軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話「伯爵の条件」

「辺境公爵の依頼を受ける理由が、私にはないのですが」

モンフォール伯爵領の屋敷。応接間の重い椅子に深く腰を下ろした老人が、開口一番にそう言った。

フィリップ・ド・モンフォール。五十五歳。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、鷹のような目でミレーユとセドリックを見据えている。

馬車で二日の旅だった。

セドリックの体調を考え、途中で一泊した。それでも到着した時には、セドリックの顔色は出発時より白かった。

伯爵は二人を応接間に通したが、茶を出す気配はなかった。

「殿下。失礼ながら率直に申し上げます」

伯爵の視線がセドリックに向いた。侯爵以下の貴族が王族に対して取るべき礼節は保っている。だが、声には遠慮がなかった。

「継承権を放棄なさった王族のために、なぜ私が便宜を図る必要があるのでしょう。辺境公爵領との取引は薬草の卸しが数件あるのみ。物流提携となれば話の規模が違います」

セドリックは背筋を伸ばしたまま、答えようとした。

その前に、ミレーユが口を開いた。

「伯爵閣下。お時間をいただきありがとうございます。物流提携のご相談にあたり、まず伯爵領にとっての実利をご説明させていただいてもよろしいでしょうか」

伯爵の目が、ミレーユに移った。

公爵令嬢が王族より先に発言したことに、眉がわずかに動いた。だが制止はしなかった。

「どうぞ」

ミレーユは持参した書類を広げた。

数字が並んでいる。辺境領の物流データ、伯爵領の産物の流通量、周辺領との取引の推定値。

「現在、伯爵領の主要産物である薬草と皮革は、王都方面への販路が中心かと存じます。しかし王太子領の物流が停止したことで、伯爵領から王都への経路にも遅延が出始めているはずです」

伯爵の表情が、わずかに変わった。

図星だった。

「辺境と伯爵領を結ぶ物流経路が成立すれば、伯爵領の産物に新たな販路が開かれます。辺境の薬草需要は高く、皮革も冬支度に欠かせません。王都一本に依存する現状より、経路が分散される方が伯爵領の安全保障としても意味があるかと」

ミレーユは書類の上に、簡潔な図を指し示した。

王太子領を経由する既存の幹線路。それを迂回する、辺境と伯爵領を結ぶ新たな経路。

「加えて、王太子領の物流崩壊が長期化すれば、伯爵領の物流にも影響が及ぶ可能性があります。その前に独自の経路を持つことは、備えとして合理的です」

数字と図。感情を排した、実利の提示。

伯爵は書類に目を落とし、しばらく黙っていた。

指先が顎を撫でている。

やがて顔を上げた。

「ブランシャール嬢、と伺いましたな」

「はい、閣下」

「枢密院でお名前を拝聴しております。王太子の外交書簡を十年間起草していた方だと」

ミレーユは表情を変えなかった。

「能力については疑いません。数字も筋が通っている」

伯爵が椅子の肘掛けに手を置いた。

「だが、一つ訊きたいことがある」

鷹の目が、ミレーユを射抜いた。

「公爵令嬢が、なぜ辺境で孤児院の世話をしているのですか。政治的な意図があるのではありませんか」

空気が張り詰めた。

セドリックが身を乗り出した。

「伯爵。ブランシャール嬢は私の私的な依頼で──」

「公爵のお言葉は承知しております」

伯爵がセドリックの言葉を遮った。丁重だが、はっきりと。

「公爵の保証ではなく、あなた自身の言葉を聞いている」

伯爵の視線がミレーユに戻った。

ミレーユの前で、問いが真っ直ぐに立っていた。

政治的な意図。

王太子の元婚約者が、継承権を放棄した王族の元にいる。その構図が何を意味するか。伯爵はそれを問うている。

ミレーユは息を吸った。

「わたくしがここにいるのは、ここにいたいからです」

声は穏やかだった。揺れてはいなかった。

「それ以上の政治的意図はございません。辺境の冬を越すために、今わたくしにできることをしているだけです」

伯爵の目が細くなった。

沈黙が落ちた。

応接間の窓から、午後の光が差し込んでいる。埃が光の中を漂っていた。

伯爵が口を開いた。

「面白い方だ」

その声に、初めて硬さが抜けた。

「結構。交渉を前向きに進めましょう」

ミレーユの肩から、かすかに力が抜けた。

セドリックが隣で小さく息を吐くのが聞こえた。

「ただし、条件があります」

伯爵が指を一本立てた。

「辺境公爵領の薬草取引の仲介を、ブランシャール嬢に担当していただきたい。現在の取引は量が少なく、仲介の精度も甘い。あなたの手で組み直してもらえるなら、物流提携の価値はさらに上がる」

