作品タイトル不明
第9話「手放す勇気」
「殿下。わたし、お話があります」
その言葉が書簡に記されていたのを、ミレーユは辺境公爵邸の書斎で読んだ。
父ギヨームからの手紙だった。
セドリックの熱が下がり、数日の安静を経て、体調が落ち着いた頃に届いた書簡。
ギヨームの筆跡は簡潔だった。いつもと同じ角張った字で、要件だけが記されている。
「リゼット・ノワールが王太子のもとを訪れ、正式に関係を終えた」
ミレーユは書簡を膝の上に置いた。
ギヨームの手紙には、リゼットの言葉が引用されていた。
「殿下のおそばにいたいと思っていました。けれど、わたしがいても殿下のお力にはなれませんでした。わたしは殿下の傍にいることで、自分が必要とされていると信じたかっただけかもしれません」
泣かず、微笑んで去ったと記されていた。
ミレーユは書簡を読み返した。
リゼットの言葉が、胸の中で静かに響いた。
好きな人の傍にいたいという気持ちだけでは、足りない。
ミレーユ自身の十年間が、そこに重なった。
エドワールの傍にいた。義務だと思って、すべてをやった。感謝されることはなく、見てもらえることもなく、最後には「返せ」と言われた。
リゼットは、あの場所で同じことに気づいたのだ。
傍にいるだけでは、何も変わらないということに。
「リゼット嬢は強い方だ」
ミレーユは小さく呟いた。
あの夜会で、困惑した顔でエドワールの袖を掴んでいた令嬢。善意だけを武器に、慣れない社交を必死にこなそうとしていた人。
その人が、自分の意思で離れることを選んだ。
ミレーユは書簡を折り畳んだ。
◇
午後。孤児院の庭。
セドリックはベンチに座っていた。
顔色は、数日前よりずいぶん良くなっている。まだ本調子ではないが、庭の空気を吸えるところまで回復していた。
ミレーユがベンチの傍に立った。
「お加減はいかがですか」
「おかげさまで。ミレーユ嬢のおかげです」
セドリックが微笑んだ。
「嬢」がまだついている。けれど、「ブランシャール嬢」ではなくなった。
その変化が、ミレーユの胸を温めた。
セドリックが表情を改めた。
「お詫びしなければならないことがある、と申し上げました」
熱の夜、言いかけて止められた言葉。
ミレーユは頷いた。
「はい。伺います」
セドリックは膝の上で指を組んだ。ほどいて、また組んだ。
言葉を探している。
ミレーユは待った。
「あなたを辺境にお呼びしたのは、孤児院のためでした」
セドリックの声は静かだった。
「けれど──正直に申し上げれば、それだけではありませんでした」
風が庭の木を揺らした。子どもたちの声が、遠くから聞こえている。
「あなたという人に、会いたかったのです」
セドリックの目が、ミレーユを見た。
怖がっている目だった。けれど、逸らさなかった。
「弟の名義で送られる外交書簡の筆跡を見て、この字を書く人に会いたいと思いました。あの仕事量を、誰にも気づかれずにこなしている人に。孤児院の依頼は本当です。けれど、手紙を出した理由の半分は──私の、個人的な願いでした」
沈黙が落ちた。
ミレーユの胸の中で、何かが静かに満ちた。
驚きではなかった。
「知っていました」
ミレーユの声は穏やかだった。
セドリックの目が見開かれた。
「知って……いた?」
「殿下のお手紙には、孤児院への想いだけでなく、書いた方の想いが滲んでいましたから」
あの手紙を受け取った夜のことを、ミレーユは覚えている。
封蝋のない、差出人不明の便箋。辺境公爵領の紋章が透かしに入った紙。
短い依頼文だった。けれど、紙質を確かめ、インクの色を見て、筆跡をなぞった時、ただの依頼ではないと感じた。
「来てよかったと思っています」
ミレーユは言った。
声が、少しだけ震えた。
