軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第13話 締め終えた頁、次の儀式の名前

誰かが自分の仕事を終わらせて見せに来る時の空気は、特別な種類の、静けさを持っている。

廊下を歩いてくる足音で、もう、分かる。ハンネスさんの普段の歩き方は、もっと散らかっている。散らかっている、というのは、悪い意味ではない。急ぎの用と、急ぎでない用を、同じ歩幅で運ぶ人の、あの、気持ちのいい散らかり方のことだ。──今朝の足音は、それとは違う歩き方、だった。ひと足ひと足が、ちゃんと締めた頁を運んでいる時の、歩き方、だった。

婚礼の翌朝から、何日か、経っていた。

その間、ハンネスさんは、冬季在庫再分類の頁の、下書きの下書きを、重ねていた。経理室の向こうの小机を、仮の席にして、夕方まで、紙の束と、ペンと、鉛筆と、何度も消しゴムをかけた紙の端を、積み上げていた。私は、通りすがりに、紙の角だけを、ちらりと、見た。中身は見なかった。──見てしまったら、書き直しを提案したくなる気がしたからだった。これは、ハンネスさんの頁、だった。私の頁では、今回は、なかった。

扉が、開いた。

「セレナ殿。……できました」

両手で、頁の束を、机の上に、そっと、置いた。

ハンネスさんの指先が、少しだけ、硬くなっていた。何日かの夕方を、ペンに溶かした人の、指の、あの硬さだった。

頁を、ゆっくり、開いた。

いちばん上。冬季の、在庫の、再分類。私が最初に組んだ時は、自分にだけ通じる符丁を、いくつも散らばせていた頁だった。ハンネスさんの新しい頁は、その符丁を、ひとつずつ、別の言葉に、置き換えていた。

頭に点のつく品目は、『優先発注』という、普通の言葉に、書き換えられていた。

星ひとつは、『季節にかかわらず、必要』。

星ふたつは、『本人、または相談のうえで、判断』。

符丁を、普通の言葉に。──私の頭の中でだけ走っていたものを、ハンネスさんの手が、紙の上の、誰にでも読める単語に、ひとつずつ、翻訳していた。

次の頁。仕入れ先の分類。私の書式では、仕入れ先を、地域別と品質別で、二段に重ねていた。ハンネスさんは、その二段を、一段にしていた。そのかわり、欄外に、小さな注釈がついていた。

『詳細な品質区分は、別帳面の照合を要する。参照:品質区分表。本書単体での完結は、意図しない』

目を、止めた。

(……「本書単体での完結は、意図しない」)

その言い回しは、私の書式の中には、なかった。

私は、ずっと、一冊で完結する帳簿を、書いてきた。一冊で完結させるから、符丁が増える。符丁が増えるから、余計に、一人にしか読めなくなる。──ハンネスさんは、完結させないこと、を、自分の頁の最初から、はっきりと、明記していた。

完結させない、こと。

それは、私がこの一年、何度も、やってみようとして、最後の一歩でためらっていた考え方、だった。

次の頁。さらに、その次。全部、同じ方針で、整えられていた。私の七年分の癖が、ひとつずつ、別の人の手で、丁寧に、「本書単体ではなく、皆で共有できるように」という方向へ、向き直されていた。

三つ目の頁のところで、私は、一度、ペンを、置いた。

置いて、両手で、茶碗を、持ち上げた。今朝のお茶は、まだ、ほんの少しだけ、温かかった。

扉が、もう一度、開いた。

今度は、ルーカス様、だった。

朝の見回りの、帰り道だった。声をかけずに、一歩だけ、中に入って、机の上の頁に、目を落とした。読むというよりは、目の端で、束の厚みと、筆跡の整い方を、一瞬で測る読み方だった。軍人の、書類の見方、だった。

しばらく、そのまま、だった。

やがて、ルーカス様の視線が、ある一行の上で、静かに、止まった。

私が、さっき目を止めたのと、同じ、あの一行だった。『本書単体での完結は、意図しない』。

ルーカス様は、何も、言わなかった。

ただ、一度だけ、ゆっくりと、頷いた。

頷いてから、ハンネスさんのほうを、一度だけ、見た。その視線は、いつもの、何かを評価する時の視線ではなかった。もっと静かな、──仲間の仕事を、仲間として受け取った時の、見方、だった。

ハンネスさんは、その視線を、受け取って、ほんの少しだけ、姿勢を、正した。副官の姿勢ではなかった。もう少し違う、新しい姿勢だった。──自分の仕事を、自分の仕事として、受け取ってもらった人の、背筋の伸び方、だった。

