軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

10話 単レンズ式顕微鏡と、発見された結核菌

ファルマ・ド・メディシスは、尊爵ブリュノの次男である。

彼は長男のパッレと違いド・メディシス家の跡とりとなることもなく、将来は屋敷に部屋住みの宮廷薬師になる。父ブリュノは、彼がやりがいを持って一人前の宮廷薬師の重責に耐えられるよう、幼少のころからこれでもかとしごきあげてきた。

危険な薬草を扱わせ、やけどをさせたこともあった。

朝から晩まで勉強に神術の訓練で疲れ果て、遊びたいと泣かれたこともあった。

いつしか、彼は父のことを怯えた目で見るようになっていた。

愛の鞭ではないが、実の息子にはついつい厳しくしてしまう。そこで父は直接彼をしごくことをやめ、信頼のおける若き一番弟子、エレオノール・ボヌフォアに神術と薬学の教育を任せた。エレオノールは彼をよく教育してくれたらしい。それで、ここ数年はファルマの様子にブリュノの目が届きにくくなっていた。

薬師は人の命に寄りそう。薬師に必要なのは技術ではなく、心だ。

そんな信念のもと患者に真摯に向かい合い、患者の心に触れてきたつもりのブリュノだが、息子には父親らしいことなど、何一つしてやっていなかった。子の心を汲み取る努力も怠っていた。息子が何を考えて、どんな思いでいるのかすらも。

ファルマの心情は、ブリュノにはよく分からない。

それでも、目の前の少年が以前のファルマでないことは分かる。

いつからそうだったのか、父は記憶にない。それを彼は、深く恥じた。

父はすぐ傍にあったファルマのカバンの上に置かれた彼のノートを取る。ぱらぱらとめくってみる。氷壁を隔てて父がノートをあらためるのを、ファルマは物理的な障壁に阻まれ制止しなかった。

ブリュノは青ざめてゆく。

…━━…━━…━━…

ファルマは誰にも読めないようノートを日本語で書きつけていた。検査染色の過程を記しておいたノートを抜き打ちで見られ、ファルマは失態を悔いる。が、依然として父が日本語を読めないことには変わりない。それは使用人たちを診たカルテや、投薬の記録、彼がこの世界で刻み始めた足跡のすべてだ。数々の検査データもグラフ化している。数式や化学構造式は、父の目からみれば呪術めいた暗号のように見えただろう。

「繰り返すぞ。お前は誰だ! 疾く答えよ」

この世界には、チェンジリング(取り替え子)の伝説がある。悪霊がこっそり子供を取り替えてしまうというものだ。取り替えられた子供は人間ではなく、化物の子とされる。見知らぬ文字を書き、杖もなしに神術を操るファルマをチェンジリングではないかと疑った。チェンジリングは人間に見破られると、どこへともなく消えてしまうという言い伝えがある。

息子を失うリスクを一考したが、それで消えるならもう息子ではない。

「この文字は、何だ。これも、これも、これも! どこでこれを学んだ!」

「薬の知識は落雷の日に見た夢の中で得ました。その文字もそうです」

ファルマが捻り出した釈明は、こうだ。前世を夢の中の出来事だと形容すれば、あながち間違いでもない。ファルマがそうとでも言わなければ、どこで学んだのか、どの書物に書いてあったのかと出典を求められるので不都合がある。

「落雷を境に、か」

「そうです」

仄暗い調合室の中で、コートを脱いだファルマの両腕の傷跡には、脈打つように青白い光が宿っていた。それが、氷壁を透かし父にははっきりと見えた。

「……薬神が宿ったのだな」

「それは……わかりません」

どうしてこうなったのか、自らが何者なのか、人間なのかすらもファルマにも分からない。ファルマはそう言ったきり黙したので、それは婉曲的な肯定の意味を含んで父に伝わった。

「そうか」

医薬の道を究めんと日夜邁進していた父ではなく、薬神はその息子を祝福した。父はそれを受け入れ、彼の敬愛してやまない守護神の意志に随うしかなかった。

「父上。このポーションを陛下に使って下さい。本物の特効薬です」

ブリュノがポーションを調合したということにすれば、治療が成功した場合父の体面も保たれる。宮廷薬師としての立場も守られ、女帝の寵愛も受けるだろう。なにもファルマが出しゃばらなくても、父がそうしてくれるほうがよいのだ。

