軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

いただきへ登る

フィリクスがよく調教された軍馬の群れを連れてきていたので、その旅は馬を次々と換え、夜をついての急行軍になった。街道に佇む馬宿や馬商と、傭兵たちの人脈が一致した結果の無茶苦茶さだった。

腐っても兵士として訓練を受けたデルマンスはともかく、貴族令嬢の嗜み程度にしか乗馬ができないアレクシアとエマはさんざんな目にあった。腕と手は固まるほど疲れ切るわお尻が痛すぎて椅子に座れないわ、挙句の果てに人に言えない部分の皮が剝けるわ。後半は、痛いと呻くことさえできなかった。

だがその甲斐あって、馬車で十日ほどかかった道のりを半分の五日で踏破できたのは僥倖である。何故ならテトラスにはとうとう寒波が襲い掛かったからだった。【大氷河】から吹き下りてくる、何もかもを凍らせる冬の嵐だ。都モルセリアの小道は氷で塞がり、アルバ河は凍り付き、カーミエールの街のあらゆる扉と雨戸が閉まる。

これにて国境地帯エルムスウェインの高地草原は、雪により他の地域から隔絶される。王族のための夏離宮と湖の街、ルスビアもまた雪の中で静まり返り、誰もが寡黙と勤勉を選ぶだろう。

対リュイス防衛線は解体された。都モルセリアへ退いたテトラス軍を追うこともなく、リュイス軍の辺境防衛隊は冬越しに入るに違いない。戦争は冬の訪れと同時に凍結され、おそらく春に再開される。――春になったとき、戦争を指揮できるリュイスの新王が立ち、貴族と議会がそれを受け入れば、の話であるが。

リュイスの都アリネスにそびえるシュトリ・オルカ寺院の鐘楼を目にしたとき、寒さ以外の理由で涙が出た。パレットネス劇場の丸天井も相変わらず堂々としている。

「やっと帰ってきましたねえ……」

感に堪えない、と言いたげにエマが呟いた。アレクシアは言葉もなく頷いた。道中、すべきことは何もなく、したいことはといえば一刻も早く国に戻ってフィルセナ前王妃と接触したいということばかり。とにかく手綱を誤らないよう馬の背中にしがみつき、前を見ることと落馬しないこと以外の頭の部分は考え事に費やしてきた。

リュイスの都アリネスを見下ろす丘の上。時刻はすでに夕暮れどきで、早くも夜の気配がそこかしこに漂っている。一夜の宿を求めたリュイス辺境の小さな村を出てから、一行は一度も馬を降りなかった。

フィリクスの背後では傭兵たちが馬の鞍を外し、馬蹄の状態や怪我がないかを確認している。いかに屈強な軍馬といえど疲れ果てた馬たちは皆、白い湯気を全身から立ち上らせ足取りも重かった。座り込んでしまう栗毛や動かなくなった黒駒も見える。

男たちの中に混じったデルマンスは、アレクシアに対するときのぎこちなさとは打って変わっていきいきと馬の世話をしている。彼にはそちらの方が水が合うようだった。

一行は総勢三十三人。フィリクスと彼を慕った傭兵たち、それからアレクシアとエマの二人である。傭兵はもっとも古参の者でフィリクスが流れの傭兵をしていた時代からの顔見知りだったり友人だったりするが、大半は彼がドレフ帝国の皇子として復帰して以来の部下である。

「アレクシア、厄介なことになった」

とフィリクスの声がかかったので振り返る。寒風対策のための毛皮の下で縮こまるしかなかった筋肉が軋んだ。

「少し二人で話せるか」

と彼が親指で雑木林を指す。アレクシアはあひるのような足取りでとぼとぼと彼に続いた。鐙に踏ん張った足の裏から脚全体と、お尻と、腰と。あと冷たい空気を吸い込みすぎて肺と肋骨が痛い。つまり全身がぎしぎし軋んでいる。

「乗馬に慣れていなかったんだな。馬車を用意できず悪かった」

「……気にしないで」

うまいこと言い返す気力もないのだった。

それでもフィリクスが見つけた岩のくぼみにもたれかかると、やや身体が楽になった。手綱を掴んだ形に固まってしまった指をアレクシアは揉み解す。

「近いうち、おそらく明後日か明々後日には議会が開催されるそうだ」

「なんですって?」

国王不在の今、議会が開催される意味はまだないはずだ。話し合うべき議題に結論が出ても、その結果を承認する王がいないのだから。

フィリクスはまあ待て、と両手を前に出してアレクシアを宥めた。

「つまり、次の王候補が見つかったということ?――出遅れたわ」

「いや、むしろちょうどいいときに戻ったのかもしれないぞ。まだ間に合う、そうだろう?」

「……王の候補が一度でも議会に選出されてしまえば、それはほとんど内定と受け取られるのよ。貴族にも平民にもね。国王や大聖女の選定は、言ってしまえば八百長で決まるのよ。議会で議題に乗せられる前に勝負はついている」

