軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1話 要塞 Bastile

両手の拳を注視する。

それをゆるくむすんで、ひらく。

生きている証を掴むように。

その手の下には影が色濃く落ちている。

たったこれだけが今の彼には難しく、動作はぎこちない。

この思考だって、無数の可能性の中からランダムに選ばれた条件に存在する、迸る神経発火の集合体に過ぎない。

集合間のやりとりが絡まり合って人格を形成し、記憶として増強され、体験したりする。

ここから先は地球に似た全く知らない世界で、未知の困難に直面し、地球史を追跡しない歴史をたどる。

一時的に滅亡を回避したところで、結局は滅びが待ち受けているのかもしれない。

ファルマたちはこの世界の「観測者」として滞在する。

それはほぼ傍観者と同義で、人智を超える範囲で干渉してはならない。

「観測を続けるため」の知識は得ている。

カーテンコールを終えても、また誰かの物語は続く。

1153年5月。

サン・フルーヴ国国民議会は決選投票の末、平和裏に初代共和国大統領を選出した。

平民出身の第一統領をという民衆の強い希望から白羽の矢が立ったのは著名な歴史家にして弁護士、弁舌を得意とするマーセイル出身のジュールだった。

ジュール大統領はサン・フルーヴ宮殿に大統領府を構え、 旧体制(アンシャンレジーム) からの脱却をスローガンに次々と自由主義改革を打ち出し、国民の信頼を手に入れていた。

それとは対象的に旧貴族階級への締付けは強まった。貴族階級は少数派であったので、多数決の名のもとに合法的に重税を課され、領土返還を要求され、既得権益をそがれていった。

帝国医薬大総長ブリュノ・ド・メディシスとエレオノール・ボヌフォワが、総長室で事務長より忌まわしい報告を耳に入れたのは、そんな時世の折だった。

「ファルマの命を狙う者が?」

「はい、逆恨みと言いましょうか……今月に入ってもう三件目で。雇い主も一人や二人ではないようなのです」

長いひげをたくわえた事務長は調査結果を報告する。

「ふむ……ファルマが生存しているという話がどこかから漏れたのか」

表向きは平穏であっても、神官や神術使い、生活を追われた大貴族の一部ではいまだにファルマに恨みを持っている人間は多い。

複数の情報筋から危険を察知していたブリュノは、神籍に入ったファルマの籍を復活させなかった。

そのためファルマはもう、戸籍上は死亡していた。

「彼を狙ったとしても詮無きこと。彼はもう薬神ではないのだから。しかし仇討ちで償わせようとする者は跡を絶たぬか」

ブリュノにとっても頭の痛い問題だった。

「そればかりでもありません……。いまだにファルマ様を神聖視している者たちもいます」

ファルマの体にはまだ守護神の神力が残っていると考える者もいて、文字通り彼の血肉を食らって力を得ようとする者もあとをたたない。

ファルマが死んでいたら死んでいたでそれは聖骸として、神秘原薬にしようとする。

彼らにとってはファルマの死体でも骨片でも髪の毛でもいいのだ。

生きているならば、なおさらのこと。

「私は最小スケールの神力計において、ファルマの神力がゼロになっていることを確認した。彼は紛れもなく人間で、神術使いですらない。そう……私達と同じな」

神術を奪われ、倫理の箍の外れた人間は恐ろしい。

本当に恐ろしいのは悪霊でも墓守でもなく、人間の悪意や欲望なのかもしれない。……というのはブリュノの持論だ。

「帝国医薬大には箝口令が敷かれているはずですが、どこかから漏れているのかもしれません」

ファルマが回復期リハビリテーション病棟に移ってからというもの、一般患者と遭遇することがある。または集学的医療を実施するということは、数多くのスタッフが関わるということで、医療従事者が不用意に口外して情報が漏れたのかもしれない。

