軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「入学の朝」

今日から私は、モブになる。

鏡の前で制服の襟を正しながら、ロゼリア・トーレスは自分にそう言い聞かせた。

数時間前まで、こんなことを考える予定はなかった。朝、寮の狭いベッドの上で目を覚ました瞬間、頭の中に別の人生がまるごと流れ込んできたのだ。

日本という国。大学という場所。図書館という職場。そこで本を分類し、棚に並べ、探し物をする人の手助けをして生きていた三十年間の記憶。

そして、その人生の終わり方。

ロゼリアは鏡から目を逸らした。

死因を思い出す必要はない。大事なのは、今ここにある状況の方だ。

記憶の中に、一つのゲームがあった。異世界の学園を舞台にした恋愛ゲーム。王太子を筆頭に、貴族の子息たちを攻略していく物語。

そのゲームの世界に、私はいる。

制服の胸元に刺繍された家紋は、蔦を模した小さな意匠。トーレス子爵家。ゲームの中では名前すら出てこない家だ。

主人公でもない。攻略対象の関係者でもない。断罪される悪役令嬢でもない。

ただの、モブ。

「……最高じゃない」

声に出した途端、少しだけ肩の力が抜けた。

悪役令嬢なら断罪が待っている。ヒロインなら面倒な恋愛イベントに巻き込まれる。でもモブには何もない。何も起きない。三年間おとなしくしていれば、そのまま卒業できる。

鏡の中の自分を、もう一度見た。

栗色の髪を低い位置でまとめた、目立たない顔立ちの少女。子爵令嬢として最低限の身だしなみは整っているが、社交界で話題になるような華やかさはない。

完璧だ。モブとして申し分ない。

ロゼリアは寮の部屋を出た。

入学式は、学園の大講堂で行われた。

高い天井にステンドグラスの光が落ちる。磨かれた石の床に、数百人分の足音が反響している。新入生たちは家門の格に応じた席順で座り、壇上には学園長と来賓が並んでいた。

ロゼリアの席は後方だった。子爵家の令嬢が座る場所としては妥当な位置。前方には公爵家、侯爵家の子息令嬢たちが背筋を伸ばして座っている。

壇上の学園長が歓迎の辞を述べている間、ロゼリアはゲームの記憶と目の前の光景を照らし合わせていた。

前方右側、金髪の青年が一人だけ近衛を従えている。あれが第一王子アレクシス・ルーヴェン。ゲームのメイン攻略対象。近づかない。

その数列後ろ、白い髪を高く結い上げた令嬢。ヴァレンシュタイン公爵家の紋章が見える。カティア・ヴァレンシュタイン。ゲームでは「高慢な公爵令嬢」として断罪される悪役令嬢の一人。関わらない。

反対側の列に、赤みがかった髪を無造作に束ねた令嬢がいる。ネルソン侯爵家。ヴィオラ・ネルソン。「陰謀好きの侯爵令嬢」として断罪される二人目の悪役令嬢。当然、関わらない。

三人目の悪役令嬢——ベルクハルト伯爵家のエレーヌは、どこだろう。中列のあたりに、黒髪を耳の下で切り揃えた無表情の令嬢がいた。おそらくあれだ。「冷酷な伯爵令嬢」。関わらない。

関わらない。関わらない。関わらない。

ロゼリアは心の中で三回繰り返した。

学園長の挨拶が終わり、来賓紹介に移る。そして壇上に、一人の少女が上がった。

柔らかな亜麻色の髪。穏やかな微笑み。白い法衣の胸元に、神殿の聖印が光っている。

「神殿認定聖女、マリアンヌ・セレスティアでございます」

会場がざわめいた。聖女が学園に入学するのは異例のことだ。新入生たちが身を乗り出し、来賓席の貴族たちも目を細めている。

マリアンヌは壇上から会場を見渡し、慈愛に満ちた声で祝辞を述べた。

「皆さまの学園生活が、光に満ちたものでありますように」

その声は柔らかく、温かく、講堂の隅々まで届いた。隣に座っていた令嬢が感激したように息を呑んでいる。

ロゼリアだけが、別のものを見ていた。

マリアンヌの視線だ。祝辞を述べながら、その目は会場を三度、特定の方向に向けた。一度目はカティアのいる方向。二度目はヴィオラの方向。三度目はエレーヌの方向。

品定めをしている。

ゲームの記憶が告げている。この聖女が、三人の悪役令嬢を断罪に追い込む張本人だと。

胃が重くなった。

でも、関係ない。私はモブだ。あの三人に何が起きても、私には関係がない。

ロゼリアは視線を落とし、膝の上で手を組んだ。

入学式が終わり、新入生たちが講堂から出ていく。

ロゼリアは人の流れに逆らわず、目立たないように廊下を歩いていた。向かう先は決めている。学園棟の東端、旧館の一階。図書室だ。

入学前に届いた学園案内の冊子を隅々まで読んだ。課外活動の一覧に「図書室管理係」という項目があった。募集人数一名。活動内容は蔵書の管理と整理。報酬はなし。希望者は入学後に図書室担当教師に申し出ること。

