軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

2話 一番の少女 Meilleure fille

ファルマは附属病院の病室を襲撃され、猿轡と目隠しをされ外に運び出されていた。

動けない状態にあったファルマは、彼らの仕事にとって都合がよかったことだろう。

運び出されてからは外部環境を遮断されていた。

どこかに横たえられる前に目隠しを取られたので、ようやく辺りの様子がわかる。

ここは独房だ。

手錠をかけられ、独房に拘禁されている。

独房の構造はおよそ床面5メートル平方に、天井までの距離が7メートル。

天井に一つ、壁面に一つ、鉄格子の窓を見つけた。

天井の窓の鉄格子の向こうから、規則的に水滴が滴り落ちている。

簡素な鋼鉄製のベッドの脇に木製のテーブルと椅子、テーブルの上には水差しとランプがある。

外に面していない方の壁には、不自然な位置にガラスがはめこまれている。

監獄や拷問場などで用いられている、透明度の高いグラス、フォワードグラス(verre à regard)というものだ。

監獄の外から中を見ることができるが、中から外を見ることはできない。

部屋の気密性が高く扉の軋みは聞こえるが、外部の足音などは聞こえない。

外からいつ看守に見られていても、内部からは分からない。

以前のファルマならば物質透過能力を使っていとも簡単に脱獄できたが、現在は物理的な拘束が効果を発揮する。

つまり、ただの囚人になった。

(間違いない、バスティーユ監獄だな)

病院からの移動時間と建築様式からそう判断する。

帝都にはいくつもの監獄があり、バスティーユ監獄は最大のもので、比較的新しい様式だ。ファルマは監獄内部に入ったことはないが、ブリュノは以前、政治犯の貴族の往診に入ったことがあると言っていた。

その際に世間話程度に内部の様子を聞いていた。

バスティーユ監獄の囚人はファルマの知る限り、わらの敷かれた雑居房から、金を払えば中流、上流階級の者には独房が与えられた。

雑居房ではなく独房にいるだけましかもしれない。

(どうしたものかな)