「わたくしも、あなたに会いたかったから」
セドリックの目が潤んだ。
唇が震えた。声が出ない。
ミレーユの手が伸びた。
セドリックの頬に触れた。
指先が、温かい肌に触れる。熱の名残はもうなかった。
「泣かないでください」
ミレーユの声は柔らかかった。
セドリックが笑った。目に涙を溜めたまま、笑った。
「あなたがそれを言いますか」
ミレーユの口元がほころんだ。
あの日、声を上げて泣いた自分を、この人は覚えている。
頬に触れた手を、ミレーユはゆっくりと離した。
離す前に、セドリックの手がミレーユの手を包んだ。
温かかった。
熱の夜に握った手とは違う。穏やかで、確かな温度だった。
◇
夕刻。書斎に戻ったミレーユは、ギヨームの書簡の続きを読んだ。
リゼットの離別の報告の後に、もう一段落あった。
「リゼット嬢が去った後のエドワールの様子も記しておく。一人で執務室にいるそうだ。誰もいなくなった」
ミレーユは書簡を机に置いた。
胸の中で、何も動かなかった。
かつてなら、何かが揺れたかもしれない。
十年間を共にした相手だ。怒りがあった。虚しさがあった。
けれど今は、もうなかった。
エドワールの孤独は、エドワール自身が選んだ結果だった。
ミレーユの感情を動かすものは、もうあの場所にはない。
書簡を引き出しにしまった。
窓の外に、夕焼けが広がっている。
辺境の空は広い。王都より、ずっと広い。
ミレーユは窓辺に立ち、セドリックの言葉を思い出していた。
あなたという人に、会いたかった。
自分もそうだったのだと、今なら言える。
あの手紙を受け取った夜。封蝋のない便箋を手に取った時。
行こう、と思ったのは、孤児院のためだけではなかった。
この字を書いた人に、会いたいと思った。
ミレーユは窓辺を離れ、書斎を出た。
◇
孤児院の庭。
子どもたちが夕食前の時間を庭で過ごしている。
セドリックがベンチに座り、最年少の男の子に絵本を読んでやっていた。
ミレーユが近づくと、セドリックが顔を上げた。
「ミレーユ嬢」
「セドリックさま」
人前では、まだ「さま」と「嬢」がつく。
けれど、その呼び方の中に、以前とは違う温度があった。
セドリックが男の子の頭を撫で、立ち上がった。
「これから、二人でどうしていきましょうか」
穏やかな問いだった。
物流の問題はひとまず収まった。孤児院の修繕は進んでいる。冬支度の見通しも立った。
政治的な圧力は父が抑えている。
その先に、何があるのか。
ミレーユは答えた。
「わたくしからお話があります」
セドリックの目が、少しだけ開いた。
ミレーユは続けなかった。
今日ではない。もう少しだけ、この感覚を抱えていたかった。
自分の中で、言葉が形になるのを待ちたかった。
「明日、お話しします」
セドリックは頷いた。
「待っています」
その声は穏やかだった。
ミレーユは微笑んだ。
夕焼けの光が、孤児院の庭を橙色に染めていた。
子どもたちの声が響いている。
この場所で、この人の隣で、自分の言葉を探している。
それが今の自分だった。
◇
ギヨームの書簡に記されていた、もう一つの報告。
リゼットが去った後、エドワールは執務室の窓の外を見ていたという。
夕暮れの王都。灯りが一つずつ点いていく。
リゼットの最後の言葉が、耳に残っていた。
「殿下がお幸せでありますように」
微笑んで去った。泣かなかった。
エドワールは窓に手をつき、その言葉を反芻していた。
幸せ。
その言葉の意味を、考えている顔をしていたという。
ギヨームの書簡には、それだけが記されていた。
簡潔な一文だった。
けれどミレーユは、その一文を読み飛ばさなかった。
読んで、静かに書簡を閉じた。
もう、あの人のことで心が揺れることはない。
それ自体が、ミレーユの答えだった。