作品タイトル不明
第14話 指先を、返す
引き継ぎの儀、という書式を、私はこれまで、受けたことが、一度も、なかった。
親から受ける機会は、なかった。母は、私が嫁ぐ前の冬に、逝ってしまった。師から受ける機会も、なかった。私は帳簿の師を、持たずに育った方の人間で、自分で覚えた符丁を、自分で重ねてきた。──受ける側に立ったことがない儀式を、今日、自分が、施す側に、立つ。施す側が、初めての経験で、儀を執り行うというのは、たぶん、書式そのものより、先に、少しだけ、気の張る種類の話、だった。
二週間前に日取りを決めてから、今日のこの朝まで、準備のひとつひとつが、一歩ずつ、積み上がっていた。王家監察局からは、冬の大聖堂の日に同席していた方ではない、別の年配の立会人の方が、前日のうちに、ヴァイス領に入ってくださっていた。王都からの道中、少し咳をされていたので、マリーカさん──ではなく、王都の軍医局から別に手配していただいた医師が、同行していた。マリーカさんは、婚礼の時とは別件で、軍医局の通常勤務のほうを、外せなかったのだった。
マッテオさんは、前日の夕方、いちばん上等の外套で到着した。「俺の店の、俺の代の、最上の一着です」と、少しだけ、照れくさそうに、言った。商人が「最上の一着」を着てくるのは、自分の店の格を、この場に合わせる、という意味の作法、だった。
それから──あの子も、来ていた。
アルベルト様への打診書は、一週間前に、正式な書式で送った。返事は、二日後に、短く、届いた。『レオンの同席を、後見人として、正式にお認めいたします。王家監察局の同行のうえで、ヴァイス領に向かわせます。父親としての立会いは、致しません。あの子の側の立会いに、留めます。──アルベルト』。最後の一行の「父親としての立会いは、致しません」は、あの人なりの、今日の場への、距離の取り方、だった。
今朝、レオンは、経理室の扉の前で、自分の靴の先を、一度、丁寧に、気にしてから、入ってきた。
◇
経理室の机を、いつもより、奥に寄せた。
部屋の真ん中に、空間を、ひとつ、空けた。そこに、三脚の古い書見台を、並べた。
右の書見台に、私の、七年分の帳簿の、いちばん上の一冊。ルーンブックの封印が、まだ、かかっている。革表紙に、薄く、魔力紋の青い筋が、灯っていた。
真ん中の書見台に、新しい、空の冊子。頁数は、普通の帳簿の半分くらい。魔力紋は、まだ、どこにも、灯っていない。
左の書見台に、書式設計の、清書。『一 書式の根本──完結を、意図しないこと』から始まる、二週間前に、私が机の上に下ろした、あの五項目だった。──題字から、「仮」とだけ、今朝、抜いた。
立会人の方が、部屋の奥に、静かに、座った。王家の通商方の、別の同席者、マッテオさん、書記の方。レオンは、壁際の椅子に、小さく、腰かけた。ハンネスさんを、私の正面に、立たせた。
ルーカス様は、部屋の、いちばん奥の、壁際に、一歩だけ下がって、立っていた。
──立会人ではなく、夫として、だった。
立会人の位置に、立ってもらうこともできた。でも、今日のこの場では、この人には、一歩下がった場所に、立っていてほしかった。夫としての位置、というのは、儀の、表の手順の外側にいる、ということ、だった。表の手順を、外側から、黙って、見ている。それが、今日の、この人のいる場所、だった。
◇
「──本日、引き継ぎの儀を、執り行います」
声が、自分でも思っていたより、落ち着いて、出た。
立会人の方が、軽く、頷いた。書記のペンが、紙の上に、下りた。
右の書見台の、一冊目の帳簿の表紙に、指を、載せた。革の表面が、薄く、温度を持っていた。七年、私の指の熱を覚え続けた革、だった。
