軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「手放す勇気」

「殿下。わたし、お話があります」

その言葉が書簡に記されていたのを、ミレーユは辺境公爵邸の書斎で読んだ。

父ギヨームからの手紙だった。

セドリックの熱が下がり、数日の安静を経て、体調が落ち着いた頃に届いた書簡。

ギヨームの筆跡は簡潔だった。いつもと同じ角張った字で、要件だけが記されている。

「リゼット・ノワールが王太子のもとを訪れ、正式に関係を終えた」

ミレーユは書簡を膝の上に置いた。

ギヨームの手紙には、リゼットの言葉が引用されていた。

「殿下のおそばにいたいと思っていました。けれど、わたしがいても殿下のお力にはなれませんでした。わたしは殿下の傍にいることで、自分が必要とされていると信じたかっただけかもしれません」

泣かず、微笑んで去ったと記されていた。

ミレーユは書簡を読み返した。

リゼットの言葉が、胸の中で静かに響いた。

好きな人の傍にいたいという気持ちだけでは、足りない。

ミレーユ自身の十年間が、そこに重なった。

エドワールの傍にいた。義務だと思って、すべてをやった。感謝されることはなく、見てもらえることもなく、最後には「返せ」と言われた。

リゼットは、あの場所で同じことに気づいたのだ。

傍にいるだけでは、何も変わらないということに。

「リゼット嬢は強い方だ」

ミレーユは小さく呟いた。

あの夜会で、困惑した顔でエドワールの袖を掴んでいた令嬢。善意だけを武器に、慣れない社交を必死にこなそうとしていた人。

その人が、自分の意思で離れることを選んだ。

ミレーユは書簡を折り畳んだ。

午後。孤児院の庭。

セドリックはベンチに座っていた。

顔色は、数日前よりずいぶん良くなっている。まだ本調子ではないが、庭の空気を吸えるところまで回復していた。

ミレーユがベンチの傍に立った。

「お加減はいかがですか」

「おかげさまで。ミレーユ嬢のおかげです」

セドリックが微笑んだ。

「嬢」がまだついている。けれど、「ブランシャール嬢」ではなくなった。

その変化が、ミレーユの胸を温めた。

セドリックが表情を改めた。

「お詫びしなければならないことがある、と申し上げました」

熱の夜、言いかけて止められた言葉。

ミレーユは頷いた。

「はい。伺います」

セドリックは膝の上で指を組んだ。ほどいて、また組んだ。

言葉を探している。

ミレーユは待った。

「あなたを辺境にお呼びしたのは、孤児院のためでした」

セドリックの声は静かだった。

「けれど──正直に申し上げれば、それだけではありませんでした」

風が庭の木を揺らした。子どもたちの声が、遠くから聞こえている。

「あなたという人に、会いたかったのです」

セドリックの目が、ミレーユを見た。

怖がっている目だった。けれど、逸らさなかった。

「弟の名義で送られる外交書簡の筆跡を見て、この字を書く人に会いたいと思いました。あの仕事量を、誰にも気づかれずにこなしている人に。孤児院の依頼は本当です。けれど、手紙を出した理由の半分は──私の、個人的な願いでした」