これだ、と思った。

図書室にこもっていれば目立たない。人と関わる機会も最小限で済む。しかも前世の経験がそのまま使える。

完璧なモブの隠れ家。

廊下を曲がった先で、それは起きた。

前方で、一人の男子生徒が足をもつれさせた。手に抱えていた書類の束が宙に舞い、紙が廊下一面に散らばる。

ロゼリアは立ち止まった。

通り過ぎればいい。モブらしく、見なかったことにすればいい。

足が動いた。

気がついたときには、もうしゃがみ込んで紙を拾っていた。

散らばった書類を手に取りながら、ロゼリアの指は無意識に紙の内容を確認していた。書類番号、日付、宛先。順番がばらばらだ。前世の習慣が勝手に手を動かす。日付順に揃え、宛先ごとに分け、書類番号の抜けがないか目で追った。

十秒もかからなかった。

「どうぞ」

整理された書類の束を差し出す。相手の顔を見上げた。

深い青の目をした青年が、こちらを見下ろしていた。背が高い。制服の仕立てがいい。胸元の家紋は——見覚えがない。ゲームの記憶にない紋章だ。

「ありがとう」

青年は書類を受け取り、その束を一瞥した。そして、わずかに目を見開いた。

「……君、書類の並べ方が見事だね」

「いえ、日付順に揃えただけです」

「日付順だけじゃない。宛先別に分けたうえで、書類番号の連番も確認しているだろう。この量を、この速さで」

ロゼリアは口をつぐんだ。やりすぎた。モブのやることではない。

「図書室管理係に志願する予定なので、書類の整理は少し得意で」

適当な言い訳を口にして、一歩下がった。

青年は書類を胸に抱え直し、穏やかに笑った。

「そうか。僕もよく図書室を使うから、そのうちお世話になるかもしれない」

「どうぞご利用ください」

それだけ言って、ロゼリアは歩き出した。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。

関わらないと決めたのに。初日から何をやっているのだ。

あの家紋はゲームに出てこない。つまりモブか、あるいはゲームに登場しないキャラクターだ。どちらにしても、物語の本筋には関係ない人物のはずだ。

もう会うこともないだろう。

ロゼリアは自分にそう言い聞かせて、図書室への廊下を急いだ。

図書室は、旧館の東端にあった。

重い木の扉を押し開けると、古い紙とインクの匂いが鼻を突いた。埃っぽいが、嫌な匂いではない。前世の図書館を思い出す匂いだ。

棚は高く、天井まで届いている。だが蔵書の配列はめちゃくちゃだった。歴史書の隣に植物図鑑、魔法理論の棚に料理本が混じっている。目録らしきものは壁にかかった古い羊皮紙一枚だけで、記載は十年以上更新されていない。

ロゼリアは棚の間を歩きながら、背表紙を一冊ずつ確認した。

ひどい。でも、直せる。

奥のカウンターに、白髪の教師が座っていた。図書室担当のミュラー教師だ。入学案内に名前だけ載っていた。

「失礼いたします。図書室管理係に志願したいのですが」

ミュラー教師は老眼鏡の奥から、ロゼリアを見た。

「志願は君が初めてだ。というか、ここ五年で初めてだよ」

「採用していただけますか」

「断る理由がない。明日から来なさい」

それだけだった。面接も審査もない。誰もやりたがらない仕事だから当然だろう。

ロゼリアはカウンター脇の古い椅子に座った。木が軋んだが、座り心地は悪くない。窓から午後の光が差し込み、埃が金色に舞っている。

ここが、三年間の居場所になる。

誰にも見られず、誰の物語にも関わらず、この椅子で本を整理して過ごす三年間。

それでいい。それがいい。

胸の奥で、小さな苛立ちがちくりと刺した。廊下で書類を拾ってしまった自分への苛立ちだ。あの青年の驚いた顔。書類の整理を褒められたときの、少しだけ嬉しかった感覚。

駄目だ。あれは余計なことだった。

三年間、透明でいればいい。

ロゼリアは目を閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。古い木の匂いと、紙の匂い。静かだった。

静かなはずだった。

図書室の扉が、かすかに軋んだ。

誰かが来る気配がした。

ロゼリアは目を開けなかった。開ける必要はない。図書室は全生徒に開かれた場所だ。誰が来ても、管理係として対応すればいい。それだけだ。

足音は棚の奥に消えた。

もう一度、目を閉じる。

三年間。たった三年間。おとなしくしていれば、何も起きない。

そう信じていた。