軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話「名前を呼ぶ声」

これが最後の一歩だ、と思った。

婚約の正式承認が下りてから数日が経っていた。公表の準備は進んでいる。制度改革の裁可が下りれば、宰相府から社交界に正式に発表される。

だが、その前に。

クラウス・ヴァイス。

ギルベルトの兄。宰相家の長男。爵位継承権者。

母の帰還後、態度は軟化していた。再審の頃のような明確な敵意はない。だが、私を認めたわけでもなかった。消極的容認。それがクラウスの現在の立ち位置だった。

宰相が認めた以上、クラウスが反対することはない。長男として、父の決定には従う。だが、従うことと認めることは違う。

婚約が公表されれば、クラウスは私の義兄になる。家族になる。

消極的容認のまま家族になるのは、嫌だった。

だから、自分から会いに行く。

宰相府の正面入口で名を告げた。

「トーレス子爵家のロゼリアと申します。クラウス・ヴァイス様にお目にかかりたいのですが」

受付の官吏が少し驚いた顔をした。子爵令嬢が宰相家の長男に面会を求める。通常であれば、事前の書状を経るのが礼儀だ。だが、私の名前は宰相府では知られている。再審の証拠整理者。報告書の作成者。そして、宰相が婚約を認めた相手。

官吏が奥に取り次いだ。しばらく待った。

「クラウス様がお会いになります。応接間にお通しします」

案内された応接間は、ギルベルトと何度も使った小部屋とは違う場所だった。宰相府の正式な応接間。天井が高く、壁には王国の地図が掛かっている。クラウスが選んだ場所だ。公式の場。私的な会話ではなく、宰相家の長男として会う、という意思表示だった。

クラウスが椅子に座っていた。

再審の頃に何度か顔を合わせた。「部外者を巻き込むな」と言った人。ギルベルトと口論になった人。母の帰還の日に涙を見せた人。

あの頃と比べて、少しだけ表情が柔らかくなっていた。だが、柔らかさの奥に、まだ硬いものがあった。

「トーレス嬢。突然の面会とは珍しい」

クラウスの声は落ち着いていた。冷淡ではなかった。だが、温かくもなかった。宰相家の長男としての、礼節の範囲内の応対。

「お忙しいところ恐れ入ります、クラウス様」

一礼した。敬語を崩さない。宰相家の長男に対する子爵令嬢の礼儀。婚約が認められた後でも、それは変わらない。

「婚約が認められたことをお伝えしたかったのです」

「父から聞いている」

短い返答だった。

「そして、お兄様に一つだけお聞きしたいことがございます」

お兄様。

その呼び方を使ったのは、初めてだった。クラウスの目が、わずかに動いた。

「お兄様は、ギルベルト様のことを、本当はどう思っていらっしゃるのですか」

沈黙が落ちた。

応接間の窓から、午後の光が差していた。白い壁に、光の四角が映っている。時計の針が動く音だけが聞こえた。

長い沈黙だった。

クラウスの顔から、礼節の仮面が少しずつ剥がれていくのが見えた。宰相家の長男としての表情ではなく、一人の兄としての顔が、ゆっくりと浮かび上がってきた。

「弟は」

クラウスが口を開いた。声が低かった。

「私にはできないことをした」

言葉が、一つずつ、絞り出されるように出てきた。

「母を取り戻した。冤罪を覆し、保守派司祭を罷免に追い込み、法廷で証拠を示し、母を修道院から連れ戻した」

クラウスの目が、窓の外を見ていた。

「私は——何もできなかった」

その声には、悔恨があった。

母の事件が起きたとき、クラウスは動かなかった。政治的に動かなかったのではない。動けなかった。宰相家の長男として、父の判断に逆らうことができなかった。家門を守ることと、母を救うことを天秤にかけて、家門を選んだ。