「お前が創った薬は、お前が処方するのだ」

父は小さくかぶりを振り、厳かに告げる。

「それが、薬師の責任と誇りというものだ。患者はお前を信じて、命を賭して薬を受けるのだから」

彼は本物の薬師だな、ファルマはそう思った。

そして、未熟なのは自分のほうかもしれないと痛感した。

薬の安全性が何重にも確かめられている現代地球から来た彼は、そんな思いで患者に薬を出したことはなかったからだ。

「分かりました」

ファルマは氷の障壁を右手で消滅させ、ポーションを握ると、父の前を通り過ぎて調合室を出ていった。すれ違いざまに、こんな一言を残して。

「任せてください、父上。救うつもりです、あなたも、陛下も」

その言葉は、父が聞いた事もない重みを持って、声色も以前のファルマとは違って聞こえた。

少年の思い上がりの言葉ではなく、あたかも神の言葉のように聞こえたのだ。

ブリュノは黙して頭を垂れ、その場にくずおれる。

どうして彼を止めることができただろう。

ポーションを持ったファルマは、再び女帝の前に現れた。

女帝はファルマが戻ってくるのを、身を起こしたまま待ちかねていた。大きな期待をその胸に。死の境界線から生の世界へと戻ろうと、彼女は最後の気力を振り絞って待っていた。

「長かったな、陛下がお待ちかねだ。父上はどうした。逃げ出したか」

侍医長クロードがちくりと待たされた嫌味を刺す。

クロードは、ブリュノならともかく、少年の調合でまともな薬ができるとは考えていなかったようだ。児戯にすぎないと。ブリュノもさっさと戻ってきて女帝に麻酔をかけてしまえばいいものを、とでも言いたげに歯痒そうにしている。

「時間などかまうものか、近う寄れ」

女帝はファルマを近くに呼ぶ。ファルマはマスクをしているので、飛沫感染は免れているはずだ。臆することなく近寄る。

「いいえ。父は逃げてはおりません。陛下のために、父と共に調合しておりました。これが新薬でございます」

父の薬師としてのこれまでの仕事に敬意を表し、事実とは聊か異なるがそう伝えておいた。

ふらついた足取りで、ブリュノがその場に現れた。でしゃばり息子を諌めなかったのか、と非難の視線が侍医たちから飛ぶ。

しかしもう、ブリュノはファルマのすることを止めようとはしなかった。

止められるはずがなかった。

これから彼の手で行われようとしていることを、目に焼き付けるために。

ただそれをするために彼は戻ってきた。

「新薬の効能を奏上いたします前に、陛下にご覧に入れたいものがあります。少々ご協力いただけますか」

ファルマは、掌サイズの金属の道具を女帝の前に恭しく差し出す。

「何だ、これは」

女帝は首を捻りながら取り上げる。金属製の、小さな器械。ファルマはその場で再び女帝の痰を採取してガラス板に塗り、それを金属の板状の道具にセットした。

「陛下の体液を頂戴してこの器械で観察します。そこの穴から明るい場所でこれをご覧ください。このように」

器械に開いた針のような穴の中を、女帝にぴったりと眼を近づけて覗き込むように促す。ファルマは換気のために窓を開けさせ、侍従にランプを持ってこさせて、それを下から当てて光を確保した。

女帝は半信半疑でのぞき込んだ。

「何だそれは、陛下を愚弄するのか!」

侍医長クロードが怒りに声を震わせる。

「待て、うるさくするな。静かにしていよ」

侍医長は女帝の一言でかしこまる。

女帝は既に、小さなその器械のとりこになっていた。

そして。

「何か見えるぞ」

ファルマは診眼の能力で拡大視ができるが、それは客観性がない。

第三者の目に見えるか、もしくは結核菌の存在を証明できてこその科学である。

誰も見たことのなかったミクロの世界へ、ファルマは女帝をいざなう。

ファルマが差し出したもの。それはピンホールとガラス球、金属片でこしらえた、もっとも構造の単純な顕微鏡であった。よいレンズがなくても充分な性能を持つ、レーウェンフックの発明した単レンズ式顕微鏡。電気系統は一切必要ない、鏡筒などもない、金属板にレンズ、そして試料台がついただけの、全長5cmほどのごくごく小型で単純なものだ。