一度破られた秘密を守ることは難しい。

大穴のあいたバケツを塞ごうとするようなものだ。

「情報が漏れたとして、警備は万全ですが……それ以外ではご子息の安全を保証できません。警備に人員を割き続けることも難しく」

事務長は暗にファルマの転院を促していた。

「そうだな。帝国医薬大としての本来業務に差し支える。患者の安全も脅かすであろう」

「ご子息の葬儀を執り行い、死亡したとして国外に新たな名と籍を手配しますか」

しかし、ファルマの顔は広く国内外に知れ渡り、名や身元を偽ったところで隠し立てできそうにない。

犯罪や襲撃に巻き込まれたとき、神術を失い、四肢に麻痺のあるファルマでは対応できないのだ。戸籍上は死亡しているため、亡命も難しい。

それに、かつての尊爵、または宮廷薬師としてのブリュノの権勢も、身分制の廃止と大統領制への移行とともに衰えはじめていた。

「帝国医薬大が管理している 療養施設(サナトリウム) は現在十二ある。サナトリウムの患者らは入れ替わりが頻繁であり、ファルマを知らぬ。ファルマの回復が見込まれるまで長期静養に出す……数年もすれば、ファルマの死亡説が信憑性を帯びてくるだろう。そうなれば、命の危機には及ぶまい」

あるいは、ブリュノがファルマを表向き匿うことができなければ、最悪そこで生涯過ごしてもらうことになる。

ブリュノはその可能性を一顧だにしなかったわけではない。

サナトリウムとは、長期療養を必要とする人々のための療養所であり、主に結核治療用の施設として用いられていた。ところが近年はファルマの普及させた抗菌薬によって、結核患者が激減、慢性疾患や神経疾患の療養者に置き換わりつつあった。

「あの、お師匠様。ファルマくんは神経幹細胞移植が奏功し、会話も少しずつできるようになりましたし、もう少し帝都での療養を続けることはできませんか」

じっと話を聞いていたエレンがたまらなくなって口を挟む。

「昨日会ったが、まだ歩ける見込みは立っていない。奇跡が起こったとしても、立って歩けるようになるまで、一年はかかりそうだと本人が言っていたがな」

ブリュノの見立ては確かだった。ファルマとも話したのだろう。

自己申告をされてしまったなら、エレンは反論の余地もない。

「神術も使えないから、自力で防衛をすることもできない状況だ。そんな状態を襲われたらどうなる」

「私が彼に同行してもよろしいでしょうか。ファルマくんの主治薬剤師として……」

エレンは思い切ってブリュノに申し出た。

ブリュノは彼女を一瞥し、ため息をつく。

「お前はファルマの担当かもしれないが、世界薬局のDGでもある。そのお前が帝都を離れると薬局の経営はどうなる。ファルマからお前に交代したばかりで、まだ十分に業績を認められておらぬというに、さらに経営者の代理を立てるのか? お前は責任者なのだ。ファルマがどうあれ責任を果たせ」

