作品タイトル不明
第二十三歩 馬鹿な女
「それでは俺はこれで」
「はい。 ……今日はありがとうございました」
大量に並べられた皿は綺麗に無くなっていた。
所作は綺麗であるにも関わらず、極めて速く食べていく姿は大食いよりも勢いがある。
もしも食べきれなかったらなんて翔は考えていたが、最終的に全てを食い尽くした段階で本当に食べ切れる量を注文したのかと彼は変な感心を抱いた。
会計は驚異の四万。咲はカードで全て支払い、翔は現金で支払った。
その後に二人は店前で向き合い、翔の言葉で流れるように強制的な解散になる。
咲の喉が一瞬止まった。本音が出そうになる自分を間を空けて抑え、ただ別れの挨拶だけで終える。
背を向けて歩いていく彼は、一度も彼女に振り返らなかった。
それが本当に彼の中では未練が無いようで、言葉にならない悲哀が胸を満たす。
翔が植物人間になったことを知ったのは、彼の両親達がギルドの裏門で話をしていたのを聞いた時だった。
対応には山田総隊長と榊原隊長が出て、二人は揃って腰を曲げて頭を下げていた。
翔の両親は彼等の謝罪に厳しい目を向けるだけで、その場の雰囲気は平穏とは無縁の嵐の中に居るような現場になっていたのを彼女は覚えている。
翔の母親は厳しい眼でありながら眦から涙を流し、父親は拳を握り締めて全身を震わせて――――咲が嫌な予感を覚えるのも不思議ではなかった。
今でも彼等の会話を思い出せる。言葉の一語一語に激しい感情を孕ませながら、それでも暴走だけはしまいとしたあの発言を。
『どうして……どうしてこうなったのですかッ。 なんで貴方達は無事で、あの子だけがあんな状態になったんです!』
『理由を仰ってください! 翔が植物状態になった理由を、ちゃんと全て教えてください!!』
信じられない気持ちだった。
足から力が抜け、外であるにも関わらず座り込む。
運良く周りに人が居ないお陰で彼女のその姿を見られることはなかったが、例え見られてもあの時の彼女は何もしなかっただろう。
頭が真っ白になって、脳はその空白を埋めるように翔との思い出を映し出す。
自分が惚れた切っ掛け。告白した瞬間。付き合いたての恥ずかしかった頃に、ちょっとずつ慣れてきて隠すことなく笑い合えた日々。
失われて久しい宝石の時間。戻れるならそこにと常に思うあの頃が、彼女にかかる過度なストレスをなんとか中和しようとしている。
呼吸が乱れていた。目はずっと翔の両親を捉えて離さず、彼等がギルドの裏口から中に入っていくのをずっと凝視していた。
咲は直ぐには信じず、早急に情報を集めることに奔走する。
何日も何日もギルド内を歩き回って姿を探し、隊長達の話に聞き耳を立て、同じように彼が居ないことを不思議に思っていた同期と情報交換を幾度も行った。
結果解ったのは、翔が入院していること。場所が何処かまでは解らなかったが、それでも本当に意識不明の重体として今も病院にいると解ってしまった。
そして、その瞬間から咲にとって世界はまた白黒に染まったのである。
白と黒の世界は、彼女にとって絶望そのものだ。何も感じず、何も心踊らず、日々を無価値と断じるようになってしまう。
彼が居るから世界は鮮やかに染まり、彼が居るから彼女はまだ生きている。
過去ばかりを追いかけて死ぬような末路を辿らなかったのは、正しく翔が半死半生だからだ。
まだどちらになるか確定されていない状況なら、絶望しつつも生きていくことは出来る。
仕事をして、適当に愛想良くして、我妻のことは殆ど視界にも入れなかった。食べる物もどんどん粗末になっていき、一度は栄養不足で倒れてしまったこともある。
その際には病院で真剣に諭され、以降は適当になり過ぎる為に自分で料理を作ることを止めてしまった。
そして数多くの飲食店を巡って、大して美味しくも感じない料理を食べては仕事を熟す。
彼女が氷室に会ったのもそれが暫く続いた頃だった。
固定パーティーの一人が病欠した時に臨時として入った氷室は、その時には大した問題は起こさなかった。
実力は高く、病欠中の戦士よりも前衛として戦う姿は久し振りに鮮烈だと思える程。
基本的に独断専行が多いものの、命令すればある程度は汲んでくれていた。
そう、この時点では氷室は咲の目からすれば正常そのもの。まったく問題が無いとは言えないが、個性的だとも言い切れる程度のズレしか起こしていなかった。
それはきっと擬態だったのだろう。面白い人間が居なかったから我慢出来る部分は我慢して、戦いでその鬱憤を晴らそうとしていた。
咲が思い出せる限り、氷室が翔に興味を持った切っ掛けはあの時。
仕事が終わり、解散していく中で二人で適当な居酒屋で夕飯を食べていた時だろう。
相変わらず大した味を感じない中、氷室は猫のように目を細めてプライベートな質問をしてきていた。
内容は咲にとってどうでも良くて、そして振った張本人である氷室もどうでも良さそうだった。