「それ以前の人脈や根回しがもの言うわけか」

「くそっ。私がいくら賄賂を包んでやったと思って……。易々と裏切って。恩知らずの貴族ども!」

フィリクスは固まり、とてもうつくしい小鳥がダミ声で歌い出したのを見たようにアレクシアを眺めた。

「なあに?」

「いや。そんな声も出せるんだな」

「……そうね」

アレクシアは自分の指の方が気になるふりをする。腹の奥にわだかまる怒りを押しやり、冷静な声で言う。

「それで? その、幸運な王候補はどこの誰かしら? 大貴族のお坊ちゃんか、御しやすい王族の庶子か、はたまた傍系の貧乏公爵の子?」

「いや。タリオン前王の正統な子だ、という」

「……フィルセナ前王妃の子でもある、と?」

「ああ。名前をセリナ。王女だそうだ。生まれたときに身体が弱かったため田舎に預けたが、父タリオンと兄マリウスの失脚を機に世に出るのだと言っている。何しろ正当な血筋だからと。フィルセナ前王妃が後見役につき、女王になるそうだ」

巡った血の熱さがアレクシアのうなじの毛を逆立てる。だが心は驚くほど落ち着いていた。女王?

「ふうん。――そのセリナちゃんとやらには、身の程を弁えてもらわなくてはならないわね」

「あんたがそのつもりなら、きっとそうなるんだろうな」

フィリクスは苦笑した。怖い怖い、と毒づく声さえ優しく、まなざしは肌がくすぐったくなるほど甘い。

――この男は私を好いているのだと、アレクシアは実感する。それは背骨が甘く震えるほどの幸福だった。身体は疲れ切っており、寒くて、そのせいだろうか細かな震えは寂しさに似ていた。ふと、このまま酔っぱらってしまえば幸せになれるだろうと思った。

自身にそれを許す彼女ではないけれど。

頭を振って妄想を振り払い、アレクシアは問う。

「そういえば、リュイスの問題に頓着していてよろしいの? あなた、お国の問題はどうなったの。弟御には会えて?」

彼の顔が悲しみに染まり、黒い目が伏せられる。

「フィリクス?」

「弟が、皇太子エリシアスが俺を追放した」

アレクシアは咄嗟に彼の手を握りしめた。大きな手はごつごつして、見掛けよりなめらかだった。岩から身を起こしたため頭がくらっとしたが、構っている暇はない。

「あなたはドレフ帝国のため、持てる力をすべて尽くしたはずだわ」

それは確信だった。アレクシアの知るフィリクスという男なら、とことん誠実に故国に仕えたはずだ。これから先起こるかもしれない、中央大陸を巻き込む戦乱を未然に防ぐため奔走したはずだ。

反逆者エミリオ・カヴィルに殺された父母、皇帝グリアリスと皇后レニノアのため。そして何より、二人の正式な息子にして皇太子、異父弟エリシアスのために。

彼が彼らを愛するがゆえに。

フィリクスの大きな左手がアレクシアの小さな両手を包み込んだ。彼の手と手の間で冷たさと強張りがとろけていく。彼女は彼の黒い目をじいっと覗き込む。

「エリシアスは帝国で最も勢力のある総督の元に身を寄せていた。俺も知っている人で、……どうだろう、信頼していたのかもしれない。だからエリシアスも、俺より彼を信じたんだろうな」

それ以上、彼は何も言わない。手の中にあるぬくもりだけが真実であるように、アレクシアには思われる。

だからただ頷いて、彼が告げてくれたことをそのまま受け止めることにした。アレクシアは努めて感情を排除した声で告げた。

「あの傭兵たちは、あなたの配下なのね? そして、行く宛がない」

「ああ。彼らは信頼できる。俺と一緒に、エリシアスの包囲網を潜り抜けた戦友だ。ここまでついてきてくれた……根無し草になるのも厭わずにね」

「わかったわ。では、ここで私があなたたちを正式に雇います」

フィリクスはふっと苦笑した。精悍な美貌に宵闇が迫り、浅黒い肌に最後の太陽が差した名残りがきらめく。少し伸びた黒髪の間から覗く目が細められる。

「ありがたい。実のところ困っていた。次の行く先がなかったし、おそらく弟は俺を消そうとしてくるだろうから」

「構わないわ。私もテトラスの人たちには嫌われてしまったから、似たような状況だと思うもの。――私の目的、覚えてる?」

「ああ。女王になるんだろ」

雑木林に風が吹いた。ひどく冷たく乾燥した風だった。

アレクシアの土色の髪は寒風のせいでずいぶん痛んでいたけれど、それでもふわふわと揺れフィリクスの腕を掠める。

「あんたのためなら国獲りも手伝うよ。……本当は、もうずっと遠くまで行くつもりだったんだが。あの変な夢の中にあんたがいたから、気づいたら会いに行っていたんだ」

「あなたがいてくれたら心強いわ」

アレクシアはしんみりと言う。本心からの言葉だった。

「議会が王を決めてしまう前に、乱入してでも玉座を横から搔っ攫います。あなたたちの武力に頼らせてもらうわ」

「ああ。俺たちを使うといい、アレクシア」

フィリクスは微笑み、土色の髪を一房手に取って口づける。そこに火が灯ってみぞおちに飛び火して、そのまま全身に燃え広がったかと思うほどに熱いキスだった。

それが誓いの代わりであることなど、言葉にしないでもわかった。