いや。選んだのではない。選べなかっただけだ。

「弟は、家門よりも母を選んだ。私は、それができなかった。そして弟が正しかった。結果がそれを証明した」

クラウスの声が震えた。抑えている声だった。宰相家の長男は、人前で感情を見せない。そう教育されてきた人だ。

「母が帰ってきたとき、母は私に言った。『あなたは弟を信じなかったのか』と」

母の言葉。

その言葉が、クラウスの中にずっと刺さっていたのだ。

「信じなかったわけではない。だが、信じることと動くことは違う。私は信じていたかもしれない。だが、動かなかった。動かなかったことは、信じなかったことと同じだ」

沈黙が戻った。

私は何も言わなかった。言葉を挟む場所ではなかった。クラウスが自分の言葉で、自分の中のものを出している。それを邪魔してはいけない。

クラウスが私を見た。

目が合った。

その目には、兄としての痛みがあった。弟に謝れない痛み。弟の正しさを認められない痛み。そして、それでも弟を想っている、複雑な感情。

「弟を、頼む」

短い一言だった。

だが、その一言に、全てがあった。

弟を信じられなかった兄が、弟の選んだ相手に、弟を託している。それは、弟の判断を認めるということだ。弟が選んだ人間を信じるということだ。

「はい」

答えた。一言だけ。

それ以上の言葉は要らなかった。

クラウスが目を伏せた。短く息をついた。仮面が戻りかけたが、完全には戻らなかった。少しだけ、柔らかいままだった。

「お時間をいただき、ありがとうございました」

一礼して、応接間を出た。

廊下に出ると、ギルベルトが立っていた。

壁に背を預けて、腕を組んでいた。待っていたのだ。

「兄と話していたのか」

「はい。お兄様に認めていただきました」

ギルベルトの目が、一瞬、大きくなった。驚きだった。

「兄が」

「はい。『弟を頼む』と」

ギルベルトが黙った。

しばらくの沈黙の後、小さく、本当に小さく、微笑んだ。

「そうか」

それだけだった。だが、その声の中に、長い時間をかけて待っていたものが報われた音がした。

婚約公表の日は、制度改革の裁可が下りた翌日だった。

宰相府の大広間。正式な発表の場。

社交界の主要な人物が招かれていた。公爵家、侯爵家、伯爵家、そして子爵家。王都の政界と社交界が一堂に会する場所。

カティアが微笑んだ。

「やっとね」

静かな声だった。公爵令嬢としての余裕と、友人としての喜びが混じっていた。

ヴィオラが笑った。

「遅すぎるわ」

率直だった。ヴィオラらしかった。

エレーヌが静かに一礼した。

「おめでとうございます」

穏やかな声だった。神殿内部の情報を何度も届けてくれた友人。彼女の助けがなければ、報告書は完成しなかった。

宰相が短く言った。

「よろしく頼む」

短い言葉だった。だが、宰相のその言葉は、再審のときの「ご苦労」よりも、報告書を読んだときの「よく出来ていた」よりも、重かった。家族として迎える言葉だった。

ギルベルトの母が、私の手を取った。修道院から帰還した日以来、何度か顔を合わせていた。穏やかで、芯の強い人だった。

「家族になれて嬉しいわ」

温かい手だった。冤罪で修道院に送られ、それでも折れなかった人の手。

クラウスは少し離れた場所に立っていた。目が合った。小さく頷いた。それだけだった。だが、それで十分だった。

社交界の貴族たちの視線が集まっていた。噂は以前から流れていた。「身分不相応」と陰で言っていた者たちもいた。だが、宰相が正式に承認し、王太子が報告書を公式に受理した今、表立って反対する者はいなかった。

態度を翻した者もいた。かつて「身分差で破談になる」と囁いていた者が、にこやかに祝辞を述べている。その変節は、社交界の目の前で起きていた。気づいている人間は気づいていた。

だが、それはもう、どうでもよかった。

ギルベルトが隣に立った。

手を握った。温かい手だった。何度も繋いだ手。茶房で。宰相府で。子爵家で。そして今、大広間で。

「ロゼリア」

名前を呼ばれた。

大勢の人の前で。宰相府の大広間で。社交界と政界の視線の中で。

ギルベルトが私の名前を呼んだ。

「はい」

答えた。

それだけだった。名前を呼ばれて、答えた。それだけのことが、こんなにも胸を満たすのだと、知らなかった。

夕暮れの宰相府。

大広間の窓から、橙色の光が差し込んでいた。

再審の日、法廷の窓から見た橙色と同じ色だった。母の帰還の日、宰相府の廊下で見た橙色と同じ色だった。

同じ色の光の中で、今度は二人の名前が、王都に響いた。

聖女空位は、制度改革を経て解消に向かう途上にある。マリアンヌの裁判は終結した。ルドヴィクは罷免された。イルメラは職を解かれた。

私は子爵令嬢から、宰相家の婚約者になった。

だが、物語は終わらない。

聖女制度改革の行方。宰相家の一員として果たす役割。新しい場所で、新しい名前で、新しい仕事が待っている。

窓の外の橙色が、少しずつ暮れていく。

ギルベルトが隣にいた。手を繋いでいた。

「長かったな」

「長かったです」

「でも、ここまで来た」

「はい」

橙色の光が、二人の影を廊下に伸ばしていた。

学園の図書室で本を並べ替えていた頃、こんな場所に立つとは思わなかった。モブのまま、目立たずに生きていくはずだった。

でも、手紙が来た。書庫に入った。記録を見つけた。法廷に立った。報告書を書いた。王太子に提出した。

一つずつ、選んできた。

自分の名前で立つと決めた。

そして今、その名前を呼ぶ声が、隣にある。

「ロゼリア」

「はい」

橙色の光の中で、答えた。

(完)