軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話「図書室の住人」

返却された本を、棚に戻す。

それが一ヶ月前から続く、私の放課後だった。

入学してからひと月。図書室の蔵書目録は、前任者が残したものがほとんど使い物にならなかった。分類番号と実際の配架場所が一致しない。そもそも分類番号が振られていない本が三割はある。

前世の図書館なら大問題だ。

でも、ここでは誰も困っていなかった。そもそも図書室を使う生徒が少ないのだから、目録が壊れていても誰も気づかない。

私にとっては、むしろ好都合だった。

崩壊した目録を立て直す作業は、時間がかかる。時間がかかるということは、図書室にこもる正当な理由があるということだ。棚の間を歩き、背表紙を確認し、分類を振り直し、新しい目録に書き写す。地味で、静かで、誰にも注目されない仕事。

モブの日常として、これ以上のものはない。

今日も放課後の図書室は静かだった。西日が窓から差し込み、古い書架の背表紙を橙色に染めている。埃が光の筋の中でゆっくり舞っていた。

私は返却台に積まれた本を腕に抱え、棚の間を歩いた。

「歴史はここ、魔術理論はこっち、紋章録は……二列目の上から四段目」

小声で呟きながら、一冊ずつ棚に差し込んでいく。背表紙を見るだけで分類がわかるようになったのは、ひと月かけて全棚を確認した成果だ。

最後の一冊を棚に戻したとき、奥の閲覧席に人影があった。

あの人だ。

入学初日、廊下で書類を拾ってしまった相手。宰相家の次男、ギルベルト・ヴァイス。

あの日以来、彼は頻繁に図書室を訪れるようになっていた。いつも奥の同じ席に座り、分厚い本や古い冊子を広げている。聴講生の特別許可を持っているとミュラー教師から聞いた。一学年上だが、この学年の授業も受けられる立場らしい。

宰相家の子息が、放課後のたびに図書室に来る。

普通なら交友関係を広げる場——食堂やサロンにいるほうが、よほど政治的に意味がある。なのに、この人はいつもここにいる。

関わらないと決めている。

ゲームに登場しないキャラクターだから安全だと思っていたけれど、宰相家の次男という肩書きは十分に目立つ。近くにいるだけで巻き込まれる可能性がある。

だから私は、彼が来ても必要以上に話しかけなかった。管理係として最低限の対応——閲覧席の利用確認と、閉館時間の案内だけ。

今日もそのつもりだった。

カウンターに戻り、目録の更新作業を再開した。

新しい目録帳に、今日確認した棚の内容を書き写していく。旧館の閉架書庫は特に分類の崩壊がひどく、本来の配架場所から完全にずれた本が何十冊も出てくる。

先週、閉架書庫の最奥——禁書棚の裏側を整理していたとき、棚と壁の隙間に数冊の本が落ち込んでいるのを見つけた。埃の積もり方からして、何年も放置されていたものだ。

そのうちの一冊が、妙だった。

製本されていない薄い冊子。表紙には手書きで「神殿監査局 人事異動記録 第三期〜第五期」と書かれていた。

中身は監査局の人事記録だった。監査官の配置、異動、転任の日付と理由が淡々と記されている。図書室にあるべき資料ではない。かといって禁書でもない。ただの人事記録だ。

閲覧制限のある文書ではないことを表紙の分類印で確認した。神殿の「内部限定」印はなく、「行政記録・一般」の印が押されている。つまり、本来は行政書庫に収められるべきものが、何かの手違いで図書室の閉架書庫に紛れ込んだだけだ。

管理係として、所属不明の資料を見つけたら正しい場所に戻すか、担当者に届けるかの判断が必要になる。

私は中身を確認した。配架先を判断するためだ。

ページをめくると、ある時期を境に記録の様子が変わっていた。五年前、監査官二名が同時期に「転任」している。転任先は王国の辺境——事実上の左遷だ。その後、補充人事が行われた形跡がない。

つまり、五年前から監査局の実働人員が大幅に減っている。

私はすぐに冊子を閉じた。

内容の意味を考えるのは、管理係の仕事ではない。配架先を判断するために必要な範囲は確認した。行政記録なので、本来は学園事務局経由で行政書庫に返却するのが正しい手順だ。