「伯爵。……お目汚しで」

「いや」

短い返事だった。それだけ、だった。

ルーカス様は、頁を、自分の指で、いちばん上のところだけ、そっと撫でて、そして、扉のほうへ、戻っていった。廊下に出る前に、私のほうを、一瞬だけ、振り返った。

振り返って、何も、言わずに、また、前を向いた。

──その振り返り方、だけで、あとは、お前の番だ、と、伝わってきた。

頁を閉じて、机の端に、そっと、置いた。

それから、私は、別の、真っ白な紙を、新しく、一枚、取り出した。

机の上を、少しだけ、整えた。インク壺の位置を、指で、わずかに調整する。──いつもの、迷う時の、手癖、だった。

書き始める頁が、今日からしばらくの間、私の仕事の中心に、なる。それを、頭のどこかで、ちゃんと、自分で、理解していた。

頁のいちばん上に、題字を、下ろした。

『引き継ぎの儀のための 書式設計(仮)』

書いてから、少しだけ、笑ってしまった。仮、と書いてしまうあたりが、我ながら、職業的な手癖、だった。儀式に「仮」をつけていいのか、と、頭の隅を、冗談のように、ひとつ、掠めた。掠めて、すぐに、消えた。

──引き継ぎの、儀。

七年と一年、その名前を、私は、自分の仕事に、使ったことがなかった。一度も、なかった。これは、普通、親から子へ、師から弟子へ、行われる種類の儀式だった。魔力で封印された帳簿の読み方そのものを、次の管理者の指先へ、繋いでいく手続き。血筋や職階に縛られた儀式ではなかったけれど、日常のなかで、誰もが気軽に行う類のものでも、なかった。

それを、私が、ここで、ハンネスさんに向けて、執り行う。

その一文を、頭の中で組み立てた瞬間、胸の奥が、少しだけ、広くなった。

広くなったのは、安心の種類の広さでは、なかった。むしろ、もうひと踏ん張り、あるぞ、という種類の広さだった。ひと踏ん張りの場所に、ちゃんと手が届いた、という、筋肉の感覚のほう、だった。

紙の上に、項目を、順番に、並べ始めた。

『一 書式の根本──完結を、意図しないこと

二 符丁の翻訳──ひとつずつ、普通の言葉へ

三 魔力封印の開示──管理者の側からの、任意の開放

四 受け取り手の、応えの儀──指先の、魔力の返し

五 受け取ったあとの、書き足しの権利』

書いていくうちに、筆が、少しずつ、速くなった。仕事として面白い、という種類の速さ、だった。

午後、ルーカス様の執務室で、日取りの相談を、した。

「……二週間後の、吉日に、執り行いたいのですが」

「ああ」

「立会人は、王家の通商方の、どなたか、おひとり。商会連合の、マッテオさん。それから──」

「王家監察局。正式な儀だから、そうしたほうがいい」

「はい」

監察局の立会いは、公爵家の書斎では、決して呼ばなかった種類の立会人、だった。呼ばなかったのは、呼ぶ必要がなかったから、ではない。呼ぶ資格が、あの頃の私には、まだ、なかったから、だった。

「レオン、呼ぶか」

ルーカス様の声が、机の向こうから、静かに、差し込まれた。

頁の上で、ペンが、一度、止まった。

「……呼んで、よろしいのですか」

「お前の儀だ。お前が、呼びたい相手を、呼べばいい」

レオンの、冬の日の手紙を、思い出した。紙の裏に、薄いインクで書いてあった、『ぼくの ほんとうの おかあさま』の一行。あの一行を書いた子は、今日のこの、儀式に、立ち会うのが、相応しい子、だった。

ただ、立ち会わせるかどうかは、アルベルト様との相談に、なる。後見人のほうに、正式な打診を出さないといけない。正式な打診を、どういう書式で、どういう宛名で、どういう文面で送るか。──その書式を考える時間すら、今夜の机の上で、楽しみのひとつに、数え始めている自分に、気がついた。

ルーカス様は、机の木目を、一度、見た。それから、少しだけ、目元を、緩めた。

「……もう、始まっているな」

「ええ」

「二週間後、か」

「はい。二週間後に、ほどきます」

ほどく、と、今日はじめて、ほかの人に向かって、声に出して言った気がした。

言ってから、自分の声の、芯の強さが、いつもより、ひとつ、上がっていたことに、気がついた。上がっていたのは、焦りの強さでは、なかった。気持ちの、芯の、立ち上がり方の、強さ、だった。

窓の外で、夏の昼の光が、庭の白い花壇を、ゆっくりと、撫でていた。苗が増えた花壇は、冬の頃より、幅が、少しだけ、広くなっていた。──二週間後の、儀式の朝も、きっと、この花壇を、同じ夏の光が、撫でている。