今のファルマは、日々の看護を必要とする。

体位交換をしなければ褥瘡ができ、筋も拘縮してしまうが、介助や看護を求めることは絶望的だった。それどころか今日にでも殺されてしまうかもしれない。

附属病院では今頃騒動になっているだろう。

最初に不在を発見するのはスタッフかエレンだろうが、ブリュノたちにも伝わったはずだ。

だが、誰も監獄内に拉致されたとは思うまい。

バスティーユ監獄内は今、囚人がいないことになっているからだ。

彼らが探し出してくれることを期待するのは望み薄だった。

ファルマは公的には存在しないため、失踪を公にできないし捜索も難しい。

ファルマが身動きをとれないのをいいことに、黒い外套を着た男が独房に入ってきた。

顔を見られたくないのか、頭から黒い頭巾を被って顔を隠している。

男は最小スケールの神力計を携えており、挨拶もなくファルマに押し当てた。

ファルマには神力がない。

目盛りはふれないはずだ。

ファルマは男の手もとに目をとめる。神力計の持ち方に違和感があった。

神力計は計測者が両手で握って計測し、体のどこに触れても測ることができるが、持ってはならない部分がある。

その部位を持つと、二人分の神力を測ってしまううえに、割れやすいのだ。

神力計の取り扱いを心得る貴族ならば、知らないはずがない。

正確に測ろうとするならなおさら。元貴族ではないことが一目瞭然だ。

男は神力計の読み方は知っているらしく、ファルマが完全に神力が枯渇していることを確認したようだ。

「神力はないのか。なら聖紋はどこにある」

「何の話だ」

ファルマは受け流す。凶漢には一片たりとも情報は与えたくない。

声に聞き覚えはないが、中年だとはわかる。

男は激昂し、院内着の上に羽織っていたファルマの上着をはぐと、院内着の襟を掴む。

髪の毛の中から足の裏に至るまでくまなく捜索される。

その視線は聖紋を探しているのだとわかったが、ファルマの体には薬神紋はもうない。

あるのは鎹の歯車が崩壊したときにできた、無数の傷跡だけだ。

「言え、聖紋はどこにある!」

「何のことかわからない」

男は全身くまなく探したあと、用途をなくした神力計を壁にぶつけて割る。

神力計はガラス容器の中に規定の大きさの晶石や鉱石が入っており神力の伝導を測る。

だから神力計を割ると中から鉱物が飛び出す。

「口の聞き方に気をつけろ。お前が聖紋持ちだと分かっているんだ」

「今、隅々まで探したんだろう。そして見つからなかった」

初手でファルマの殺害を試みなかった時点で、ファルマは男を相手にする必要がないと断定した。

誘拐犯は聖紋持ちと呼ばれている人物を誘拐したが、ファルマに神力も聖紋もなく、ただの人間だったことに焦っている。

さらに男は、聖紋……ファルマの場合は薬神紋だが、そのありかについて正確な情報を持ち合わせていない。

なぜわからないか。

答えは簡単、男が平民だからだ。

平民は神術に関する情報を得られない。

「では質問を変える。神力を得る方法を知っているのか否か」

「それを答える対価を提示しないなら、答える義理もないだろう」

全く怯える様子のないファルマに男は苛立ったようで、声がますます威圧的になる。

「傷が増えるのが好みか? ここは監獄だ、趣向を凝らした拷問もできるんだぞ」

「私には麻痺があり、痛みを感じない。引き出せる情報は何もないし、拷問が成立しない」

ファルマは淡々と答える。

痛覚は部分的にあるのだが、それは伏せておく。

「そうか! ではどれだけ刺しても痛まないんだな? もう少しましな嘘をつけ!」

男は壁にぶつけて割った神力計のガラス片の大小の破片をとりあげる。

ファルマは忠告した。

「仮に私を数日でも生かしておきたいなら……」

男はファルマの上半身にかざしていたガラスの動きを止める。

「喉や肺に穴をあけるのはお勧めしない」

男はそのまま舌打ちをして下半身にスライドさせ、ファルマの下肢から順に、ゆっくりと等間隔にガラスを刺してゆく。

ファルマは反応しない。

実際、下半身の感覚はないのだ。

無表情を貫きながら外傷の程度を見積もる。

神力計のガラスの強度はもろく、その破片は体の深くまで突き刺そうにも途中で割れて傷も浅くなる。だから出血はそれほどではない。

「やせ我慢か? ご立派なことだ」

ファルマは別のことを気にしていた。

ガラスを刺されるのはまだいい。

ガラスを体内で割られると破片が血流に乗って臓器を損傷する可能性がある。

下肢から上へ向かって傷が増えるにつれ、段々と痛みを感じ始める。

ファルマは微動だにせず、目を閉じたまま耐える。

腹部に差し掛かったとき、破片のガラスが足りなくなった。

男は舌打ちするとファルマを観察し、全く反応がないことを確かめた。

ファルマは諭すように告げる。

「言っただろう。痛覚がない。15枚刺して理解できたか?」

「……やり方を変える。お楽しみは明日からにしよう。出せ!」

男は腹いせに扉に拳をぶつけると、看守に扉を開けさせて出ていった。

ファルマは扉に血液が付着したのを見つけた。

夜のとばりの落ちた独房では時間の感覚がなくなる。

テーブルの上に置かれたオイルランプの炎が、おおよその時間を教えてくれる。

ファルマはオイルランプの燃焼時間とオイルの残量、そして格子窓から差し込んでくる光をもとに、経過時間を推測する。

ここに来てまだ五時間、日没から二時間、暴行されてから三時間ほどしか経っていない。

このタイプのパラフィンオイルランプは八時間ほどで燃え尽きるので、オイルの替えを持った看守が来るに違いない、とファルマは考えた。

ファルマの世話をするつもりがなくとも、監視のために明かりがいる。

それからほどなくして独房の扉が開き、下働きと思しき身なりの少女が房の中へ入ってきた。ここに少女の姿は場違いだ。

監獄内の職員は監獄長、看守、技師で、外部との接触を最小限にするため住み込みで、囚人の脱走を防ぐため全員が男性だと聞いたことがある。

碧色の髪の少女はファルマと歳が近そうだが、痩せていて青白い顔をしていた。

外部と隔絶した環境で彼女が働かされていることをファルマは気にかける。

左頬に打撲のあとがある。内出血の状況から昨日殴られたのだろう。

食事のトレイを持つ彼女の手首にはいくつもの古傷があり、手錠をかけられていたとみられる。模範囚が刑務作業の一環で囚人の世話をさせられているのだろうか。

彼女がランプの替えのオイルとともに持ってきたのは質素なパンと、申し訳程度に穀物の入ったスープだ。毎日これでは数ヶ月ともたず衰弱してしまうな、とファルマは危機感を覚える。