封印の、魔力紋が、指の下で、ゆっくりと、光を、強めた。──解除、ではなく、開示、の形に、だった。
私の書式の中では、この操作を、こう呼んでいた。『封印を、閉じたまま、隙間だけ、相手に差し出す』。あの方法ではなく、全開でもない。受け取り手が、こちらと同じ向きで、指を差し込める場所を、こちらの側から、ひとつだけ、開ける。それが、この儀の、最初の手順、だった。
「ハンネス」
「はい」
「右手の、人差し指と、中指を、重ねて。こちらの帳簿の、紋の、中央に、下ろしてください」
「……了解、っす」
ハンネスさんの声は、少しだけ、硬くなっていた。硬さの種類が、戦場で任務の前に出すあの硬さと、似ていた。軍人が、自分の担当する仕事を前にした時の、硬さ、だった。
指を、下ろした。
紋の中央に、ハンネスさんの指先が、軽く、触れた。触れた瞬間、紋の青い光が、一度だけ、かすかに、揺れた。揺れただけで、まだ、開きはしなかった。──こちらの側の、次の一手を、待っていた。
私は、自分の左手を、ハンネスさんの指の、隣の空いた場所に、そっと、並べた。同じ紋の、同じ中央に。二人の指先が、紋の上で、重ならずに、すぐ横同士で、並んだ。
そこで、一度、息を、吐いた。
ここが、今日のいちばん、胸が、重くなる箇所だった。
◇
「──ひらく」
私の口から、ひと言だけ、出た。
儀の、正式な呼び声、ではなかった。私が、自分の書式設計の最後の夜に、自分で決めた、呼び声、だった。「開く」でも「解く」でも「渡す」でもなかった。「ひらく」の、平仮名のほう、だった。平仮名のほうが、この動作には、ちょうど、釣り合う気がした。
紋の、青い光が、ふっと、一段、広がった。
──広がった瞬間、私の指の、腹のあたりから、何かが、すうっと、隣の指先のほうへ、流れていくのを、感じた。
痛くは、なかった。冷たくも、なかった。ただ、七年間、自分の指の裏側にだけ、溜めてきた、あの、符丁の読み方の感触が、初めて、自分の指から、離れて、別の人の指のほうへ、歩いて、いった。
歩いていった時、胸の中で、何かが、ほんの少しだけ、軋んだ。
軋んだのは、惜しさだった、と思う。七年、自分の中にしまっていたものが、今、自分の外へ、出ていく。出ていくのを、自分の意志で、送り出している。送り出すのは、初めてのこと、だった。
そこで、一瞬だけ、私の手が、止まった。
紋の上の指を、引き戻したくなった、わけでは、ない。ただ、送り出す動作の、途中で、呼吸の、次の一拍が、詰まった。
──後ろから、肩に、外套が、かけられた。
いつの間にか、壁際から、ルーカス様が、一歩だけ、近づいてきていた。静かに、足音を殺して。外套の縁は、毛布と同じ重さで、私の肩の上に、乗った。重かった。あの、冬の夜の、初めての茶と、同じ種類の、重さだった。
ルーカス様は、何も、言わなかった。
言わないまま、そこに、立っていた。私の呼吸の、次の一拍が、戻るまで。
──戻った。
「……続けます」
声を、低く、落とした。
紋の上の、右手の指先に、もう一度、ゆっくりと、力を、通した。
◇
ハンネスさんの指先が、一度だけ、小さく、ぴくりと、動いた。
「……あ」
「……いかがですか」
「セレナ殿。……読めます」
掠れた声だった。
「あの、これ。──読めます。頭に点がある品目、急ぎ、って、ちゃんと、分かります。星ひとつは、季節にかかわらず、必要、って、分かります。星ふたつは──、これ、『本人か、相談』、って、出てます。文字じゃないのに、出てます」
ハンネスさんの目が、紋から、私の顔のほうに、上がった。
普段の、あの、人懐っこい、少し軽い、笑顔では、なかった。もっと、別の種類の顔だった。副官が、自分の任務を、最後の一歩まで、踏み切った瞬間の顔、だった。
