軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【14ー11】盤外のポーン

アイザックが高等科に進学して二年が経った。

この二年間、隙あらば寮を抜け出して、夜の街を遊び歩いていたアイザックだったが、とりわけ夢中になれるものには、いまだ出会えずにいる。

音楽も、芝居も、物語も、一通り触れてはみたものの、その作品の出来栄えは良いか、市民の間ではこういった思想が好まれているのか……といった部分ばかり気にしてしまい、純粋に作品を楽しめない。

いずれクロックフォード公爵を切り捨てた時のコネ作りのためにと、娼館などに顔を出してもみたが、華やかな宴席も、美しい娼婦と過ごす時間も、どこか上辺だけをなぞっているような気分を拭えなかった。

もう長いこと「フェリクス」であることばかり意識しすぎて、最近はすっかり「アイザック」としての感性が鈍くなっている。

きっと本物のフェリクスが死んだ日から、アイザックの心は麻痺しているのだ。だから、上辺だけしかなぞれない、心が震えない、夢中になれない。

何に触れても「フェリクスならどう反応するか」ばかり考えてしまう。

* * *

ある日、故郷の街が復興記念の慰霊碑を完成させ、その除幕式を行うと耳にしたアイザックは、長期休暇を利用して、お忍びで東部地方に足を運んだ。

思えば竜騎士団に保護された日から十年以上経つが、アイザックは一度も故郷に足を運んだことがない。ならばせめて自由に動ける今のうちに、死んだ家族に花を手向けたかった。

その時、東部地域では黒竜の目撃情報が囁かれていた。しかし、このチャンスを逃せば故郷を訪れる日はこない。

そう思ってアイザックは予定を強行したのだが、彼の見通しは甘かった。

彼が東部地方に到着した頃には、既に村や町を捨てて避難する者で道が溢れかえっていたのだ。

お忍びで来た以上、避難する人間達に気づかれるわけにはいかない。その結果、随分と迂回をせざるをえなくなり……そして運悪く、翼竜の群れと遭遇してしまった。

リディル王国東部ケルベック領に出没したウォーガンの黒竜は、翼竜の群れを率いているという。その一部がこちらに流れてきたのだ。

ギャアギャアとつんざくような鳴き声は、かつてアイザックの故郷を襲った地竜の、獰猛な唸り声とは違う。

だが、圧倒的な力を持つ巨大な生物を前にした時、人間が感じる根源的な恐怖というものは、なんら変わりないのだ。

まして、一匹だけでも災害になる大型翼竜が二十以上。これが大災害でなくて、なんだと言うのか。

翼竜は竜の中でも下位種であるが、数と大きさによっては、被害が甚大になることも珍しくはない。

低空を滑空する一匹が民家のそばを通り抜けるだけで、風圧に建物が軋む。そうして、無造作に振り下ろされた鋭い爪が家畜の胴を容易く抉る。

もはや、翼竜の群れは意思を持つ嵐も同然だった。

王都自慢の竜騎士団でも、この群れを討伐しようと思ったら、相当な犠牲を覚悟しなくてはならないだろう。

竜は、かつてアイザックから家族を奪った存在だ。あの時のアイザックは無力で何もできなかった、弟一人守れなかった。

そして今も……この圧倒的な存在を前に、アイザックは無力だ。

かつて家族を失った時の恐怖が、絶望が、アイザックの全身を支配したその時──キィンと澄んだ音がした。

最初は耳鳴りかと思ったが、違う。

旋回する翼竜の群れの頭上に、何かが見えた。鋭利に煌くそれは氷の槍だ。

水晶のように美しい氷の槍が、翼竜の眉間を一つ残らず貫く。まるで、氷の槍一本一本が意思を持っているかのように、正確に。

(……あれは、魔術?)

だが、魔術を少しでもかじったことのある者なら、今のがどれほど人間離れした技か分かるだろう。

魔力の密度が極めて高い氷の槍で、二十以上の翼竜全てを撃ち抜くなど、針に糸を通すよりも精緻な魔力操作技術が必要になる。奇跡にも等しい技だ。

眉間を貫かれて絶命した翼竜の亡骸は、そのままボトボトと地面に落下するのではなく、風の魔術に流されて、静かに地に積み重なっていった。

かつてアイザックに無力さを植え付けた竜が、こんなにも容易く!!