骨董と侮るなかれ、ファルマのいた前世では、電気のない発展途上国などでも病原菌を特定するために使われていた、約200倍の解像度を得られる現役の顕微鏡である。

倍率は決して十分とはいえなかったが、最低限の性能はある。

その単純な工作の見せる像は、明快な真実を暴き出す。

「陛下、棒状の蠢くものがお分かりでしょうか」

ファルマは指で空に、その形状を描いてみせる。

それこそが、Myc obacterium(マイコバクテリウム) tu berculosis(ツベルクローシス) 。

ヒト型結核菌。

日本では小児期のBCGワクチン予防接種によって予防策が講じられているものだ。

「白死病(結核)の病原となる生物でございます。この生物に、陛下は蝕まれています」

世界に細菌というものが存在するのだと、部屋にいた者たちが知った瞬間であった。

「皆々様もどうぞ、陛下のあとにご覧ください」

争うようにして、侍医たちは顕微鏡をのぞき込んだ。それまで、侍医たちはどんな小さいものも目を対象物に近づければ見えるものだと思っていた。肉眼では見えない世界が、そこにはある。認めざるをえない事実だった。

「な、なんだこれは! 虫か!?」

侍医長クロードは、蠢くおぞましいものを見て顔をひきつらせた。

「この装置につきましては、皆様ご必要でしたら、作り方も設計図面もお教えします」

彼は顕微鏡を独占するつもりはさらさらない。医学に活用して微生物についての理解を深めてもらえるのであれば。

「なお、これは神技ではありません」

ブリュノは震える手で、それを取りのぞき込んだ。

「なんと……」

そういったきり絶句する。神の見ていた世界を人間が覗き見ることを許されたかのように、未知の興奮に全身を打ちのめされたのだ。

全員が結核菌を観察をし、ファルマが用意していた染色済みスライドグラスの染色サンプル、結核菌を染め出したそれを見せたタイミングで、ファルマは切り出した。

場の空気は一変していた。

すでに、それを児戯と呼ぶものは皆無だった。

「今後の治療方針を説明いたします」

ファルマは続けざまに、シロップを取り出しよく女帝に見せる。

「お察しの通りです。陛下のお体に巣食ったこの生物を、完全に殺してゆく治療です」

女帝の目の前で、驚きのあまり、居並ぶ高名な侍医たちは泡をくったのだった。

ブリュノは視線を固定したまま、膝から崩れ落ちた。

「このポーションには4種類の特効薬が入っています。それぞれの薬にはこの生物が増殖するのを防ぐものと、この生物を殺すものがあります。一種類だけだと、それに耐えるものが現れるかもしれません。だから多剤を用います」

この薬にその生物を浸せば、死滅するのが見えますよ、もしかしたら断末魔の叫びも聞こえるかもしれません、とファルマは冗談を挟みながら説明する。

「4種類の特効薬で、2か月集中的に殺します。そしてその後は特効薬を2種類に減らして飲んでいただく補助的な治療を行います。陛下は重症ですので、更に追加の投与が必要かもしれません」

「そなたの説明は、これまでの薬の概念を根底から覆した」

女帝は驚きながらも、そう言った。

口にこそ出さないが、侍医たちも同じ衝撃を受けた。

既存の枠組を超えた知識が、彼らに与えられたのである。

「それほどまでに強い薬を飲んで、体に害はないのか」

「人体には影響の少ないものでございますが、副作用も懸念されます。主には肝機能障害です。それについては、私が治療経過をしっかり監視してゆきます。調合した 水薬(ポーション) を半分に分けて、私が先に、半分を飲み干します。陛下はそれをご覧になってから、ご決断をください」