ただ、この冊子をどう扱うかを決めかねていた。

事務局に届ければ済む話だ。でも、神殿監査局の人事記録を「図書室の棚裏から見つけました」と届け出れば、なぜそんな場所を探っていたのかと聞かれるかもしれない。管理係として閉架書庫の整理をしていた、と説明すれば済むはずだが、子爵令嬢が神殿関連の資料に触れたという事実は、余計な注目を集める可能性がある。

この世界で聖女に関わる話題は敏感だ。神殿の資料に興味を持っている子爵令嬢、という認識を誰かに持たれるだけで面倒なことになりかねない。

モブは目立ってはいけない。

結局、冊子はカウンターの引き出しに一時保管していた。正しい届け先を考える時間が必要だった。

ペンを置き、顔を上げた。

奥の閲覧席で、ギルベルト・ヴァイスがページをめくる音が聞こえる。

この一ヶ月、彼が図書室で読んでいる本の傾向には気づいていた。管理係として返却された本を棚に戻すのだから、誰が何を読んでいるかは自然とわかる。

神殿制度史。聖女に関する宗教法の解説書。神殿と王家の権限を定めた条約の原文。

一貫して、神殿と聖女制度に関する文献ばかりだ。

彼の母親が聖女の神託によって冤罪を受けたという話は、学園内でも囁かれている。入学前の出来事で、詳細は知らないが、母親が修道院に送られたことは事実らしい。

あの人が神殿関連の文献を調べている理由は、おそらくそれだ。

私には関係のないことだ。

関係のないことだが。

引き出しの中の冊子のことが、頭から離れなかった。

あの人事記録。監査官二名の不自然な転任。配架先を判断できないまま引き出しに入れてある、所在不明の資料。

管理係として、資料が正しい場所にないことは落ち着かない。前世の図書館でも、配架先不明の資料は必ず誰かの判断を仰いで処理していた。自分で判断できないなら、内容を理解できる人に相談する。それが手順だ。