目の前の光景に、アイザックはただただ魅入られた。

──なんて、美しい魔術だろう。静かで、無慈悲で、まるで神の裁きのよう!!

ぞくりとアイザックの背すじが粟立つ。強い歓喜と興奮で。

もう長いこと興奮を忘れていた心臓が、ドクドクと音を立てて鳴る。カッと熱くなった血が全身を巡り、白い頬を火照らせた。

あぁ、とアイザックは堪えきれずに感嘆の吐息を溢す。

「……こんなの、まるで奇跡じゃないか」

後にこの奇跡を起こした魔女のことを知ったアイザックは、目の色を変えて彼女──〈沈黙の魔女〉のことを調べた。

それこそ他の何も目に入らなくなるぐらい、夢中になって。

* * *

大粒の雨が地面を叩く音がする。それと、濡れた土を抉るように車輪が回る音も。

うたた寝から目覚めたばかりの頭は、まだ完全には覚醒しきっておらず、夢の余韻に頭の奥が痺れるような心地がした。

(……あぁ、レディ・エヴァレットに会いたい)

精緻で美しい魔術式を操り、人々の恐怖の象徴である竜の群れを一瞬で地に堕とした、偉大なる七賢人〈沈黙の魔女〉

ウォーガンの黒竜を従え、レーンブルグの呪竜を撃退した彼女は本物の英雄だ。偽物の王子様である自分とは違う。

彼女の姿を見るだけで、心臓が早く鼓動する。まるで初恋の熱に浮かされた少年のように、らしくもなく浮かれてしまう。

もっと彼女に近づきたい、彼女を知りたい。

言葉よりも雄弁に紡がれる無詠唱魔術をこの目に焼きつけたい!

