作品タイトル不明
第145話
飛鳥が学園に転入し、久志羅と出会ってから十二日が経過していた。
テンジは来る日も来る日もダンジョンに潜り続け、モンスターと戦い、大幅に上昇した身体能力の恩恵に慣れる訓練を息する暇もなく行い、着実に一級探索師への階段を駆け上っていた。
そうして――ちょうど今日、テンジはレベルを7への階段を上った。
レベルが上がった時点で、テンジは一度ダンジョンを離れ第三階層の家に帰ることに決めた。
ちょうど一緒に探索していた千郷と冬喜は、このままもう少しダンジョンで訓練を行っていくと言っていたので、テンジは一人で家路へと着くことになった。
見慣れた帰り道をトボトボと歩いていると、ふと遠くから声を掛けられた。
「おい、坊主! ちょっといいか?」
太くて、優しくて、ふとレモネードを思い出す声だった。
その声にはテンジも聞き覚えがあり、ゆっくりと声の聞こえた方向へと振り返った。視線を僅かに動かしながら、声の本人を探す――が、なかなか見つからない。
「あれ……いない」
「こっちだ、こっち!」
声はなぜか上の方から聞こえてきた。
慌てて視線を上の方へと切り替えると、ストリート沿いに建てられた四階建てのアパート、その四階の窓の柵越しに大きな男がこちらを見下ろしていた。
まるで隠す気のないマッチョスタイルに、白い無地Tシャツを着こなす強面のおじさんだった。あの超絶上手いレモネードを作る、移動販売車のおじさんだったのだ。
久しぶりに見た元気そうな姿を見て、テンジは首を傾げていた。
最後に遭ったのは年末のときで、その後は故郷のマルセイユに帰ると言っていたはずなのだ。1月の下旬に差し掛かったこの時期にも関わらず、おじさんはそこにいた。
「こんにちは、おじさん! まだマジョルカにいたの?」
「おう、一回故郷には帰ったぞ! だが、急な引っ越しになったもんで、荷造りがまだ終わってなかったんだよ。で、また俺だけ帰ってきたって訳さ。ちょっと力を貸してくれないか? 重くて、俺一人じゃあ無理なんだよ。レモネード作ってやるからよ!」
「なるほど! わかったよ! 今そっちに行くね!」
レモネードおじさんは妻の体調や精神面を考え、荷造りなどを後回しにして一足先に故郷へと送ってきていたのだ。
そして、産院やらなにやらを済ませてから、おじさんだけが再びここに帰ってきていた。
これから一人で荷造りを始めようとしたのだが、ちょうど人手が欲しいなと思ったところで、窓の外を見ると、とぼとぼと歩くテンジの姿を見つけたのだ。
テンジは久しぶりにレモネードが飲めるとウキウキな気分になりながら、アパートの階段を軽快なステップで登っていた。
そして、窓のあった部屋のインターホンを押すと、そこからは見慣れたおじさんが出てきた。
おじさんは頭をぽりぽりと掻きながら、言った。
「すまんな。一人でできると思って業者に頼まなかったんだが、さすがにデカい家具は無理だった」
「あ~、あるある! 持てると思っても、意外と重すぎて無理だってことあるよね」
「早速で悪いが、あそこの家具を一階まで下ろすの手伝ってくれないか?」
「わかったよ。ちゃんとあとでレモネード作ってね!」
「あぁ、とびっきり美味いのを作ってやる」
テンジはそのまま部屋の中へと入っていくと、おじさんに指示された大型のタンスの前に立った。そして、軽くその家具に手を掛けてみる。
それを見て、おじさんもテンジとは反対側の場所を持とうとした。
「あっ、僕一人でも大丈夫だよ」
「本当か?」
「うん、これでも僕は探索師だからね」
「あ~、そっか……そうだな。じゃあ、頼むよ」
そうは言いつつも、おじさんは少し疑問を持っているような顔をしていた。
世間や報道で探索師は常人よりも身体能力が高いことは言われているが、実際にその超人的な能力を見るような機会ってのは意外と少ない。
そもそもの探索師人口が少ないという理由もあって、たかが一般人にはその「超人的な身体能力」は想像しづらいものであったのだ。
ここマジョルカでさえ、ほとんどの探索師たちは六階層以下でしか探索を行わないので、おじさんのような一般人はあまり彼らの戦闘を直接その目で見たことがない。
頼むから壊さないでくれよ、という意思をひしひしと感じながら、テンジは「よいしょ」とそのタンスを持ち上げて見せた。
まるでコップでも持つかのように軽々と持ち上げるその姿を見て、おじさんはぽかんと口を開けていた。
「……まじか。探索師ってこんなにすげーんだな」
思わず、おじさんの口からそんな声が零れていた。