「……御意」

エレンは返答に窮し、承諾した。

「ファルマくんをどこのサナトリウムへお連れしましょう。帝都内か、近郊は難しいでしょうか」

エレンは食い下がりつつ、ブリュノの言葉を待つ。

ファルマの身の安全を優先するならば遠隔地に送ったほうが安全なのかもしれないが、それはエレンには耐え難いことだった。何より、彼のそばにいたかった。

「ファルマに選ばせるといい。資料はここに用意してある」

エレンはブリュノから資料を受け取ると、暗澹たる気持ちでファルマの病室へと向かう。

通いなれたその場所へ向かう足取りは重い。

ファルマは今、リハビリ病棟の最上階の角部屋の個室にいる。

いわゆる特別室で、ファルマの入院は病院患者からは知られていなかった。

「ファルマくん、ちょっといい?」

「どうしたの、エレン。回診の時間ではないけれど。顔色も悪いよ?」

春の爽やかな風に吹かれてベッドを起こして論文を読んでいるファルマの姿を見ると、エレンはぎゅっと胸を締め付けられるように思う。

彼は身体的不自由ななかにあっても、いつもエレンの身を思ってくれる。

過労をしていないか、仕事で行き詰まっていないか。

適切なアドバイスをしてくれていた。

ファルマは会話ができるようになったがほぼ嗄声で、まだ普通の発声はできない。

穏やかな青年は、エレンの様子が普段と違うことを見抜いていた。

「実はね」

エレンが重い口調で先程のブリュノとのやりとりを話して聞かせる。

その話をファルマは困ったように聴いていた。

「なるほど……サナトリウムへ無期限でね……」

「そうなの。でも気を落とさないで。ファルマくんの身の安全のためでもあるの。あなたの体が動くようになって、ほとぼりが冷めたら帝都、じゃなくて首都に戻ってこれるわ……私も時間が許す限りそっちに行くし……」

励まそうとしても、エレンの語尾が段々とすぼんでくる。

ファルマに対しては、口にするのも躊躇われるほど非情な宣告だ。それでも、いつまでも隠し立てはできない。襲撃者の数が増えているということは、彼の身に危険が迫っているということだ。

「そうだね、父上のおっしゃることもわかるよ。俺もここにいるべきではないと思う」

病院で警備を雇うにしても、他の患者に秘密でとなると現実的ではない。

何より病院内で特別な対応を迫られる。ド・メディシス家の屋敷であっても状況は同じ。

もう防犯のための神術陣が機能しないので、賊に入られてしまえばそれまでだ。

最悪、ド・メディシス家を爆破することでだって目的は遂げられる。

「仕方がなかったことなのに……あなたは世界を救ってくれたのに。どうしてあなたを狙う人間が出てくるのかしら」

「何も知らない一部の元貴族たちから見れば、俺は理由もなく神術を消し去った張本人だからな。歓迎される理由もないよ」

「……悔しいわ」

「そうだね。それで、サナトリウムはどこにあるの?」

エレンはファルマに促されてファルマに資料を掲げてみせる。

「帝国医薬大が所有する12の療養施設と病院とサナトリウムがあるの。お師匠様があなたの希望する場所を押さえるそうよ。希望はある?」

ファルマは真剣な眼差しで資料に目を通すが、興味を失ったかのように小さく息を吐く。

「サナトリウムでリハビリをすることには賛成だ。でも教え子たちの研究が佳境に差し掛かっているし手紙や電信のやり取りに差し支えるから、できるだけ帝都に近いほうがいいな」

