軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 異世界で魔王と暮らしてた

潮の匂いがした。

夢だと分かったのは、目の前の景色があまりにも懐かしかったからだ。

青い海。

並ぶ畑。

軒先で揺れる薬草の束。

そして、木の家の前から俺を呼ぶ声。

「レンリ、畑を見に行くのかい?」

村の女の人が、いつものように手を振っていた。

「うん。潮が強くなる前に見てくる」

「昨日の風向き、ちょうどよかったな。薬草がきれいに乾いた」

畑の方から、村の男の人が笑って声をかけてくる。

「それはよかった」

「お前が仕事を手伝う日は、悪いことが大ごとになる前に済むんだよな」

「たまたまだよ」

「そのたまたまに、みんな助けられてるんだよ」

この島では、俺の《幸運》は大きな奇跡にはならなかった。

雨が降る前に干し物を取り込めた。

崩れかけた石垣に、羊が近づく前に気づけた。

網を引けば、魚が少し多めに入っていた。

そのくらいの、小さな巡り合わせだった。

「役に立ってるならよかった」

「レンリ兄ちゃん、あとで海に行こう!」

坂の下から、村の子どもが走ってくる。

「仕事を色々してからなら行けるかな」

「兄ちゃんと行くと、大きい貝が見つかるから!」

「期待しすぎない方がいいよ」

「でも期待する!」

そのまっすぐさに、俺は少し笑った。

異世界に転生して女神から言われたのは「魔王を倒せ」だったけれど、ここで戦場へ行けと急かす人はいなかった。

勇者になれとも、世界を救えとも言われなかった。

畑を見て、荷物を運んで、食卓を囲んで、困っている人の手を少し貸す。

それだけで一日が過ぎていった。

「レンリ、あとで海岸の療養所にも寄っておくれ」

村の老婆が、鍋を火から下ろしながら言った。

「魔王さんのところ?」

「そうそう。今日は外のイスで日向に当たりたいって言っていたよ」

「車イスの車輪、きしんでなかった?」

「昨日は大丈夫だったよ。あんたが木で作ったにしては、よく走るねえ」

「坂道は危ないから、誰かが押す時だけにしてね」

「分かってるよ。あの人、自分で動かそうとするから困るんだ」

「あとで様子を見ておくよ」

「芋の煮たのも持っていっておくれ。昼前には薬湯の時間だから、その前がいいね」

「うん。届けてくる」

療養所は、白い壁の低い建物。

縁側には毛布。

棚には薬草。

日向には、木のイスを並べた老人たち。

元は漁師たちの休憩小屋だったらしいけれど、今は怪我をした人や年を取った人が、海風に当たりながら過ごす場所になっている。

そこに、かつて魔王と呼ばれた人もいた。

「来たか、レンリ」

低い声が、窓際から聞こえた。

魔王さんは、俺が作った木の車イスに座っていた。

白くなった髪は肩のあたりまで伸びていて、その間から長い耳の先がのぞいている。

頭の左右には、古い木の根のような角があった。

それでも今の姿は、恐ろしい王というより、薬湯の匂いがする部屋で静かに朝を待つ老人に見えた。

「うん。芋の煮たの、預かってきたよ」

「また芋か」

「嫌なら戻すけど」

「……嫌とは言っていない」

「気に入ってるんだね」

「否定はしない」

隣に座っていたジンさんが、声を出して笑った。

「レンリ、その人、今日は機嫌がいいぞ」

「ジンさん、それは秘密だったのだぞ」

「芋が来た日は機嫌がいい」

「気のせいだ」

魔王さんはそう言ったが、芋の入った器から目をそらさなかった。

「今日は日向に出たいって聞いたよ」

「ああ。風がよい。この木のイスを頼めるか」

「もちろん。車輪の具合も見たいし」

「昨日、少し左へ流れた」

「やっぱり。あとで軸を削り直すよ」

「あれを木で作るとはな。お前は剣よりも、こういうものを作っている時の方が楽しそうだ」

「役に立つ形になるのは好きだよ」

「ならば、我が使ってやろう」

「それは助かる。使ってもらわないと、不具合も分からないからね」

車イスを押して、外へ出る。

段差で少し持ち上げると、魔王さんは肘掛けを静かに握った。

任せてくれているのが分かる。

「自分で言うのもあれだけど、まだ改良できそうだね」

「急ぐ必要はない。動けば十分だ」

「魔王さんにそう言われると、不思議な感じがする」

「我も、車イスの日向ぼっこを評価する日が来るとは思わなかった」

「似合ってるよ」

「褒めているのか、それは」

「褒めてるつもり」

「ならば、受け取っておこう」

石垣のそばまで車イスを押すと、魔王さんは海を少し眺めてから、木剣の方へ視線を向けた。

「今日は木剣も使う?」

「ああ。手と目を鈍らせぬためにな」

「療養所の日課みたいになってきたね」

「日課にするには、少し物騒だな」

「木剣だよ」

「木剣でも、剣は剣だ」

