軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

51.忍び足

石畳に染み込んだ潮の匂いの中、ヴァイオレットはトゥレル伯領の屋敷門をくぐった。

海風が乾いた衛兵の外套をかすめる。

門番の男は彼女をちらと見ただけで、ぞんざいに言った。

「家令のキャスパーは忙しい。急ぎの用でなければまた来な」

「お届けものです。中身を、家令ご本人の前で開封するようにとのことです」

語調は柔らかく、言葉は淡々としていた。

門番はしばらく眉を寄せていたが、やがて護衛を一人呼びつけた。

「通せ。変な動きがあったらすぐ止めろよ」

屋敷の中は冷えていた。

石造りの廊下を抜け、控えの間を過ぎ、案内されたのは書見室だった。

壁際の棚には帳簿と文書が並び、窓際に一人、痩せた中年の男が椅子に腰を下ろしていた。家令のキャスパーだろう。

ヴァイオレットは無言で封筒を差し出した。

「本人の前で開封を、とのことでした」

家令は封を切ると、黙って紙面に目を走らせた。

やがて口元がわずかに緩む。

「……なるほど。丁寧な物言いにしては、ずいぶん手荒な内容だ」

視線を封筒の中に戻しながら、楽しげに笑った。

「こんなものを送りつけてきたということは、とうとう我が家も狙われる側に回ったか。ふふ……」

ヴァイオレットは反応を示さず、一歩下がって頭を下げた。

「それでは、私はこれで」

家令は手をひらひらと振っただけだった。

護衛に導かれて屋敷を出るふりをしながら、角を曲がった廊下で立ち止まる。

護衛の背が遠のいたのを確認し、彼女は魔力を練った。

【透明化】【足音消去】

空気の中に輪郭が滲み、視線の届かない存在になる。呼吸を殺して再び屋敷の中へ戻ると、目指すは書庫の奥。

壁沿いに歩き、ひとつめの扉の錠を指先でなぞった。

鍵の形を思い浮かべ、極細のワイヤを【創造】する。差し込み、ゆっくり回すと、内部で小さな音がした。

書庫の中は静かで、湿気と紙の匂いが満ちていた。

文書が並ぶ棚の最下段、赤黒い封蝋が目に留まる。

双頭の鷲。

グレンダリング公爵家の紋章だった。

封筒の一通を慎重に抜き取り、懐に収める。

指先の汗が冷えてじっとりとしていた。

引き返そうとしたとき、扉の向こうから足音が近づいてきた。

「誰かいるのか?」

息を止めるが、裾を引っ掛けて壁際の燭台を倒してしまった。

倒れた鉄の音とともに炎が散り、棚の下に紙片が舞う。

兵士の声と気配が近づく。

彼女はすばやく窓際へ向かい、格子を外して庭に飛び降りた。

茂みの中で身を伏せ、薔薇の棘で手の甲を裂く。

痛みを感じたが、息を潜める。

足音はしばらく続いたが、やがて消えた。

港に戻ると、倉庫の裏手で男が待っていた。

壁にもたれた姿のまま目を上げる。

「……届けたのか?」

「届けたよ。読み上げたけど、動じる様子はなかった。むしろ、楽しんでいるようだった」

ヴァイオレットは懐から書簡を取り出した。

「そして屋敷にこれがあった。グレンダリング公爵家との往復書簡」

彼はそれを受け取って封蝋に目を落とすと、息を止めた。

「……グレンダリング?冗談じゃない。俺はただ、トゥレルに脅迫文を渡すように言われただけだ。そいつがどこの誰かなんて、知らなかった。まさか公爵家が関わってるなんて――」

握った紙が震える。顔から血の気が引いていく。

「とんでもない話になってきた……まずいな……」

そのときだった。

「もう遅い」

闇の中から男が現れた。

布を巻いた顔、足音のない靴、光を吸うような短剣。

ヴァイオレットは反射的に身体を動かした。

【身体強化】【敏捷強化】

男の脇にあった樽の上から酒瓶を掴む。

振り返るより早く、瓶の底を横に払う。

ガン、という重い音が刺客のこめかみに響き、男はそのまま崩れ落ちた。

静寂の中、火酒の匂いが地面に漂う。

ヴァイオレットは瓶を下ろし、呼吸を整えた。

「……生きてるわ。気絶してるだけ」

男がへたり込みながら呟く。

「……お前、何なんだよ」

「ただの使い。少なくとも、さっきまでは」

桟橋の先で誰かが待っていた。

ローワンだった。彼女に気づいて歩み寄ってくる。

「無事か」

「ええ、なんとか。あなたは?」

「証拠は取れた。帳簿があった。“赤い十字”の印がついた箱を転移陣へ送る記録が残ってた。出荷時刻と数も揃ってる」

ローワンが懐から何枚かの紙を覗かせる。こちらも盗みに成功したようだ。

ヴァイオレットは頷いた。

「こっちも同じ。グレンダリングとのやりとりを手に入れた。量や日付はあとで突合させよう」

桟橋の下で波がゆるやかに揺れている。

「これだけ揃っていれば動けるな。ギルドへ戻ろう」

「そうね。報告は一緒にしましょう」

呆然とした酔っ払いを置いて、ふたりの足音は波音にかき消された。