作品タイトル不明
18
「おばあさま! 見て蝶々だわ」
侍女を伴い庭に出れば、孫娘は早々に駆けだした。危ない、と声をかける間もなく空の方を指差す小さな手に首を傾ぐ。季節は、秋。蝶々が舞うには少し肌寒い。
けれども確かに、紫の蝶が飛んでいる。「不思議な色だわ……」思わず呟いた声を、隣に並んで歩く侍女が耳聡く聞き取った。この辺りでは見たことがない蝶だと言って、あとで図鑑を見てみましょうと提案してくれる。それに頷きながら、彼女から花束を受け取った。
事前に準備していたものである。
跳ねるように前を歩く孫娘に、三十分したら部屋へ戻るように伝えて、侍女には時間を厳守するように言い置く。
「おばあさま! 一人でいらっしゃるの?」
そのまま別れるつもりであったが、慌てた様子の幼子が戻ってきた。飛びつくような勢いで抱き着いてくる。その小さな頭頂部を撫でようとして、花束に邪魔された。
残念そうに「私も行きたい」と見上げてくる双眸は潤んでいる。
「なりませんよ、お嬢様」
あまりにも愛しい存在であるからこそ返事に困っていると、代わりに答えてくれたのが侍女だった。
言われた本人は、唇を尖らせて不服そうにはしていたものの、元々聞き分けの良い 性質(たち) である。「今度一緒にお散歩しましょうね」と代替案を述べてから、庭の散策に戻って行った。
二人の背中が小さくなるのを見送ってから、一人で歩みを進める。
庭師が丹念に手入れしているから、いくら枯れ葉が舞っても行く手を阻むほどには積もっていない。さくさくと踵を鳴らして土を踏む感覚が心地よい。
近頃は杖を手放せなかったが、医師の助言にならって歩行練習をしたところ小一時間であれば何とか支えがなくても歩けるようになった。
それでも。
昔は馬にも乗れていたのに、と気が滅入る。
もはや何十年も前のことではあるが、健康で快活だったこともある。その頃を懐かしく思い、自身と同じように年を重ねてきたご婦人方と話をすれば、若い頃は何でも成し遂げられるような気持ちだったと語る。
同意を示しながら、だというのに、この手から零れ落ちたもののことを考えた。
何でも成し遂げられたはずなのに、何も成し遂げられなかった。
あの頃の自分はきっと傲慢だったのだろう。健勝な肉体が、脆弱な精神を支えて、成し遂げられるはずもないことを で(・) き(・) る(・) と信じていたのだから。
だからだろうか。年を重ねれば色んなことがもっとうまくいくと思っていたのに。
結局、何も変わらなかったような気がする。
とうとうこの年まで、気の置ける友人もできなかった。親しくなれそうな人は確かに居たのだけれど、いつだって彼女、―――――イリアのことが頭を掠めて。相手の領域に踏み込むことができなかったし、自分自身も心を開くことができなかった。
代わりに、常に私のことを気遣い、支えてくれたのが夫である。彼は異性であるが、生涯の友人でもあった。何でも相談できるし、彼にだって隠し事はないと信じている。
けれど、そんな彼でもここには来れない。
と、いうより。ここには来ないでほしいとお願いしてある。
「……イリア、様……」
我が家の裏庭の奥。隣接した森の中に、彼女の墓標をたてた。ここも我が家の敷地である。
かつては伯爵家の令嬢であり、侯爵家に嫁いだ身の上であるにも関わらず、墓をたてることを許されなかった人だ。だから、墓石に名前を刻むことはできなかった。
ここにイリアの墓があることを知っているのは、私とエイヴァン、我が家の家令だけ。
娘とその伴侶、孫娘、侍女を含めた他の使用人はここに近づくことはできない。私が、許さないから。
低い墓石に落ちた枯れ葉を手で払う。つるりとした感触にいつも、胸が迫る。こんな場所にしか、彼女を弔うことができなかった。といってもそもそも、この土の下に彼女の遺体が眠っているわけではないが。