「無理はしないでね」

「その言葉を我に向ける者が現れるとはな」

「今は療養中だからね」

「……それは否定できん」

俺は木剣を二本取った。

一本は俺が持ち、もう一本を魔王さんへ渡す。

車イスに座ったままでも、魔王さんの目は鋭かった。

身体は弱っていても、剣を見る力は鈍っていない。

「今日はどこを見る?」

「踏み込みだ。お前は悪い流れを外すのがうまい。だが、剣ではそれだけでは足りぬ」

「避ける癖があるってこと?」

「そうだな。お前の《幸運》もある。だが、半分は性分だ」

「性分か」

「人を傷つける前に、道を変えようとする。悪くはない」

「でも、剣だと迷いになる?」

「迷いにもなる。だが、止める剣には向いている」

「止める剣」

「斬るためではなく、終わらせるための剣だ。お前には、その方が合う」

魔王さんが木剣の先を少し上げる。

俺はそれに合わせて構えた。

「魔王さんが言うと、少し重いね」

「元魔王だからな」

「元って自分で言うんだ」

「今の我は、療養所の日向ぼっこじじいだ」

「自分で言うかね」

「不本意だ」

「でも、似合ってるよ」

「二度目だぞ、それは」

「大事なことだから」

「まったく。では、構えてみるがいい」

木剣を構える。

潮風が、腕の横を抜けていった。

「こう?」

「肘はよい。足が遠い」

「踏み込むと、当たりそうで」

「当てるためではない。止めるために近づくのだ」

「止めるために、近づく」

「そうだ。守りたいなら、遠くから願うだけでは足りぬ時がある」

その言葉は、夢の中なのに妙にはっきり残った。

「……覚えておく」

「それでよい」

少しして、魔王さんが木剣を膝へ戻した。

息は乱れていないが、無理はさせない方がいい。

「レンリ」

「うん?」

「お前は、なぜ戦場へ行かなかった」

俺はすぐには答えられなかった。

行かなかった、というより、行く前にいつも別の道へ流れていた。

「行く前に、だいたい何かが……ずれたんだ」

「ずれた?」

「道が崩れて遠回りになったり、乗るはずだった船が故障したり、討伐隊に入る前に別の手伝いを頼まれたり」

「それで、この島へ流れたのか」

「たぶんね。俺の《幸運》は、勝つ力というより、大きな悪いものから少しだけ外れる力なんだと思う」

「それで、我まで拾ったか」

「拾ったというか、流れ着いてたから」

「流れ着いた魔王か。ずいぶん情けない響きだ」

「でも、ここに来てからはよく眠れてるだろう?」

「……よく眠れている」

「なら、悪い方向じゃなかったんだよ」

魔王さんは、少し黙った。

海の方から、子どもの声が聞こえる。

「レンリ兄ちゃん! 海、まだー?」

「もう少しだけ」

「子どもを待たせすぎるな」

「稽古はここまで?」

「ああ。今日は十分だ」

「薬湯、冷める前に飲んでね」

「分かっている。あれは効くからな」

「本当に気に入ってるね」

「否定はしない」

俺は木剣を片づけて、車イスの車輪をもう一度見る。

左へ流れる癖は、少し軸を削れば直りそうだった。

「じゃあ、行ってくるよ。またあとで」

「ああ。またあとでだ、レンリ」

その声を背に、俺は子どもたちの方へ向かった。

砂浜では、小さな手が俺を待っていた。

「兄ちゃん、今日も大きい貝、見つかるかな?」

「見つかるといいね」

「兄ちゃんが言うと、本当に見つかりそう!」

「期待しすぎない方がいいよ」

「期待する!」

療養所に戻った頃には夕方だった。眠ってしまった魔王を届けて帰る。

戻ると村の男の人が笑っていた。

「レンリが海辺に行く日に限って、網が重いんだよな」

「俺は網を引いてないよ」

「知ってるよ。だから不思議なんだ」

「悪い不思議じゃないなら、それでいいじゃないの」

村の女の人がそう言って、食卓に魚を並べる。

「悪くないなら、それでいいかな」

俺はそう答えた。

島の夜は静かだった。

潮風と、食卓の湯気と、遠くの波の音。

その全部が、ゆっくり遠ざかっていく。

「レンリ」

声がした。

目を開けると、そこにニーナがいた。

「……ニーナ?」

「起きた?」

「……夢を見てたみたいだ」

「夢?」

「うん。昔、暮らしていた島」

「静かな場所。いいね」

「そうだね。静かで、いい場所だった」

枕元では、火種ちゃんが小さく揺れている。

「戻りたい?」

「戻りたい、とは少し違うかな。あそこにいたことを、忘れたくない感じ」

「忘れない」

「うん。忘れないと思う」

「ひー」

「火種ちゃんもいるね」

夢の中の潮風は、もう消えていた。

代わりに、枕元で小さな火がふわりと揺れていた。

「今の場所も、不思議」

「そうだね。あの島とは全然違うけど、今は今で不思議だ」

「嫌?」

「嫌じゃないよ」

「なら、いい」

「うん。なら、いい」