「殿下、そろそろ到着いたします」

御者の言葉に、彼は──フェリクスは「あぁ」と短く言葉を返し、窓の外に目を向ける。雨粒に濡れた窓の向こう側は随分と暗くなっていた。

懐中時計で時間を確かめれば、最終下校時刻が近い。それでも生徒会室に戻って書類を回収するぐらいの時間はあるだろう。書類の中身は寮に戻ってから確認すればいい。

馬車を降りてから校舎に移動するまでの間は外套を羽織っていたが、それでも外套越しに制服の肩がじっとりと湿ってしまった。髪からも、ポタリポタリと雫が垂れている。

まぁ、書類だけ回収して寮に戻るから別に構わないだろうと、フェリクスは薄暗い廊下を早足で歩く。校舎内に人の姿は無かった。もう殆どの生徒が寮に戻っているのだろう。

生徒会室のドアノブを握った彼は、鍵が開いていることに少しだけ驚いた。まだ誰か残っているらしい。シリルだろうか。

扉を開ければ、薄暗い室内の中、ソファの上に小柄な少女がちんまりと座っていた。モニカだ。

モニカは灯りもつけずに、ローテーブルのチェス盤を睨んでいる。モニカの側は白。相手の黒は誰を想定しているのだろうか。

「目を悪くするよ」

フェリクスがランプに灯りをつけて声をかければ、モニカはゆっくりと顔を上げてフェリクスを見た。

こういう時いつものモニカなら、その丸い目を見開いて愉快な奇声を上げるところだ。だが、今のモニカはどこかボンヤリとした目をしている。

かと言って、数式やチェスに没頭しているわけでもないようだった。わずかに緑がかった目は、真っ直ぐにフェリクスを映している。

「ずっと一人でチェスをしていたのかい? そろそろ下校しないと、鍵をかけられてしまうよ」

「…………」

返事の代わりにモニカは、白のポーンをコトリと動かした。今はどうやら白の手番だったらしい。なんとなく盤面に目をやれば、白と黒はほぼ拮抗していた。

フェリクスは黒のナイトを動かし、白のポーンを盤面から除く。

勝手に動かして怒られるだろうかと思ったが、モニカはただ静かに、盤面から取り除かれた白のポーンを見つめていた。

「……たとえば、願いを叶えるために、誰かを犠牲にしないといけない時」

「うん?」

「殿下は、どうします、か?」

フェリクスの答えに迷いはなかった。

だって、彼はもう十年前にその答えを出してしまっている。

「必要なら、手にかけるだろうね」

かつて彼は、この手で大切な人を焼いたのだ。

今更多少の犠牲に動じたりはしない。王になる、という目的のためなら、邪魔する者は容赦なく排除できる。

〈宝玉の魔術師〉エマニュエル・ダーウィンを唆して、クロックフォード公爵の暗殺を命じたように。

「王になるのに必要なら、私はきっとそうするよ」

「……殿下は、どうして、そこまでして王様になりたいんですか」

「以前も言わなかったかい? 私は、王にならないといけないからだよ」

そう、フェリクス・アーク・リディルは王にならなくてはいけない。歴史に名を残すために。

哀れな優しい王子様の存在を、人々が忘れないようにするために。

「…………」

モニカは無言で白のルークを動かした。

すかさずフェリクスが黒のナイトを動かせば、盤面の情勢は黒が有利に傾く。

モニカが白のキングを生かすためには、いずれかの駒を犠牲にしなくてはいけない、そんな状況だ。

「願いを叶えるために、何かを犠牲にしないといけない時……わたしは、それが簡単にできるって、ずっと思ってたんです」

内気でおとなしい少女が、懺悔のような口調で呟く。

自分は何かを犠牲にできる人間なのだと。

「だって、大切なものなんて、わたしには無かったから。数字があれば、それだけで良かったから」

モニカが見ているのは、フェリクスでもなければ、盤面でもない。

盤面から除かれた、白のポーンだ。

「わたしはきっと、簡単に、残酷に、誰かを切り捨てられるって、思ってたのに……」

モニカの手が盤上を彷徨い、どの駒にも触れることなく膝に戻る。

「誰かの願いのために、お父さんが死んだと知って……どうしたら良いか分からなくなりました」

きっと、今までのモニカなら迷わず次の手を指していたのだろう。モニカがチェスで長考しないことは、チェス大会でよく分かっている。

けれど、今のモニカは迷っている。犠牲を出さねば身動きの取れない今の状況に。

フェリクスはフゥッと息を吐くと、右手でチェスの盤面の駒をザラザラと払った。

グチャグチャに乱れた盤面に、モニカは目を丸くして、盤面とフェリクスを交互に見る。

「えっ、あの、えっと……」

「人生が全てチェスと同じとは限らないさ。人間関係は複雑だ。白と黒の二つの陣営だけとは限らない」

実際に政治問題なんて、それはそれは複雑なのだ。

同じ白陣営の中でも更に複数の陣営に分かれていたり、第三、第四の陣営がいるかと思ったら、更に新しい第五陣営が現れたり。

フェリクスはバラバラに散らばった駒をケースに戻した。そろそろ校舎を出なくては閉じ込められてしまう。

「君が何かに追い詰められているのなら、周りを頼ればいい……私のことは、頼ってくれないのかい?」

その言葉に、モニカは何故か泣きそうな顔をした。

小さい唇が開き、何かを言いかけて、閉じる。

「……モニカ?」

フェリクスがモニカの頬に手を伸ばすと、それから逃れるようにモニカは勢いよく立ち上がった。

そして、掠れた声で告げる。

「ヴェネディクト・レイン」

聞き覚えのない名前にフェリクスが訝しげな顔をすれば、モニカは涙を堪えた必死の形相で声を絞りだす。

「この先、わたしが何を選んでも、どんな未来に行き着くとしても……どうか、この名前だけは、覚えていてください。絶対に、絶対に、忘れないでください」

それだけ言って、モニカは逃げるように生徒会室を飛び出した。

バタンと扉の閉まる音を聞きながら、フェリクスはその名前を口の中で反芻する。

ヴェネディクト・レイン。

知らない名前だ。それなのに、どこかで目にした気がする。

話の流れから察するに、死んだモニカの父親の名前だろうか?

(……少し、調べてみようか)