体力を使う行動は前倒しにしたほうがよさそうだ。

「……えっ!?」

少女はファルマに向き直り、まともに彼の姿を見ると固まっている。

無理もない。衣類を剥ぎ取られ、全身にガラスが刺さって流血している囚人だ。

看守からは何も聞いていなかったのだろうか、とファルマは訝る。

ファルマは少女を観察する。

彼女が何を見て驚いたのか、最初の言葉を待つ。

僅かな手がかりによって、彼女の立ち位置がわかる。

「すぐ手当します」

少女が鼻をすすりながら一つ一つガラスを抜いてくれる。

ガラスを抜かれるたび出血しているのだろうが、ファルマには感覚がない。

「ありがとう。左大腿に刺さっている大きなものは、もう少し血が止まるまで抜かずにそのままにしておいてください」

「わ、わかりました。何か布を持ってきますね」

「特に処置はいりません。そのままにしておいてください」

神力計の内部は製法の都合上、アルコールが入っていて無菌だ。

逆に手当をされると感染を起こすかもしれない。

それに、先程の男の差し金であるかもしれないこの少女のこともまだ信用できない。

ついでにファルマを手厚く止血やら手当をして、彼女が折檻を受けたり辛く当たられるとファルマは心が痛む。

このままのほうがましだった。

「体を起こせますか」

「もともと全身の麻痺があって動かないんです、事故に遭って」

「そうですか……お気の毒に」

少女の顔に深い影が落ちた。

「私は暫くの間、あなたのお世話と看病を命じられました。まさかこんなことになっているとは……着替えを先に持ってきます」

ファルマは少女の態度を妙に思った。

ここに運び込まれてくる人間は罪人だ、ファルマも彼女にそう思われているだろう。

しかし彼女のファルマに対する言葉遣いは、罪人に対する態度ではない。

罪人として不相応な敬意を持たれているような気がする。

「お願いがあります。失血による体温低下を防ぐために私のコートのボタンを閉めておいてもらえますか」

「もちろんです」

少女は手錠に繋がれたファルマの両手を腹部に置き、ファルマの上着のボタンをとめると、看守に独房の扉を開いてもらい、出ていった。

「三階の倉庫の鍵を開けてください。囚人は血まみれで、着替えが必要です」

「さっさとしろ。もうすぐ消灯時間だ、間に合わなければ食事は下げろ」

「はい」

扉が締まる直前に少女の声と看守の声が聞こえ、足音が同じ方向に二つ消えた。

(別の階に取りに行くには、最低2分は稼げる)

歩調から推測するに階段の移動に15秒、往復で30秒、目的の部屋までの移動に30秒、往復1分、計2分だ。

(1、2、3……)

ファルマは独房で一人になり、秒数を数えながら手錠の下に指を差し込む。

麻痺があり指の動きはぎこちないが、それでも動く。

(4、5、6……)

手錠の下、手首の皮膚の中から長い注射針を抜いた。

誘拐される直前に、輸液針を皮下に差し込んでおいたのだ。

監獄に着いてすぐ武器の所持がないかは確認されたが、最初に手錠をされたため手首の仕込みに気づかれなかった。

手錠は簡単な作りで、現代地球のように精巧ではない。

手錠の鍵穴に針を差し込み少し撫でると、簡単に解錠する。

ファルマは右手で大腿に刺さっているガラスを引き抜き、留められた上着のボタン糸の片側を鋭利なガラスで一つおきに一気に切る。少女がボタンを留めてくれていたおかげで、片手で糸を切ることができる。

ボタンを一つおきに3つ切り離し、ボタンを口に入れて完全に飲み込む。

(80、81、82……)

さらに神力計の中に入っていた鉱石がベッドの上に飛び散っている中から八面体のもののみを手触りで探し、傷の中に埋め込んで止血をした。

(108、109……)

