軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話「雨の日の約束」

セドリックが「そうではなくて」と言いかけた言葉の続きを、ミレーユはまだ聞いていなかった。

伯爵領からの帰路、馬車の中で途切れたあの一言。何への感謝だったのか。ミレーユはそれを訊かなかった。セドリックも、それ以上は口にしなかった。

帰還から数日が過ぎ、辺境は梅雨の時期に入った。

灰色の雲が低く垂れ込め、朝から細い雨が降り続いている。孤児院の庭は水たまりだらけで、子どもたちは外に出られない。

屋外作業はできない。修繕も、菜園の手入れも止まっている。

代わりに、ミレーユは孤児院の広間で子どもたちに文字の読み書きを教え始めた。

「この字はなんて読むの?」

「"あさ"ですよ。朝が来る、の朝」

最年少の男の子が、木の板に炭で一生懸命字を書いている。線がふらふらと曲がり、字というより絵に近い。

「むずかしい」

「大丈夫。何度も書けば、上手になります」

ミレーユが男の子の手に自分の手を添えて、一緒にゆっくりなぞった。

男の子が嬉しそうに笑った。

広間の隅で、セドリックも子どもたちに囲まれていた。

年長の子たちに、簡単な計算を教えている。指を使って数を数え、子どもが正解すると「よくできました」と静かに微笑む。

子どもたちはセドリックの膝に寄りかかったり、肩に手を置いたりしている。人前が苦手なはずのこの人が、子どもたちの前では自然体でいる。

雨音が窓を叩いている。

広間は薄暗かったが、温かかった。

伯爵との契約書の作成は、並行して進めていた。

ミレーユは書斎で契約の詳細を詰め、セドリックが辺境公爵の名義で署名する形を整えた。薬草取引の仲介業務の設計も始めている。伯爵領の需要と辺境の供給を照らし合わせ、取引量と価格帯の試算を組み上げた。

