目される。

制度改革は終わっていない。裁可は下りたが、施行はこれからだ。報告書を書いた責任は、まだ続いている。

宰相家の婚約者としての新しい生活。報告書作成者としての継続する責任。

二つの道が、また重なろうとしている。

手紙を机に置いて、窓を閉めた。

明日も、宰相家に行く。母に慣例を教わる。少しずつ、一つずつ。

新しい朝は、もう始まっている。