元のように手首に針を埋め込んだあと、自ら手錠をかける。

そこで扉があいた。

「おまたせしました、大丈夫ですか。着替えをしますね」

少女は粗末なリネンの囚人服を持ってきてファルマを着替えさせる。

一つおきにボタンを取ったので、上着のボタンが減ったことに気づかれていない。

ファルマは悪いと思いながらも少女に全体重を預けて脱力し、少しも体を動かさない。

筋肉の緊張や、自発的に動かせる部位を知られるとまずいからだ。

しかし少女はファルマの着替えに手こずっている。

ファルマは18歳の青年だ。入院生活で筋肉量が落ちたとはいえ、身長も体重もそれなりにある。

華奢な少女には文字通り荷が重い。

ファルマは見かねて言った。

「もう少し両足を開いて私に密着してください」

「な、何のために?」

明らかに不審がられている。

麻痺というのは嘘で、接触すれば何かされるもしれない。

ファルマの発言は警戒に値する、そう思われているのだろうな、とファルマも察する。

「変な意味ではなく、腰痛予防のためです。その姿勢で私の体重を受け止めると腰を痛めます。私の体を小さく折りたたんで、重心を合わせ、梃子の原理を利用して起こしてください」

人間の関節の力学関係を利用して楽に介護ができる、ボディメカニクスという介護技術だ。ファルマの教育を受けた医薬大のスタッフと異なり、彼女は素人で体力もない。

仮に毎日ファルマの担当をするなら、覚えてもらったほうがいい。

「ほんとだ。男の人なのにすごく軽くなりました」

少女が感心したのもつかの間、外からガンガンと扉を叩く音がする。急げというのだろう。

少女は急いで食事の介助をしようとする。

「食べたほうがいいです、命にかかわります。食事は一日一回しかありません」

「今日は気持ち悪くて食べられません。吐くと思います」

「では明日は必ず食べてください」

少女は背後を気にするように振り返ると、向き直ってすぐファルマに小声で話しかけた。

「両肩、きれいでしたね」

「きれい……?」

ファルマは試すような言葉にひっかかる。

ファルマの肩には薬神紋はないがいくつかの傷があり、きれいという表現は不適切だ。

薬神紋が「きれいだった」といいたいのか、薬神紋が「きれいに消えている」といいたいのか。

時制がわからない。

「それは現在の話ですか?」

「過去の話です」

間違いない、彼女はファルマの薬神紋を見ていた。

先程の男は知らなかった情報をこの少女は知っていて、男には伏せておいてくれている。

ファルマは少女と面識があったか思い返そうとするが、ファルマが関わった人々はあまりにも多く、少なくとも数千人にのぼる。

世界薬局の前DG、あるいは店主として広く顔を知られ、市民と接する機会も多かった。ファルマの記憶にも限度があるし、数年前だと彼女も顔が変わっているだろう。

ただ、薬神紋を見た人間はそれほどいない。

ファルマは化粧で薬神紋を徹底的に隠していたし、薬局では長袖の白衣を着ていた。

例外的に診眼を長時間使ったときは白衣を貫通して光るかもしれない。

ファルマが診眼で疾患を検索している間に、彼女は両肩を見ていたのだろうか。

彼女が先程の男の差し金なのか、薬神紋の存在を知っている第三者なのかまだ判別がつかない。

「母が四年前に289をもらいました」

盗聴や失言を警戒しての暗号のようなやりとりだ。

しかしファルマはすぐにぴんときた。

289。ファルマは世界薬局の全薬剤に割り振られた管理番号を思い出す。

薬剤管理番号は、ロットとは別に錠剤に打刻している。

処方ミスを防ぐためだ。

世界薬局における289番はカモスタットメシル酸塩。

慢性膵炎の治療薬に相当する。

現在では総本店以外どの薬店でも店頭では売っていない。

ファルマはすかさず確認する。これが嘘なら、話が早い。

「それは赤の二つですか」

「白の三つでした」

誘導にひっかからなかった。

カモスタットメシル酸塩は白い錠剤で、慢性膵炎の場合一錠を一日三回飲む。

彼女の母親か本人か係累が直接異世界薬局の本店にきて、ファルマにかかったのは本当だ。

「……あなたがある人に似ているような気がしましたが、別人だったのかも」

少女は返答を外したファルマに失望したようなため息をつくので、ファルマは訂正した。

「お母さんはお腹か背中が痛かったのでしょうね」

「やはり……」

少女の顔に明るさが戻った。ファルマの正体を確信したのだろう。少女はいっそう声を小さくして早口に話し始めた。

彼女は助けを求めているのだろうか。

「時間がないので聞いてください。この監獄に収監されているのは常に10名ですが、定期的に追加があり、用のなくなった囚人からいなくなります。囚人には番号がついていて、あなたは10番です。20日後に、あなたは9番になります」

