軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話「宰相の沈黙」

空白を見つけてから三日が経っていた。

宰相府の書庫で、証拠請求書類の最終確認をしていた。先日発見した三ヶ月分の記録欠落——通し番号七十八番から百十二番までの三十三件——を根拠として、神殿記録庫へのアクセスを正式に申請する書類だ。

「これで根拠の記載は全て揃いました」

ギルベルトに仕上がった書式を渡した。空白期間の詳細、前後の記録との整合性、欠落が意図的である可能性を示す通し番号の飛び。すべてを時系列に整理し、請求の根拠を明記してある。

ギルベルトが書類に目を通し、頷いた。

「宰相府の公印を押す手続きを進めます。これで神殿に正式提出できる」

書庫を出て、廊下に出た。

三日通って、この廊下にも少しだけ慣れた。壁の肖像画も、白い魔道灯の光も、見覚えのある景色になりつつある。それでも、私の靴音の小ささは変わらなかった。

ギルベルトがいつものように半歩前を歩いている。案内する側の立場。宰相家の人間としての所作だ。

角を曲がったとき、前方から足音が聞こえた。

重く、規則正しい足音だった。

廊下の向こうから、一人の男が歩いてきた。

背の高い壮年の男性。灰色がかった黒髪を後ろに撫でつけ、宰相府の正装を隙なく着こなしている。表情は、ない。感情を読ませない顔だった。

空気が変わった。

ギルベルトの背筋が、わずかに硬くなった。

「父上」

ギルベルトが立ち止まり、軽く頭を下げた。

父上。

ヴァイス宰相だった。

王国の最高権力者の一人が、廊下の向こうに立っている。その目が、ギルベルトの後ろにいる私を捉えた。

心臓が跳ねた。

威圧、というのとは違う。ただ、見られているだけだ。だが、その視線には計測するような正確さがあった。私の服装、姿勢、立ち位置、ギルベルトとの距離。すべてを一瞬で読み取っている。

「父上、こちらがトーレス嬢です。再審の書類整理を手伝ってくれています」

ギルベルトの声は落ち着いていた。だが、私には分かった。彼の声が、ほんの少しだけ硬い。

深く一礼した。

「トーレス子爵家のロゼリアでございます。本日は宰相閣下のお屋敷にお邪魔いたしております」

最敬語だ。子爵令嬢から宰相への挨拶。身分差に見合った最大限の礼を尽くす。

宰相は、私を見ていた。

長い沈黙だった。廊下の魔道灯の光が、白く二人の間に落ちている。

「ご苦労」

それだけだった。

三文字。声に感情はなかった。褒めてもいない。咎めてもいない。ただ、認知しただけ。子爵令嬢が宰相府にいるという事実を、処理しただけの反応だった。

宰相は私から視線を外し、ギルベルトを一瞥して、そのまま廊下を去った。

足音が遠ざかっていく。

私は頭を下げたまま、宰相の足音が完全に消えるまで動かなかった。

「すみません」

ギルベルトが言った。

「父は、ああいう人です」

「いえ、お忙しい方ですから」

平静を装った。だが、手のひらが冷たかった。

ご苦労。

たった三文字。だが、その三文字の中に含まれていたものを、私は読み取っていた。宰相は私を拒絶しなかった。だが歓迎もしなかった。子爵令嬢が宰相府に出入りしているという事実を、現時点では黙認している。それだけだ。