公的に処刑が執行されたことになっている彼女の遺体は、親類縁者のいない人物として焼却されたと聞く。
それが正式な手順なのかは知らないが、一般的にも極刑に処された罪人が家族の下へ帰ることはないようだ。だからこれは仕方ないことなのだと、何百回、何千回と言い聞かせる。
「申し訳ありません、こんなところに」
ここは寒いでしょう、と口にしたつもりだったが、声が掠れて言葉にはならなかった。
ここに彼女の骨があるわけではないが、だけれども、語り掛ければ声は届くのではないかと思う。なぜならここには、彼女の一部、―――――数本の髪の毛が埋まっているからだ。
我が家にある日、差出人の書かれていない封書が届き、そこに数本の髪だけが同封されていたのだ。他には何も入っていなかったけれど、恐らくアルフレッドだろうことは察しがついた。
彼が、異国へ渡ったというのが真実ならば、その際に形見分けということで私に送ってくれたのだろう。
教会に持っていってしかるべき形で追悼してもらうことも考えたが、どうせ誰と知れない墓に納められてしまうのであれば、我が家の敷地に眠ってもらおうと考えたのだ。
私が勝手に決めた。
エイヴァンは全て見ていたが、何も言わず見守ってくれたのである。
「イリア様はどのようなお花がお好きですか?」
何年、何十年経過したとて、答えが返ってくることはない。だから、なるべく色とりどりの花を揃えるようにしている。その中にせめて一本くらいは彼女の好きな花があることを願って。
墓石の前に花を置くと、ふと指先に白い花びらが落ちてきた。
触れる前に消えてしまい、それが花ではなく雪であることに気づく。秋とはいえ、雪が降るにはまだ早い。
蝶々や、雪や、季節外れのものばかり目にして何とも言えない気持ちになる。一体、何なのだろうと空を見上げれば、さっきまで青空だったのにいつの間にか温度のない雲が現れて、太陽を覆い隠していた。
吹きすさぶ風にいっそう寒気がして身震いすると、今度は結晶の形が見えるほどの大雪が降ってくる。
「……何てこと、」
視界を白く染めるほどの雪に慄き、座り込んでしまった。
顔を濡らすそれから逃れるために右手で顔を覆うと、
「―――――誰のお墓?」
聞きなれない声に問われる。答えようとして、はっと口を噤む。
ここには私以外近づくことがないのに。一体、誰?
相変わらず振り続ける雪を避けるように顔を上げて、すぐ傍に、黒いローブを纏った男性が立っていることに気づく。フードを目深に被っているので、顔は見えない。咄嗟に、侵入者だと思い距離を取ろうとして失敗した。足がうまく動かずに転んでしまったのだ。
「大丈夫?」
地面についた手を優しく取られて、その指がひんやりとしていて体温を持たないことに恐怖を覚えた。
「……だ、誰?」
引き起こされて対峙する。やっと絞り出した声を、落ちて来る雪が吸収してしまったように感じた。
それでもその人には聞こえていたようで「カラス」と短い返事がくる。
それが名前らしいことは分かったけれど、私の知りたいことには答えていない。名前ではなく、どこの誰なのか家名や、誰の手引きによってここに入ったのかなどの詳細が知りたかったのだ。けれど、フードを下ろして対峙した黒髪の少年は何も答えずに、今度は墓標に手を伸ばす。
「―――――触らないで!!」
自分でも驚くほどの大きな声で制すれば、呼応するかのように頭上から落ちて来る雪も勢いを増した。
おかしい。これではまるで真冬のようだ。しかし、真冬であってもこの地にはこれほどの雪が降ることなどほとんどない。黒い双眸がこちらを見やる。
「……名前がない。誰の、お墓?」
機械人形のように温度のない顔、無機質な声が先ほどと同じ質問を繰り返す。お人形の顔をそのまま貼り付けたかのような奇妙さがあるのに、口元が歪んだのを見て、なぜか泣きそうだと思った。