「あなたその状態でまだ仕事してるの?」

どれだけ止めても、また知らない間に仕事をしこたまこしらえて……とエレンは呆れてしまう。

しかし、結局走り続けずにはいられない生き方なのだろう。

エレンも彼の伴走を続けて、いつの間にか走り続けているのだが。

思えば随分遠くまできたものだ、とエレンは自らの人生を振り返る。

「仕事も少しひかえるべきだわ」

「……わかった。少し考えてみるから、時間をくれないかな」

「お師匠様は一週間以内にはとおっしゃっているわ」

「夕方までには決めるよ、待たせはしない」

「そう、では夜勤のときにまた聞かせて。今日は薬局で会議があるの、行ってくるわね。それでは、またあとで」

エレンはぎこちない笑顔をつくり、ファルマに手をふって病室を出た。

このときファルマのもとを離れたことを、エレンは後悔することになった。

エレンは世界薬局の営業を終え、いつものように帝国医薬大附属病院に向かう。

更衣室で白衣に着替え廊下を歩いていると、なにやらいつもより慌ただしい。

「あら?」

すでに夜勤のスタッフと交代しているはずが、日勤のスタッフとすれ違った。

何気ないことであるが、エレンは胸騒ぎを覚える。

「ボヌフォワ師、大変です!」

顔見知りの看護師長がエレンの顔を見ると近づいてきて耳打ちをした。

「どうしたの」

「ファルマ様が……」

帝国医薬大附属病院は表向き業務を続けながらも、水面下では大騒ぎだった。

ファルマの病室に向かうと、パッレがその場にいて、数人の医療従事者が集まり、ファルマはいなかった。

「エレオノール、ファルマが消えた」

「えっ……」

体位交換と検温のために看護師が病室を訪れると、病室はもぬけの殻だったという。

ファルマの部屋は特殊な錠前がつけられていたが、錠前は破壊されていた。

エレンは立ちすくむ。

「誘拐だろうな。外から錠前が壊されている」

パッレは職員の立ち入りを制限し、手がかりを求めて病室をあらためていた。

「ファルマくんは大きな声が出せず、指が少し自由になるだけ。自力では動けず、寝返りもうてない。助けを呼ぶこともできないわ」

今のファルマの状態は、無抵抗に等しい。

毎日適切なリハビリやケアをしなければ簡単に感染症を起こして死亡してしまうし、介助しなければ普通の食事もとれない。

「ファルマが失踪して半日も経っていない。においが強い今ならば追えるかもしれないな」

「どうするの?」

パッレは窓から外の様子をうかがう。いまにも迫ってきそうな分厚い雲が首都の空を覆い尽くしている。

「犬がいただろう。雨がふるぞ、急がせろ」

犯罪捜査に科学的手法を行う方針に切り替え、帝国医薬大が協力している。

訓練中の捜査犬が二頭いる。

深夜にもかかわらず、すぐに捜査犬が呼ばれた。

エレンはハンドラーにファルマの所持品を預ける。

……それから数時間後、パッレとエレンは帝国医薬大のハンドラーから第一報を受け取った。

二頭の捜査犬が確信を持ったかのように向かったのは……。

旧帝都最大の監獄要塞、バスティーユ監獄だったという。

「バスティーユ監獄……」

エレンは恐怖と憎悪の象徴であるその施設を脳裏に思い浮かべる。

「旧体制では政治犯や異端者を収容していたが、大統領の恩赦により全員釈放になった。凶悪犯は保安のために別の監獄に移送された。病床があいているから監獄病院も近隣の医院からの急患をとったりしているけど、実質あそこは今、職員や衛兵、傷病兵以外はもぬけのからだ」

「大統領恩赦なんてそんな、いつのニュース?」

「昨日の朝刊だが」

政治情勢は旧貴族階級にある者たちにとっては重要な情報だ。

パッレは日課として欠かさず新聞を読んで、情報屋からも情報を取り寄せていた。

「監房に入れられるのかしら」

バスティーユ監獄は監房も広いし、外の光も取り入れられる。

着衣も食事も自由で、図書館や庭園、遊戯室もある。貴族の囚人であれば専属の料理人を雇うことすら可能だ、という話をエレンはサロンで聴いたことがある。

「正規の待遇をうけていればな……あそこは天井から吊るされる鉄の檻などもあって、待遇の差が著しい。それよりなにより、ひとたび監獄に収容されたら、収容者は番号で呼ばれ、名を名乗ることは禁止され、名を名乗れば即時射殺される。これにより囚人は完全に匿名になり、看守ですら囚人が何者なのか知らない」

「つまり誰も、ファルマが収容されていると気づかないというわけ?」

「ああ……おそらく誘拐犯は看守を兼ねているだろうし、廃監獄の中で丁重に扱われるとは思えないな」

監獄の入り口は現在、主門の跳ね橋一箇所のみ。

神術のある世界ならば水や氷の神術を用いて侵入は簡単だが、神術を失った今、跳ね橋を上げた状態のバスティーユ監獄には堀を泳いで近づくしかない。

そして衛兵の監視の目を盗んで近づいたとしても、そびえ立つ高い城壁。

侵入は不可能で、脱出するにはファルマを運ばなければならない。

大統領恩赦により囚人はなく、勅命逮捕状を発行できる者がいないため、今後囚人は追加されない。監獄の存続も決まってなければ、解体も決まっていない。

そんな中途半端な状況の中で、ファルマは表向き死亡した人間……世界中のファルマに恨みを持つ者が彼を狙っている。

大統領や国民議会に嘆願をうったえることもできない。

そんなことをすれば、ファルマが生存しているということが明るみに出てしまう。

もし、何者かが悪意を持ってファルマを幽閉し、彼を思うままにするとしたなら、

バスティーユ監獄ほど適した場所はないだろう。