あの目は、カティアの茶会で品定めをしていた令嬢たちとは質が違った。あの二人は感情で見ていた。侮蔑や嫉妬で。

宰相は違う。

政治で見ていた。

この子爵令嬢は、宰相家にとって何なのか。利か、害か。それを測っている目だった。

ギルベルトが私の隣に戻った。半歩前ではなく、隣に。

「トーレス嬢」

「はい」

「父のことは、僕が——」

「大丈夫です」

遮った。ギルベルトが何を言おうとしたか、分かっていた。父に話をする、と言おうとしたのだ。私のことを認めてもらえるよう、取り計らう、と。

でも、それは違う。

「宰相閣下のご判断は、宰相閣下がなさることです。私がどうこう申し上げることではありません」

「しかし——」

「ギルベルト様」

私は彼の目を見た。

「私は、自分の仕事で示すしかありません。書類を整理して、証拠を揃えて、再審を成功させること。それ以外に、私にできることはありません」

ギルベルトは黙った。

その沈黙の中に、何かを言いたそうな気配があった。だが、彼は飲み込んだ。代わりに、小さく頷いた。

「分かりました」

穏やかな声だった。だが、目の奥にあるものは穏やかではなかった。

苛立ち、ではない。もどかしさだ。私を守りたいのに、私が守られることを受け入れない。そのことへの、行き場のない感情。

ごめんなさい、と思った。口には出さなかった。

ギルベルトが席を外した。

宰相に呼ばれた、と従者が伝えに来た。「少しお待ちいただけますか」と言い残して、ギルベルトは宰相の執務室に向かった。

書庫に一人残された。

静かだった。

書架に囲まれた空間。古い紙の匂い。窓から差す午後の光が、埃を金色に照らしている。

図書室に似ている、と思った。

でも違う。ここは宰相府だ。図書室には私の椅子があった。カウンターの定位置。あの椅子に座っている限り、私は図書室管理係だった。身分は関係なかった。

ここには、私の椅子がない。

壁際に立って、ギルベルトの帰りを待った。書庫の壁に背をつけて、天井を見上げた。

宰相に認められていない。

分かっていた。最初から分かっていた。子爵令嬢が宰相家に出入りすること自体が異例だ。カティアの茶会の名目があった学園時代とは違う。ここでは、私はギルベルトの依頼で来ているだけの、外部の手伝いだ。

それでいい。

今はそれでいい。

証拠請求書類を提出して、神殿記録庫の空白を埋める記録を見つける。再審を成功させる。それが、私にできる唯一のことだ。

感情で動いても、身分は変わらない。実績で示すしかない。

書庫の窓の外で、鳥が一羽飛んだ。午後の光の中を、まっすぐに。

ギルベルトが戻ったのは、半刻ほど後だった。

表情は穏やかだった。いつもの、読みにくい微笑み。だが、私は気づいた。目の奥が、少し暗い。

「お待たせしました。公印の手続きは済みました。明日、神殿に正式提出します」

「はい」

何も聞かなかった。

宰相と何を話したのか。聞きたかった。聞く権利があるとも思わなかった。ギルベルトと宰相の間のことは、ヴァイス家の家族の問題だ。子爵令嬢の私が踏み込む領域ではない。

でも、分かっていた。

ギルベルトが何かを隠している。宰相に何か言われた。それを私に伝えないことを選んだ。

彼の優しさだと思う。

でも、優しさは壁にもなる。

二人の間に、初めて「言えないこと」が生まれた。学園の図書室では、何でも話せた。脅迫メモも、母の冤罪も、すべてを共有した。でもここは図書室ではない。宰相府だ。

ギルベルトが守りたいと思っている。私を傷つけたくないと思っている。

私は問い詰めない。彼の判断を信じている。

でも、胸の奥に小さな棘が刺さった。

カティアの茶会の棘とは違う。これは、もっと近い場所にある棘だった。

宰相府の正門を出た。

夕暮れの王都。石畳が橙色に染まっている。茶会の帰りに見た光景と同じ色だった。

鞄の中には、証拠請求書類の控えが入っている。

やるべきことはやった。書類は完璧だ。根拠を整理し、請求の形に仕上げ、公印の手続きも終わった。あとは神殿に提出して、回答を待つだけだ。

でも、胸の中には二つのものが残っていた。

一つは、宰相の「ご苦労」という三文字。

もう一つは、ギルベルトが言わなかった言葉。

どちらも、今の私には変えられないものだった。

馬車に乗り、子爵家の屋敷に向かった。窓の外を、王都の街並みが流れていく。

認められていない。

でも、拒絶もされていない。

なら、まだやれることはある。

次は、神殿からの回答を待つ。記録庫へのアクセスが許可されれば、空白を埋める記録が見つかるかもしれない。見つかれば、再審の決定的な証拠になる。

一つずつだ。

手を動かす。書類を整理する。日付を並べる。

それが私の戦い方だ。学園でも、社交界でも、宰相府でも。

馬車の窓から、夕暮れの空が見えた。橙から藍に変わる、短い時間。

宰相の沈黙と、ギルベルトの隠し事。

二つの重さを抱えたまま、馬車は子爵家の門を潜った。

けれど、鞄の中の書類の重みだけは、嘘をつかない。今日、私の手が作ったものだ。

それを握って、私は馬車を降りた。