ミレーユは即答しなかった。

セドリックを見た。

辺境公爵の名義で行われる取引の仲介を、自分が担う。それはセドリックの判断を仰ぐべき事柄だった。

セドリックが小さく頷いた。

「お引き受けいたします」

ミレーユが伯爵に向き直って答えた。

「契約書の草案を明日中にお届けします」

伯爵が椅子から立ち上がった。

「お待ちしております。──それと」

ミレーユとセドリックも立ち上がった。

伯爵の目が、二人を交互に見た。

「今日は茶を出しそびれました。契約書をお持ちいただいた際には、お出ししましょう」

それが伯爵なりの歓迎の表現であることは、その場にいた誰にも伝わった。

帰路の馬車の中。

夕暮れの光が車窓から差し込み、セドリックの横顔を照らしていた。

「ありがとうございます、ブランシャール嬢」

セドリックの声は静かだった。

ミレーユは書類を膝の上に揃えながら答えた。

「お礼は早いですよ、セドリックさま。まだ契約書を作らなければ」

「そうではなくて──」

セドリックが言いかけた。

言葉が途切れた。

ミレーユは顔を上げた。

セドリックは窓の外を見ていた。夕日に照らされた横顔が、何かを探すように揺れている。

「……いえ、なんでもありません」

小さく首を振った。

ミレーユは訊き返さなかった。

セドリックが言葉を探す時間がかかることを、知っていた。待てばいい。この人は、伝えたいことがある時には、自分の言葉で話す人だから。

馬車が揺れた。

ミレーユはふと、セドリックの呼吸が浅いことに気づいた。

伯爵領への往復の旅。交渉の場での緊張。暑さ。

セドリックの肩が、微かに上下している。息を整えようとしているのだとわかった。

ミレーユは自分の掛け物を手に取った。

夕方の風が冷え始めている。馬車の中は陽が落ちれば冷える。

掛け物をセドリックの肩にかけた。

手が、肩に触れた。

布越しではなく、指先がセドリックの肩に残った。

一瞬だった。

セドリックが目を開けた。

ミレーユの手を見た。

何も言わなかった。

目を閉じた。

ミレーユは手を引いた。

指先に、セドリックの体温が残っていた。

薄い肩だった。骨の輪郭が手のひらに触れた。

この人の身体が強くないことを、ミレーユは知っている。

知った上で、ここにいる。

馬車の中に、沈黙が満ちた。

居心地の悪くない沈黙だった。

モンフォール伯爵領の屋敷。

その夜、伯爵の執事が私信を書いていた。

王都に住む旧友宛。近況を伝える何気ない手紙の中に、今日の来客のことが記されていた。

「辺境公爵が、物流提携の交渉にお見えになりました。お連れの方はブランシャール公爵令嬢。只者ではありません。数字の精度、交渉の組み立て、伯爵を相手に一歩も引かぬ胆力。辺境公爵の代理のような立場で交渉を仕切っておられました」

封をして、翌朝の便に預けた。

手紙は、十日ほどで王都に届くだろう。

王都。王太子府の執務室。

エドワールは側近の報告を聞いていた。

「殿下。辺境に関する噂が一つ、入っております」

「辺境がどうした」

「辺境公爵の元に、ブランシャール令嬢がおられるとのことです」

エドワールの手が止まった。

ペンを握ったまま、動かなくなった。

「……兄上のところに、あいつが?」

声は低かった。

怒りではなかった。苛立ちでもなかった。

自分が捨てたものが、兄の手の中にある。

その事実が、言葉にならない衝撃として、胸の底に落ちた。

エドワールの顔から表情が消えた。

側近は何も言えず、一礼して退室した。

執務室に、エドワールだけが残った。

ペンを握る指が、白くなっていた。