軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

34

三日目の夜、崖の下での作業が全て終わった。

帰り道、星が前世でも今世でも見たことがないくらい、たくさん出ていた。

護衛のふたりは先に村に帰していた。道は知っているし、危険もない。

サチコとエルクは並んで歩いていた。

「星が多いですね」とサチコは言った。

「山は空気が澄んでいる」

「前世では、こんな星空を見たことがなかった。都会だったから」

「前世の都市は、夜でも明るかったのか」

「真夜中でも、星が見えないくらい」

「もったいないな」とエルクは言った。

「そうですね。今は見えるから、よかったと思っています」

ふたりで空を見ながら歩いた。

「リナ」

「はい」

「前世では、こういう旅をしたことがあったか」

「ありません。一人暮らしで、仕事が忙しくて——遠くに行く機会がなかった」

「今世では」

「今世では、旅ばかりしているような気がします」

「嫌か」

「いいえ」サチコは星を見上げたまま言った。

「エルクと一緒なら、どこへ行っても楽しいので」

エルクはしばらく黙った。

星明かりの中で、エルクの横顔が見えた。眼鏡の奥の目が、少し揺れていた。

「リナ」

「はい」

「僕は——」エルクは言葉を選んでいる。いつも選ぶが、今日はいつもより時間がかかっている。

「お前と、ずっとこうしていたい」

「こうして?」

「旅でも、研究室でも——隣に、いたい」

サチコは星を見上げた。

(ずっとこうしていたい。)

前世では一度も言われなかった言葉だった。言う相手もいなかったし、言われる相手もいなかった。

四十三年間、ひとりで生きて、ひとりで死んだ。

今世では——

「私も」とサチコは言った。

「同じか」

「同じです」

エルクが、サチコの方を向いた。

星明かりで、眼鏡の奥の目がまっすぐこちらを見ていた。

少し間を置いて、「そうか」と言った。声が、低かった。

それだけだった。

でも、それだけでよかった。

ふたりで並んで、また歩き始めた。さっきと同じ道を、さっきと同じ速度で。

でも何かが、確かに変わっていた。

星明かりの下で、サチコは前を向いて歩いた。

(前世では手に入らなかったものが、今世にはある。)

それがただ、嬉しかった。

南の山岳地帯から学院に戻るのに、三日かかった。

馬車の中でエルクはいつも通り羊皮紙に向かっていた。

でもたまに、ふと顔を上げてサチコを見ることがあった。

サチコが気づくと、エルクはまた羊皮紙に戻った。

(練習しているのだろう、きっと。隣にいる人を見ることの。)

サチコは窓の外を見ながら、そっとしておいた。

春の景色が流れていく。麦畑に緑が芽吹いている。川が光っている。空が青い。

(この景色を、前世のサチコに見せてあげられたら。)

そう思ったとき、ふと気づいた。

前世のサチコを哀れだとは思っていない。あの四十三年があったから、今がある。

雑用を丁寧にやってきた十八年が、調律魔法になった。

人の顔を読んできた四十三年が、今の人間関係になった。

ひとりで生きてきた四十三年が、誰かと一緒にいることの嬉しさを、この骨の髄まで知らせてくれた。

(田中サチコの人生は、無駄じゃなかった。)

今世で使い切るための、準備だったのかもしれない。

学院に着いたのは、夕方だった。

アンナが走ってきた。

「おかえり! 二ヶ月ぶり! 痩せてない? ちゃんと食べてた?」

「ちゃんと食べました」

「エルクくんも!」アンナはエルクにも駆け寄った。

「おかえり」

エルクが少し固まって、「……ただいま」と言った。

言い慣れていない言葉が、ぎこちなく、でも確かに出た。

アンナが嬉しそうに笑った。

夕食は食堂でみんなで食べた。旅の話を、アンナが根掘り葉掘り聞いた。

エルクは最初無口だったが、途中から海底魔力の話を始めて、止まらなくなった。

アンナが「わかんないけど、すごそう!」と言った。

サチコはシチューを食べながら、その場を見回した。

賑やかな食堂。笑い声。旅の疲れ。温かい食事。帰る場所。

(ああ。これが、前世でずっと欲しかったものだ。)

「リナ、どうしたの? ぼーっとして」とアンナが言った。

「何でもないです。シチューが美味しいなと思って」

旅が終わって、また始まる。王国にはまだ、整えるべき流れがたくさんある。

殿下の治療も続く。エルクの研究も続く。

でも今夜は——ただここにいて、あたたかいものを食べて、笑っていればいい。

田中サチコ改めリナは、今世でいちばん、満ちた夜を過ごした。