ファルマはあることに気づくと少女に口を閉ざすように目配せし、無声音で「盗聴されている」と伝えた。

独房の天井に鉄格子のはめ込まれた窓があり、そこから先程まで落ちてきていた水滴が落ちてこなくなったからだ。

上階に井戸水を引き上げる配管があり、水がリークしているか、配管で冷やされた水蒸気が落ちてきているのだろう。

それが落ちてこなくなったということは、誰かが換気口に張り付いて階上で聞き耳をたてているのだろう。

少女は自分を指差し、ファルマにだけ見えるように胸元をはだけた。

彼女の左胸には、聖紋に似た火傷の痕がある。

水神の聖紋に似ている。

しかしファルマにはわかる、それは聖紋ではない。

あくまでただの火傷だ。

彼女は自身の襟を戻すと、ファルマの眼の前に人差し指をたてた。

ファルマははっとする。

彼女は1番の囚人だ。

この火傷を聖紋と間違えられて、ここに連れてこられたのだ。

だからファルマの世話をさせられている。

もうすぐ用済みになって、何を知っても消されてしまうから……。

ガンガンと、看守が外から扉を叩く音がする。

少女は急いで割れた神力計のガラスを片付け、ファルマが食べなかった食器のトレイを持った。

少女は声のボリュームを上げて、外の看守にわざと聞こえるようにファルマに尋ねる。

「もう消灯時間です。何か要望がありますか」

「夜中に吐くかもしれません。私を横向きの姿勢にして、その皿を空にして口元においてくれますか。ベッドを汚さずにすみます」

少女は言われたとおりの姿勢にすると、看守を呼んだ。

就寝の確認をされて、囚人の状態に問題がないとわかるとランプを消灯されるのだろう。

ファルマは看守に要望した。

「もう少しで吐きそうなので、きちんと皿に吐くためにランプをつけておいてもらえますか。粗相をしたくないのです」

「どのみち油がもう少ししかない。勝手に消えるぞ」

「それまでの間でかまいません」

ファルマはドアが締まり物音が消えると、先程の要領で手首から針を取り出し手錠を外す。

口腔内へ針を突っ込み、あるものを喉の奥から引っ掛けて引き出す。

それは誘拐される直前に鼻の中へ押し込んだ経鼻カテーテルだった。

ファルマは迷わず自己抜去しながら嘔吐をして皿の中に吐き出す。

嘔吐物の中には大量の胃液と、ファルマの上着から取ったボタンが残っていた。

――カテーテル、胃液、ボタン。

その全てに用がある。

サン・フルーヴ医薬大附属病院では、エレン、パッレ、ファビオラ、エメリッヒが部屋を締め切って密室の話し合いを行っていた。ブリュノにはまだ報告していない。

すぐ報告すべきなのだろうが、ブリュノの苛烈な性格からして、「亡き息子のために」手勢を率い、正面からバスティーユ監獄を襲撃しかねない。

報告するにしても、ある程度方針を固めてからだ。

「ファルマがバスティーユ監獄にいるのは確実だ。他の捜査犬も監獄にたどり着いた」

「どうすれば救出できるのかしら……急がないと」

「わかってる」

パッレとエレンの声にも焦りがにじむ。

ファルマの誘拐から一日が経った。身代金の要求も犯行声明もない。

つまりそれは、ファルマそのものに用がある。

今の状態のファルマを連れ去ったところで、犯人に看護ができるとは思えない。

数日放置されるだけでもファルマの命にかかわる。

それ以前に、ファルマは生きているだろうか。

神秘原薬にされてしまわないか。

捜査犬はファルマの生死を教えてくれない。事態は一刻を争う。

「あいつが以前のファルマであれば救出すら必要ないんだがな。土壇場で神力を取り戻せたりはせんのか」

「わからない。でもしないと思うわ。彼は自分に制約を課してる」

そうでなければファルマは攫われたりしない。

自分自身の危険より、この世界の行く末を優先した。そうエレンは確信している。

何かを考え込んでいたエメリッヒが重い口を開く。

「教授は……切り札を持っているはずです。教授に移植した神経幹細胞の遺伝情報には、“不思議な余剰配列”がありました」

「それは何の配列だ、聞いてないぞ」

パッレがエメリッヒに詰め寄る。

「私も教えてもらっていません。配列の特徴を調べ尽くしましたが、全く推測できませんでした。ただの余剰配列だとおっしゃるのですが、何か機能を持っていると思います。私に何か隠し事をしているとしたら、教授の頭脳には追いつきません」