沈黙が落ちた。

ミレーユの胸の中で、何かが静かに満ちた。

驚きではなかった。

「知っていました」

ミレーユの声は穏やかだった。

セドリックの目が見開かれた。

「知って……いた?」

「殿下のお手紙には、孤児院への想いだけでなく、書いた方の想いが滲んでいましたから」

あの手紙を受け取った夜のことを、ミレーユは覚えている。

封蝋のない、差出人不明の便箋。辺境公爵領の紋章が透かしに入った紙。

短い依頼文だった。けれど、紙質を確かめ、インクの色を見て、筆跡をなぞった時、ただの依頼ではないと感じた。

「来てよかったと思っています」

ミレーユは言った。

声が、少しだけ震えた。

「わたくしも、あなたに会いたかったから」

セドリックの目が潤んだ。

唇が震えた。声が出ない。

ミレーユの手が伸びた。

セドリックの頬に触れた。

指先が、温かい肌に触れる。熱の名残はもうなかった。

「泣かないでください」

ミレーユの声は柔らかかった。

セドリックが笑った。目に涙を溜めたまま、笑った。

「あなたがそれを言いますか」

ミレーユの口元がほころんだ。

あの日、声を上げて泣いた自分を、この人は覚えている。

頬に触れた手を、ミレーユはゆっくりと離した。

離す前に、セドリックの手がミレーユの手を包んだ。

温かかった。

熱の夜に握った手とは違う。穏やかで、確かな温度だった。

夕刻。書斎に戻ったミレーユは、ギヨームの書簡の続きを読んだ。

リゼットの離別の報告の後に、もう一段落あった。

「リゼット嬢が去った後のエドワールの様子も記しておく。一人で執務室にいるそうだ。誰もいなくなった」

ミレーユは書簡を机に置いた。

胸の中で、何も動かなかった。

かつてなら、何かが揺れたかもしれない。

十年間を共にした相手だ。怒りがあった。虚しさがあった。

けれど今は、もうなかった。

エドワールの孤独は、エドワール自身が選んだ結果だった。

ミレーユの感情を動かすものは、もうあの場所にはない。

書簡を引き出しにしまった。

窓の外に、夕焼けが広がっている。

辺境の空は広い。王都より、ずっと広い。

ミレーユは窓辺に立ち、セドリックの言葉を思い出していた。

あなたという人に、会いたかった。

自分もそうだったのだと、今なら言える。

あの手紙を受け取った夜。封蝋のない便箋を手に取った時。

行こう、と思ったのは、孤児院のためだけではなかった。

この字を書いた人に、会いたいと思った。

ミレーユは窓辺を離れ、書斎を出た。

孤児院の庭。

子どもたちが夕食前の時間を庭で過ごしている。

セドリックがベンチに座り、最年少の男の子に絵本を読んでやっていた。

ミレーユが近づくと、セドリックが顔を上げた。

「ミレーユ嬢」

「セドリックさま」

人前では、まだ「さま」と「嬢」がつく。

けれど、その呼び方の中に、以前とは違う温度があった。

セドリックが男の子の頭を撫で、立ち上がった。

「これから、二人でどうしていきましょうか」

穏やかな問いだった。

物流の問題はひとまず収まった。孤児院の修繕は進んでいる。冬支度の見通しも立った。

政治的な圧力は父が抑えている。

その先に、何があるのか。

ミレーユは答えた。

「わたくしからお話があります」

セドリックの目が、少しだけ開いた。

ミレーユは続けなかった。

今日ではない。もう少しだけ、この感覚を抱えていたかった。

自分の中で、言葉が形になるのを待ちたかった。

「明日、お話しします」

セドリックは頷いた。

「待っています」

その声は穏やかだった。

ミレーユは微笑んだ。

夕焼けの光が、孤児院の庭を橙色に染めていた。

子どもたちの声が響いている。

この場所で、この人の隣で、自分の言葉を探している。

それが今の自分だった。

ギヨームの書簡に記されていた、もう一つの報告。

リゼットが去った後、エドワールは執務室の窓の外を見ていたという。

夕暮れの王都。灯りが一つずつ点いていく。

リゼットの最後の言葉が、耳に残っていた。

「殿下がお幸せでありますように」

微笑んで去った。泣かなかった。

エドワールは窓に手をつき、その言葉を反芻していた。

幸せ。

その言葉の意味を、考えている顔をしていたという。

ギヨームの書簡には、それだけが記されていた。

簡潔な一文だった。

けれどミレーユは、その一文を読み飛ばさなかった。

読んで、静かに書簡を閉じた。

もう、あの人のことで心が揺れることはない。

それ自体が、ミレーユの答えだった。