軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第232話

一体、どれくらい経ったのだろうか。

まだ数秒な気もするし、一分経ったような気もする。いやもしかしたらもう一時間は経っているのかもしれない。もう時間の感覚がない。

でも、気を抜いたらダメだ。

すぐに殺される。

もっともっと――音の色を聞き分けろ。

もっとだ。もっと神経を研ぎ澄ませろ。

彼らの音を聞き逃すな。

「おらァおらァおらァおらァッッッ! ヒヒッいいなぁお前ぇ!! あとどれくらいかわせる? 一回か、二回か、十回か……もう限界なんて言わねぇよなぁ?」

「聞け、聞け、聞け……もっと聞き分けろ私ぃぃぃぃぃ!!」

「あばずれぇ、あばずれぇ、アバズレェェェ!! 死ぬまであと何秒だぁ!?」

絶え間なく振るわれる男のこぶしを、何とか加恋は回避し続けていた。全身にいくつもの傷をつくりながら、なんとか致命傷は避けている。

ただ、それは神業に近い回避をたまたま成功させ続けているにすぎない。単なるまぐれ。

極限まで加恋は自分の固有能力【聴覚強化】を発揮し、己の動体視力ではまるで追うことの敵わない相手の動きを音という五感一つで回避し続けていたのだ。

だからこそ男も驚いていた。

天職にも目覚めていない一般人の女が、これほど天才的な動きをし続けていることに。

「すげぇなおい、すげぇなぁ……おい!!」

ただの弱っちい女だと思っていた。

だけど、なんでかなぁ。予想以上に攻撃をかわしてくる。おかしいなぁ、おかしいなぁ。なんでこんなにもかわせるんだ。

もっと――テンションあげていいかな。

いいよね。まだ死なないよね。

「もっと上げていこうぜぇぇぇぇ……あ?」

少しだけ男の攻撃速度が増した。

だが、その少しの違いがすでに加恋には致命的なものだった。奇跡は、長くは続かなかった。

「っっっ!?」

気がついたときには、加恋のみぞおちに男の拳がめり込んでいた。

ゆっくりと回転しながら男の拳の衝動は体の内部へと伝播していき、内臓の機能を的確に壊していく。

目が飛び出そうなほどの苦痛が全身を駆け巡る。

食道から熱い何かがこみあげてくると、加恋の口からは胃液に混じった赤い血が飛び散っていた。ゴホッと多量の血をこぼしながら後方へと転がっていく。

全身を何度も地面に打ち付け、コンクリートの上を転がり、加恋は最後に植栽の上へとぶつかっていた。それがクッションとなってくれたのか、運よく死ぬことはなかった。

「……まだ…………まだ…………いけるよな?」

「まだ……死ねない」

寂しそうに語りかけてくる男の期待にこたえるように、加恋は勇ましく立ち上がった。

体中に走る激痛を無視して、口内に貯まった血を野性味あふれる表情のままぶっと吐き出す。そうして槍の柄を使って、なんとかその場に再び立ち上がる。

なぜか加恋は笑っていた。

鋭い八重歯を見せながら、獰猛に笑って見せた。

ぶっと口内にあふれ出す血を唾液とともに吐き出しながら、加恋は槍の切っ先を男へと向ける。

「私はプロになるんだ……最高のプロにだ!!」

「ヒヒヒヒヒッ。まだプロじゃないのか、おまえぇ! それはいいなぁ!」

「来いよ悪役、私は絶対に死なないから」

全身から溢れ出すアドレナリンが加恋の心を過激にさせているのだろうか。挑発するように獰猛な笑みを見せつけると――加恋は目をつむった。

その行動を見て、時を忘れたように男は「は?」と素っ頓狂な声を上げる。

「おいおいおいぃ、何の冗談だぁぁぁぁ」

「…………」

その問いに加恋は答えることはなかった。

ただ一心に周囲の音だけに感覚を研ぎ澄ませていた。

他の五感は何もいらないと言いたげに、音という情報一つだけに身をゆだねる。

(どうせ目では追えないんだ。音だけあれば私は良い)

会場に鳴り響く緊急のサイレン。

ぴゅーっと強く吹き荒れる山特有の風きり音。

グゥーグゥーと遠くで泣いているカエルの鳴き声。

近くを飛んでいるハエの羽音。

鹿がけもの道の草木を踏みしめる足音。

ハァハァと苦しそうに荒げる自分の呼吸音。

高鳴りが止まらない心臓の鼓動音。

男が踏みしめるコンクリートの破片の音。

男の呼吸音。

そして――音の色が加恋の世界を彩った。

世界が鮮やかに見えた。まぶたは閉ざしたままなのに、世界がより明るくなった。

「死ねぇぇぇぇ、阿婆――うがっ!?」

男の身体能力任せな攻撃を紙一重でかわした加恋は、敵の突進威力を利用して肘打ちの攻撃を肋骨めがけてお見舞する。

「…………」

最初の攻防以降、加恋の反撃は初めて成功した。

それなのにも関わらず喜ぶそぶりすらみせずに、加恋は淡々と目をつむったまま男の動向を色で観察する。

反撃に後ろへとたたらを踏んでいた男は、苦しそうに胸を抑えていた。

「ぐっ……なんだぁ? 今のはなんだぁ!?」

「音がざわついてるよ、おじさん」

「音だぁ!? ……覚醒かぁ! たまに聞くなぁ、それが覚醒するってのは聞いたことあるなぁ! いいなぁ、すげぇなぁ――殺してぇなぁ」

「物騒だね。でも、もうすぐプロが来る。おじさんはもう終わりだよ」

そう言うと男はくしゃくしゃと自分の髪を乱し始めた。何度も何度も歯ぎしりをし始めると、はたと男の奇妙なその仕草が止まった。

こてんと首を傾げる。

今までよりもずっと殺意の籠った視線を加恋へ向ける。

「なぁ、本気出すぞ? いいよな? 死なないよな? 死ねよな?」

次の瞬間、男の音が消えた。

(音が!?)

周りの音はよく聞こえているのに男の音だけが一つも聞こえなくなったのだ。足音、服の擦れる音、呼吸音、心音、筋肉が悲鳴を上げる音――すべてが無音になった。

加恋はまぶたを開けた。

目の前には黒い物体がいた。

「音は聞こえたか?」

「うっ!?」

「よく聞こえるよな?」

「うるさい」

「よーく聞こえるはずだ。自分の心音が小さくなっていく音が――」

黒い何かに体の一部を包んだ異形の男。

その男の手が、加恋の腹を突き抜けていた。

死が近づいていく瞬間を楽しむようにその男はにたにたと笑うと、勢いよく手を加恋の体の中から引き抜いた。

そして――鋭い手刀を斜め上に振りかぶった。

「やっぱり最後は……首切った方が気持ちいいよな? そうだよな?」

風を切る音すら響かない無音の手刀が振り下ろされた。

最後は何も見たくないと言いたげに、加恋は目をつむる。

死を覚悟した。

未練もあるし悔しいけれど、私はここで終わりなのだと悟った。怖いと思ったその時、嬉々と叫ぶ男の声が聞こえた。

「血ぃぃぃ浴びさせろぉぉぉ! 派手なのをよぉ!!」

「――ふざけるな、僕の友達に何してるんだよ」

「あえ?」

男は真っ青な天を仰いでいた。

頬に走る今まで感じたことのない痛み。

自分が得体のしれない何かに、殴られたのだと気がついた。ぞわりと恐怖の音が全身に駆け巡った。