今、この図書室に、神殿制度の文献を日常的に調査している人がいる。

感情ではない。論理だ。管理係として、この資料の適切な扱いを判断できる人物に確認を取る。それだけのことだ。

引き出しを開けた。冊子を手に取り、奥の閲覧席へ向かった。

「ギルベルト様」

声をかけると、彼が本から顔を上げた。深い青の目が、こちらを見る。入学初日に見た目と同じ色だ。

「閉架書庫の整理中に、この冊子が一般書架の裏に紛れておりました」

冊子をテーブルの端に置いた。

「行政記録のようですが、図書室の蔵書ではなく、配架先の判断がつきかねております。神殿関連の資料をお読みでしたので、もし所管をご存知でしたらお教えいただけますか」

嘘は言っていない。冊子の配架先がわからないのは事実だし、彼が神殿関連の文献を読んでいるのも事実だ。

ギルベルトは冊子の表紙を見た。

その目が、一瞬だけ変わった。表情は動かない。口元の穏やかさもそのままだ。でも、目の奥の温度が、かすかに下がった。

「……開けてもよろしいですか」

「どうぞ」

彼はページをめくり始めた。

速い。読んでいるのではなく、確認している。指先がページの端を滑る動きに迷いがない。特定の情報を探す人間の手つきだ。

数分後、ギルベルトは冊子を閉じた。

「トーレス嬢」

「はい」

「これは神殿監査局の行政記録ですね。おそらく数年前の蔵書移管の際に、手違いで図書室に紛れたものでしょう。外部に出すべき資料ではありません」

「では、事務局を通じて行政書庫に返却すべきでしょうか」

「いえ」

少しだけ間があった。

「僕が預かります。父の伝手で、しかるべき部署に返却できますので」

宰相家であれば、行政書庫への返却経路は確かに持っている。事務局を通すより確実かもしれない。

「かしこまりました。お手数をおかけいたします」

それで終わるはずだった。

「トーレス嬢」

また名前を呼ばれた。

「中身は、ご覧になりましたか」

一瞬、迷った。

見ていないと言えば話は終わる。でも、表紙だけ見て配架先が判断できないと言ったのだから、中身を確認したのは自然な流れだ。嘘をつけばかえって不自然になる。

「配架先を判断するために、冒頭の数ページを拝見いたしました」

正直に答えた。

ギルベルトが私を見た。

さっきまでの、文献を確認するときの冷えた目ではなかった。品定めをするような、でも敵意はない、不思議な視線。

「僕が神殿関連の資料を読んでいることに気づいて、この冊子を持ってきた。そういうことですか」

「いいえ。管理係として、所在不明の資料の扱いを判断できる方にご相談しただけです」

「……なるほど」

ギルベルトの口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。

「賢明な方だ」

何が賢明なのかよくわからなかったが、深入りする必要はない。

「それでは、閉館作業がございますので、失礼いたします」

一礼して、カウンターへ戻った。

背中に視線を感じた。振り返らなかった。

カウンターの椅子に座り、目録帳を開く。ペンを持つ手が、少しだけ冷たかった。

あの冊子を渡したのは正しかっただろうか。

管理係として、所在不明の資料を適切に処理した。それだけのことだ。中身の意味も、彼が何を調べているかも、私には関係がない。

閉館の準備を始めた。返却台を片付け、閲覧席の椅子を整え、窓を閉める。

奥の席から、ギルベルトが立ち上がる気配がした。冊子を鞄にしまう衣擦れの音。足音が近づき、カウンターの前で止まる。

「閉館のお時間です」

「ええ、わかっています」

彼はカウンターに本を二冊返却した。いつもの手順だ。

「トーレス嬢」

今日だけで何度名前を呼ばれただろう。

「この目録——」

ギルベルトの視線が、カウンターの上に広げてある新しい目録帳に向いていた。

「これは、君が作り直しているのか」

「はい。既存の目録と実際の配架が一致しない箇所が多いので、確認しながら更新しております」

ギルベルトが目録帳を覗き込んだ。ページには、私が一ヶ月かけて確認した分類番号と書名と配架場所の対応表が並んでいる。

「この分類体系は、学園の標準とは違うね」

「前任の体系が機能していなかったので、扱いやすい形に再整理しました」

「……学園の学術資料室の目録より、はるかに正確だ」

社交辞令だろう。でも、彼の目は目録帳を真剣に見ていた。

「管理係の仕事ですから」

「一ヶ月でここまで整備する管理係は、なかなかいないと思うけれど」

返事に困った。これ以上褒められると、モブとして困る。

「お気をつけてお帰りください。閉館いたします」

話を切った。ギルベルトは何か言いかけたが、口を閉じて軽く頭を下げた。

「おやすみなさい、トーレス嬢。また明日」

また明日。

つまり、明日も来るということだ。

足音が遠ざかり、図書室の扉が閉まった。

鍵をかけ、廊下に出た。

夕暮れの光が廊下の石畳を橙色に染めている。寮へ向かう道を歩きながら、私は自分の行動を振り返っていた。

あの冊子を渡す必要は、本当にあっただろうか。

事務局に届ければ済んだ話だ。注目を集めるリスクはあったけれど、宰相家の次男に個人的に渡すほうがよほど不自然ではないか。

いや、不自然ではない。彼は図書室の常連で、神殿関連の資料を日常的に閲覧している。その人に行政資料の所管を尋ねるのは、管理係として合理的な判断だ。

合理的な判断のはずだ。

なのに、胸の奥に小さな引っかかりが残っている。

あの冊子に記されていた、監査官二名の転任。五年前から補充されていない人員。それが何を意味するのか、私にはわからない。わからなくていい。

モブには関係のないことだ。

寮の廊下を歩きながら、鐘楼の鐘が一つ鳴った。閉館時間を告げる鐘だ。毎日この音を聞いて、図書室を閉める。明日も同じ音を聞いて、同じように鍵をかける。

それだけの日々を、あと二年と十一ヶ月続ければいい。

部屋の扉を開け、ベッドに腰を下ろした。

ギルベルト・ヴァイスの目を思い出した。冊子の表紙を見たときの、あの一瞬の変化。品定めをするような視線。「賢明な方だ」という言葉。

それから、目録を見たときの真剣な顔。

「……明日も来るって言ってたな」

独り言が、狭い部屋に落ちた。

関わらないと決めたのに、私はまた余計なことをしてしまった。書類を拾ったあの日と同じだ。目の前にあるものを、放っておけない。

窓の外はもう暗かった。夕暮れの橙色は消え、紺色の空に星がひとつ見えた。

明日も図書室を開けて、本を棚に戻して、目録を書いて、閉館の鍵をかける。それだけでいい。

あの人が何を調べていようと、あの冊子に何が書いてあろうと、私には関係ない。

関係ない、はずだ。

目を閉じた。古い紙の匂いが、まだ指先に残っている気がした。