暗殺や偽薬の疑惑を否定するために、ファルマは敢えてそうするのだ。

薬には副作用があり、健康な体にはよいものではないが。

「ご納得いただけるでしょうか」

「うむ、ぜひ、それを飲ませてくれ」

女帝は晴れやかな顔をファルマに向けた。畏れと不安が全て取り去られ、病身でありながら、精神は完全に解き放たれた。皇子の涙は止まっていた。

「じきに症状は改善するでしょう。ですが完治までには、最短でも6ヶ月をいただきたい」

何も治療しない状態で六か月ももつものか……と言いたいのだろうか、ブリュノや侍医たちは絶句する。

だがもはや、彼らに出る幕はなかった。

「時間がかかるというのは、分かった」

結核菌を観察し、それが全身に感染しているということをその眼で認識した女帝の理解も好奇心も深まった。

時間をかけて慎重に、じっくり殺してゆく必要があるということ、一気には殺せないこと、少しでも体内に細菌を残してはいけないということは、ファルマの説明で彼女にも理解できた。

「陛下には毎日、私の目の前で飲んでいただきます」

薬の飲み忘れがないよう、監督者の目の前で薬を飲ませるのが効果的だ。

結核の治療は、根気よく続けなければならない。

少しでも症状が改善したからといって、薬を飲むのをやめてはいけない。

ファルマはフラスコの中のポーションを、均等に3つの試験管にそそいだ。

そして、毒見として最初にファルマがあおる。

「では、陛下」

「うむ」

女帝も最後の一滴まで飲み干すと、やつれた顔で微笑んだ。

「うまかったぞ」

その後、女帝は穏やかな眠りにつき、ファルマは新たな患者のカルテをノートに日本語で書きつけ、調合室に置いていた荷物を片付け、帰りの荷造りを行う。

「屋敷に帰りましょうか、父上。おなかがすきました。今日は甘いものが食べたいです」

子供らしいことを言って、父を気遣った。

「それから、これは父上の薬です。もし、その気になっていただければ」

ファルマは残り一本の試験管の中に入っていた薬を、薬瓶に詰めて父に手渡す。

結核菌に侵された父は、長い逡巡ののちそれを受け取った。

「今日から、白死病は治ります」

もう不治の病ではありません。

生きて共に医薬の道を究めましょう。

頼もしい言葉を紡ぐ息子が差し出してきたその手を、父は両手で握りしめた。

「ありがとう、わが息子よ」

…━━…━━…━━…

ロッテとエレン、そして使用人たちは、ド・メディシス家の屋敷の門前で、日がとっぷり暮れたあと何時間も、総出で主人二人の帰りを待っていた。もうすっかり準備した夕食も冷めてしまっているが、誰も手をつけなかった。

皇帝の宮殿に行ったきり、主人とその息子が戻ってこない。

皇帝の病状は宮廷薬師以外には決して知らされはしないが、何か異変が起こっているということは、その場にいる全員が察していた。

エレンは一つの可能性を危惧していた。

治療に失敗して、責任をとって二人とも自害したのではないか。

皇帝崩御の折には、主治を務めていた筆頭宮廷薬師、筆頭侍医が共に自害し責任を取る場合もある。

ブリュノは責任感の強く、誇り高い宮廷薬師だ。ありうる話だった。

「お師匠様……ファルマ君」

エレンは眼鏡を外し、最悪のパターンを想定して涙ぐんでいた。ロッテはファルマからもらった薬の小瓶を、お守りのように握りしめている。

どれだけ待っただろうか。一刻一刻が、長く長く感じる。

誰もが彼らの帰りを待っていた。はっとロッテが顔を上げる。山あいに反響する微かなラッパの音が、耳に飛び込んできた。

続いて鮮明に聞こえ始める馬の蹄音。そのリズムがだんだん大きくなってくると、屋敷の騎士たちの馬が見えた。様々な感情を殺していたロッテの、涙腺が崩壊する。

「旦那様、ファルマ様ーー!」

ロッテは全速力で駆けてゆく。

「よかったわ……本当に。もう、心配したじゃないの……」

眼鏡をしっかりとかけて、エレンもロッテの後に続く。

「ただいま」

馬を降りるなり彼の懐に飛び込んできたロッテを、ファルマは受け止めた。

「おかえりなさいませ」

ロッテは一語一語嚙みしめるようにそう言った。

こうして、激動の一日が終わりを告げたのだ。