うなだれるエメリッヒにパッレは舌打ちをする。

「例えば神術関連遺伝子に替わる機能性遺伝子を仕込んでいたとしても、薬剤も神力もなしに操作できるやつはいない。手元にスイッチがあったとして、ボタンをおせないんだ。監獄を破るしかないな。できれば合法的にいきたいが、できなければ完全犯罪に持ち込みたい」

パッレは非合法での救出も視野に入れ始めたが、それに異論を挟むものはなかった。

ファルマを助けたい気持ちは誰も同じだ。

「内部に火を放って火災や爆撃を起こす」

「ファルマくんは自力で動けないのよ。蒸し焼きにするつもり? それに、無関係な人を巻き込むのはどうかと思うわ」

パッレをたしなめるようなエレンの分析に、ファビオラが提案を重ねる。

「では穏便に、監獄ごと買収するのはいかが。資金なら用意できるわ」

「国民議会へ諮るまでに数ヶ月かかります。善良な市民が監獄を買いたい口実も思いつかないですし……大統領も元貴族の買収を警戒するのでは」

「言われてみればそうね。では医薬大の病棟にするといってもだめかしら」

「こないだ新病棟を建てたばかりでしょう。不自然です」

エレンはファビオラのダイナミックな買収案も受け入れがたい。時間がかかりすぎるのだ。

「極秘に監獄に潜入しファルマを連れ出す。あいつならそうする」

「それしかなさそうね」

パッレは逡巡することもなく実力行使にたちかえる。

「しかし問題は警備が鉄壁なことだ。警備体制を調べたが、看守も住み込みで交代しない」

「でも、生活物資を運んだりする。鉄壁なんてありえないわ」

エレンは監獄の外観写真を眺め、通用路の構造をメモする。

少しでも何か、突破の手がかりはないか。

監獄の写真をルーペで拡大していると、ある看板に目を留めた。監獄内病院だ。

「監獄内に傷病兵のための病院があるわよね」

「そうだな。だが監獄医は住み込みだ。年に数度しか外に出て来ない」

「どうして? お師匠様は診察に行ったことがあるわ。前は往診だったはず」

「変わったんだ。国民議会が決めた」

「……傷病兵ということは、外科よね」

「外科だろうな」

「ならば必ず世界薬局の薬をおろしてる」

監獄内へつながるルートが見つかった。

エレンはメガネをかけなおし、ゆるく唇を結ぶ。

世界薬局の麻酔薬は、世界シェア100%だからだ。

(20日か……)

ファルマの世話係の少女はあと20日で殺されるのだろう。

それを彼女もわかっているから、最後のあがきにファルマに助けを求めようとしたのかもしれない。

そしてファルマの体の状態を見て、薬神紋すら消えていることに絶望した。

ファルマの命を繋いでくれている彼女も、無実で収監されている残りの8人も助けたい。

自分自身の保身はともかく、これ以上の無辜の犠牲者を出さないためにも、獄中から確かな情報を集めて脱出しなければと考えた。

ファルマがこの状況でも冷静でいられるのには理由があった。

彼は奥の手を持っている。

だが、まだそれは使わない。

(聖紋を持つと噂されている人間か、神力を残していると思しき人間を闇雲に誘拐しているのか?)

彼らはファルマ・ド・メディシスを狙っていたのではないのだろうか。

だとしたら一体誰が、何のために。

世界の果てまで探したって、この世界にはもう神術使いは存在しない。

それはファルマだけが知っている。

(存在しない神術使いの生き残りを集めて何をしようとしている?)

ファルマは外に面した独房の壁面を眺める。

彼の視線がとらえているのは、

オイルランプ。

二つの鉄格子つきの窓。

階上からの水滴。

気密性の高い監獄の扉。

彼が所持しているものは、

輸液針。

プラスチックのボタン3つ。

カテーテル。

鋭利なガラス片。

神力計の中から得られた、正八面体の鉱物。

胃液。

そして……明け方六時の鐘の音(L'Angélus)を待つ。

よどみなくパズルのピースを埋めてゆくように、ファルマの思考の中ではこの数時間の間に、すでに複数の脱出方法を同時に構築し始めていた。