雨の日は実務が捗る。外に出られない分、机に向かう時間が長くなる。

けれど今日の午後は、実務から離れていた。

孤児院の広間。雨はまだ降り続けている。

子どもたちの読み書きの時間が終わり、年長の子たちが年少の面倒を見ている間、ミレーユは窓際に立っていた。

最年少の男の子が、ミレーユの裾を引いた。

「おかあさん」

「なあに?」

「"おかあさん"はどう書くの?」

ミレーユの呼吸が、一瞬だけ止まった。

膝を折り、男の子の目の高さに合わせた。

「教えてあげますね」

木の板と炭を手に取り、ゆっくりと書いた。一字ずつ、丁寧に。

男の子がそれを見つめ、自分の板に写し始めた。

不器用な字だった。線は曲がり、大きさも揃わない。

けれど、一字一字を懸命に書いていた。

書き上がった板を、男の子がミレーユに差し出した。

「できた! おかあさん、はい!」

ミレーユはその板を受け取った。

胸に当てた。

炭の匂いがした。男の子の小さな手の力が込められた、不揃いの字。

視界の端が、ほんの少しだけ滲んだ。

「大切にしますね」

声は穏やかだった。

男の子が満面の笑みで頷いた。

その横顔を、誰かが見ていた。

ミレーユが視線に気づいた。

広間の奥。セドリックが立っていた。

目が合った。

セドリックの目は静かだった。何かを堪えているような、けれど柔らかい目だった。

ミレーユは目を逸らさなかった。

逸らせなかった。

三秒。

広間に雨音だけが響いていた。

ミレーユが先に目を伏せた。

男の子の板を、もう一度胸に当てた。

心臓が速い。

けれど、不快ではなかった。

夕方。雨が小降りになった頃。

ミレーユは孤児院の廊下で、セドリックと並んで歩いていた。

子どもたちはおやつの時間で、広間に集まっている。廊下には二人きりだった。

セドリックが足を止めた。

「ブランシャール嬢」

「はい、セドリックさま」

セドリックは窓の外を見ていた。雨粒が窓硝子を伝い落ちている。

「伯爵領の帰り、馬車の中で言いかけたことがあります」

ミレーユの指先が、かすかに冷えた。

セドリックが窓から目を離し、ミレーユを見た。

「あの交渉の場で、"ここにいたい"と言ってくださったことへの感謝です」

声は静かだった。

「私のために辺境にいるのではなく、あなた自身がここにいたいと。──それが、嬉しかった」

ミレーユの胸の中で、何かが大きく揺れた。

嬉しい、と思った。

その直後、怖い、と思った。

嬉しいことが、怖い。

十年間、何をしても当たり前だと言われ続けた。感謝されることはなく、認められることもなかった。それが習慣になっていた。

この人は違うと、わかっている。

わかっているのに、身体が覚えている。

また当たり前にされるのではないか。

その囁きが、胸の底から這い上がってきた。

ミレーユは微笑んだ。

いつもの、崩れない微笑みだった。

「……ありがとうございます、セドリックさま」

声は平坦に保った。

保てた、と思った。

けれど、指先が微かに震えていた。

スカートの布を握る手に、力が入っている。

セドリックはミレーユの指先を見ていた。

何かに気づいたようだった。

口を開きかけた。

けれど、何も言わなかった。

代わりに、小さく微笑んで、広間の方に歩き出した。

子どもたちの輪に戻っていく背中を、ミレーユは見送った。

踏み込まなかった。

無理に聞かなかった。

その優しさが、ミレーユの胸にさらに深く刺さった。

嬉しいのに怖い。怖いのに離れたくない。

五歳で母を亡くした夜から、ずっと閉じてきた蓋。

泣いても仕方がない。泣いても母は戻らない。感情を閉じれば、傷つかない。

その蓋が、また軋んでいた。

廊下に、雨音だけが響いていた。

雨が上がった夕方。

空の端に夕焼けが覗き始めた頃、使用人がミレーユの部屋を訪ねてきた。

「ミレーユさま、王都からお手紙でございます」

銀の盆に載せられた書簡。

見慣れた封蝋。ブランシャール公爵家の紋章。

父からだった。

ミレーユは封を受け取った。

開封は後にした。

窓の外に、雨上がりの空が広がっている。

濡れた石壁に夕日が反射して、孤児院の庭が淡い橙色に染まっていた。

子どもたちの声が聞こえる。雨が止んだことに気づいて、庭に飛び出したのだろう。

ミレーユは書簡を机に置き、窓辺に立った。

セドリックの言葉が、まだ胸の中にあった。

嬉しかった、と言った。

あなた自身がここにいたいと。

その言葉を受け止めきれない自分への苛立ちと、それでもここにいたいという気持ちが、まだ混ざり合ったまま、胸の中で渦を巻いている。

父の手紙を、明日読もう。

今日はもう少しだけ、この感覚と向き合っていたかった。

ノワール公爵家の邸宅。

リゼットは自室の机に向かっていた。

便箋が一枚、目の前にある。ペンを持ったまま、動けずにいた。

宛先はエドワール。

何度も書き直した。書き出しの一行が決まらない。

殿下、お元気ですか──違う。そんな軽い言葉では足りない。

殿下、わたしは──何を伝えたいのだろう。

ペンが便箋に触れ、インクの染みが広がった。

リゼットは便箋をくしゃりと丸め、新しい一枚を引き出した。

また、書き出しで止まった。

窓の外に、実家の庭が見えている。幼い頃に遊んだ木々が、夕暮れの風に揺れていた。

考えたいことがある、と言って帰ってきた。

けれど考えれば考えるほど、答えが遠くなる。

リゼットの目の端が、熱くなった。

涙が一滴、便箋の隅に落ちた。紙が小さく滲んだ。

リゼットはペンを置いた。

今日は書けない。

机に突っ伏して、目を閉じた。

王都では、エドワール主催の外交行事が出席者不足のため規模を大幅に縮小して開催されたという噂が、社交界を静かに巡っていた。