他に話題が無いから適当な話を持ってきた。そんな印象に咲は呆れてしまい、そこから半ば流れで女子トークめいたものが始まったのである。
氷室も咲も、学生時代からよくモテた。告白なんて日常茶飯事で、断りの文言を考えるのが億劫で、咲はなんとか捻り出して終わらせていたものの、氷室はあらゆる告白を無視していた。
理由は単純明快。彼等が皆、己よりも弱そうに見えたから。
別に氷室は鍛えてきた訳ではない。スポーツをしてきたのでも、武術に精を出してきてもいない。
肉体性能は一般の女性とそう変わらないだろう。あの時点で咲と氷室が殴り合いをすれば良い勝負になっていた可能性は十分に高い。
つまり、別に氷室は強いのではないのだ。
なのにどうして周りが弱く見えたのか。――――それはひとえに、父親と母親の躾が苛烈だったからだ。
『昔っから私の両親は鉄拳制裁が教育の基礎だったんだよ』
間違えたら殴って。悪いことをしたら蹴って。目標に届かなかったら張り手をする。
父親は大工で、母親は元ヤンで、二人は両親からの反対を無視して結婚した。子供はその一年後にあっさり生まれ、その時から厳しい躾があったのである。
咲は彼女の境遇に驚いたと同時に、随分久し振りに同情を覚えた。
世間一般からすると、彼女の環境はあまりに酷い。虐待が常態化している場所で子供が健全に成長することは難しく、場合によっては放置や暴力で死ぬ危険性もあった。
『それは……こういっては失礼ですけど、酷い御家庭だったんですね』
だが、氷室にとってはそんな日々は当たり前だ。
言われた当人は目を丸くして、そして困ったように頬を掻く。
『そう? 寧ろ私は、あの二人の教育が間違っていたとは思ってないよ。 実際、学校に入学してからはそれはもう面倒臭い輩が大量に現れたんだ』
殴られた、蹴られた。
その暴力に合わせ、お前が馬鹿で弱いからこんな目に合うんだと散々に罵倒もされた。
長く継続されたこの虐待は、氷室の中に強者の二字を強く刻みつけられた。
強ければ何をしてもいい。頭が良ければ周りから馬鹿にされることもない。その反対に、強者となった自分は他の人間を踏み潰しても許される。
彼女は女故に肉体強度には限界があった。その分は武器で解決することにして、後は馬鹿にされないようひたすらに勉学に励む。
高校を卒業する頃には彼女は一つの教室の支配者になり、それは教師もまた同じだった。
誰も彼女に逆らわない。学校内の一クラス限定とはいえ、三年間女王で居続けた事実は氷室の確かな自信に繋がったのである。
故に、彼女は両親の教育を間違っているとは思っていない。社会的に最低な人間であると知っても、それでも彼女は彼等を親と認めていた。
尤も、冒険者となった現在では立場も逆転している。今や彼女が生家における支配者だ。親であるとは認識しても、別に敬意など微塵も持ってはいない。
愛も優しさも知らない彼女は、だからこそ恋愛らしい恋愛をまったく理解出来なかった。
仮に恋人が出来たとしても、その末路はやはり暴力による支配だろう。
そこまでを話し終えて、じゃあ君はどうだったのと氷室が水を向ける。
彼女は己の過去を思い返して、記憶をなぞるように語り始めた。その話は長かったが、氷室は咲の優しい笑顔に見惚れてまったく飽きが訪れなかった。
咲の話は、氷室には御伽噺も同然だ。
暴力なんて殆ど出て来ず、甘菓子のような話が延々と続く。
間違いなく未知であり、同時に強烈に興味を掻き立たせた。けれど最悪だったのは、その対象が咲本人ではなく相手の翔に向けられたことだ。
無事に彼が復帰して、咲の世界はまた色を取り戻した。短い期間に活躍してしまった所為で翔との間が広がってしまったが、それも必ず縮めてみせると彼女は決意していたのである。
なのに、翔から氷室の凶行を伝えられてしまった。彼は直接責めてはこなかったけれども、話題に出した時点で言外に咲に注意していたのは明らかだ。
また距離が開いた。しかも今度も、根本の原因に咲本人が関与している。
「――――はは。……何よ、もう」
居なくなった彼が通った道路を見据え、咲は嗤った。
己に何十何百の呪詛を浴びせ、同時に氷室との一瞬の穏やかな記憶に刃を突き立てる。
馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ。どうしてあんな話を彼女にしたのだろう。あんなまともではない女、話せば変な方向に動き出すだなんて解っていたじゃないか。
塵に一瞬でも情を覚えるなんて、自分はなんて気持ちの悪い女なのか。
「いや、同じだからか」
歩き出す。靴音を立て、彼女はギルドに向かって歩を進めた。
その表情は笑っていた。穏やかに、静かに、夜の海を思わせるような深く静かな笑みを。
底にある狂気を見せぬよう、彼女は進む。頭の中では幾度も氷室が撲殺される姿がループしていた。