「……読めた、っす」
「──はい」
紋の、青い光が、右から真ん中の書見台のほうへ、細い糸のように、伝っていった。真ん中の書見台の、新しい、空の冊子の表紙に、同じ紋が、薄く、生まれ始めた。生まれたばかりの紋は、まだ、薄い色だった。──これから、ハンネスさんが、自分で、育てていく紋、だった。
立会人の方が、書記の方を、見た。書記のペンが、紙の上で、一度、きちんと、息を、整えた。
「引き継ぎの儀、成立──」
立会人の方の、低い声が、部屋の中に、まっすぐに、落ちた。
◇
儀を終えた直後、私の右手の人差し指が、少しだけ、震えていた。
震えていたのは、疲れでは、なかった。──七年と一年、ここにしか入れていなかったものが、今、ここから、外へ、出ていった。出ていって、戻ってこない種類のものだった。それを、自分の指は、ちゃんと、知っていた。
レオンが、壁際から、小さく、立ち上がった。
近づいてきて、私の膝の横で、一度、立ち止まった。それから、そっと、手を、伸ばしてきた。私の、震えている指を、小さな両手で、包んだ。
「……おかあさま」
「はい」
「ぼく、今のこと、分からなかったけれど、すごかったです」
「そう」
「おとうさまにも、お話しして、いいですか」
私は、少しだけ、考えた。考えてから、頷いた。
「ええ。話してあげて」
「はい」
レオンの、小さな両手が、私の指を、もうしばらく、包んでいた。体の小ささと、手の温度の低さは、あの冬の朝と、そんなに、変わらなかった。変わったのは、手の、ためらいのない握り方、だった。
肩の外套の重みが、ゆっくりと、後ろの方に、引かれた。ルーカス様が、外套を、半分だけ、ずらして、もう一度、肩の上に、戻してくれた。手の動きは、まだ、言葉ではなかった。でも、動きそのものが、いつもの「……よくやった」の代わりに、なっていた。
◇
夕方、レオンの王都への馬車を、玄関で、見送った。
後見人の馬車ではなく、今日は、王家監察局の馬車だった。後日、王都で、アルベルト様に、正式に、引き渡される。レオンの手荷物の中には、儀式の前に自分で選んで入れた、経理室の子供用の帳簿の、練習用の紙の束が、入っていた。
馬車が門を出ていく前、使用人の方から、一通の書簡を、受け取った。
封蝋は、グランツ家のもの。小さな監査局の紋が、横に、併記されている。──アルベルト様、だった。
扉を閉めて、経理室に戻ってから、開けた。
便箋は、一枚だけ。
『セレナ 様
レオンが、先月、私のところへ、小さな帳面を、持ってきました。
中身は、私が、自分の手で、書いた数字でした。
「お父さま、ここの足し算、ちょっと、まちがえてます」と、
あの子が、私に、教えてくれました。
まちがえたまま、私が渡した紙を、あの子は、捨てずに、私に返しました。
まちがえていたほうを、あの子が、笑いもしないで、受け取ってくれたのが、
私には、嬉しかったです。
この嬉しさは、言うべき相手を、あなたしか、知りません。
ご容赦ください。
アルベルト・フォン・グランツ』
便箋の、最後の行の上で、私の指先が、少しだけ、止まった。
返事を書くかどうかを、決める前に、もうひと晩、置こう、と思った。置いても、明日の朝、同じ紙の上に、同じ文面の重さで、静かに、待っていてくれる種類の、手紙、だった。
──今日、引き継ぎの儀を終えた私の机の上に、父親としての小さな一頁の話が、後見人の名前で、届いていた。
机の端に、儀の終わった紋の余韻が、まだ、微かに、青い色で、残っている気がした。窓の外で、夏の夕日が、庭の白い花壇を、ゆっくりと、撫でていた。花壇の幅は、今朝より、ほんの少しだけ、広く見えた。