「貴方、誰なの? どうやってここに入ったの? 誰の許可を得てここに……、」
「教えて、お願い。……ここは、誰のお墓なの……?」
請われるような眼差しにこのままだと埒が明かないと思ったので「イリア様のよ」と端的に答える。どうせ知らないのだからと、半ば投げやりに言ったのに。その人は大きく目を瞠り、心臓の辺りに拳を当てた。
まるで、痛みに耐えるかのように。
「……イリアの? 本当? いつ、」
知らないくせに、知っているかのような口ぶりだ。まさか知っているはずはない。だって、彼女は何十年も前に死んでいて、目の前にいる彼はどう見ても二十歳そこそこだ。つまり、この少年が生まれたときにはもうイリアはこの世に存在していない。だから、知っているはずがないのだ。
「貴方が生まれるよりもずっと前よ」
「……僕が、生まれるずっと、前」
それっていつ? ここは一体どこなの、僕は一体、いつの時代に……、
明らかに混乱している様子のカラスと名乗った少年は、不意に膝をつき縋るように墓石に触れた。指先で何度も表面をなぞり、本来なら名前が刻まれている辺りを擦っている。そうしていればいつか、名前が浮かび上がるとでも思い込んでいるかのように。
「何で、―――――何で?!」
降りしきっていたはずの雪は止み、今度は頭上で雷鳴が唸る。視界を裂くほどの光が走ったのに、地面に映る影は一人分だった。何か、おかしい。
「ねぇ、君は一体誰?」今度はこちらに向かって掴みかかるような仕草をしたので、咄嗟に構えたのだけれど、カラスは近づかなかった。宙を掻いて彷徨った右手を取り戻し、
「いや、違う。そんなことはどうでもいい。君が誰だって、何だって、…だって、だって、」
―――――僕はまた、間に合わなかった。
両手を地面について、顔を伏せる。大きく震える背中。はっきりと泣いていると分かった。
なぜ? イリアのことを知りもしないのに。手を伸ばそうとして躊躇う。
だって、なぜ、知っているの? 間に合わなかったと。
「どうして……? どうすればいいの? 何で、何で君はもういないの? イリア」
ぽつぽつと降ってきた雨が足元を濡らしていく。雑草の生い茂る地面を穿つように、濡れた傍から土を黒く染めていく。
「ねぇ、どうして? まだ僕のこと怒ってる? ごめんね、今度はちゃんと君の話を聞くから。だから、許して。いや、違う。許さなくていい。許さなくていいから。お願い、死んだりしないで、」
ひくりと嗚咽を漏らした少年の姿に、過去の自分が甦る。
監獄まで駆けた馬の上で、ただひたすらに彼女の無事を祈っていた。救い出せると信じて、助けられると自負して、一緒に牢獄を抜け出すのだと誓って。
「お願いだ、イリア。死なないで、」
「―――――生きていて」
そうだ。願っていた。
『どうか、生きていて』
「また、だ。また、独りで逝かせた。独りぼっちで死なせてしまった。……僕のせい、で。僕が、イリアを、あんな風に、」
『私のせい! 私が、イリアを死なせた!』頭の中で、かつての自分が叫んでいる。
「……ごめんなさい、イリア……っ、助けられると思ってたの!」
「……、」
私の声に反応してこちらに顔を向けた少年の幼い顔はぐっしょりと濡れている。それが雨のせいなのか、涙なのかは判別できなかった。人形めいているのに。その顔にはまざまざと絶望が浮かんでいる。
「助けるつもりだった。独りで死なせたりせず、一緒に、一緒に逃げ出すつもりだったの……! 見捨てたわけじゃないっ、皆、そう……! 助けようとしたわ! だけど、……だけど、」
間に合わなかった。
間に合わなかったのだ。
間に合わなければ、何の意味もない。
「ごめんなさい、イリア……!」
「私、貴女を……、助けられなかった……!!」
絶叫が、再び激しく振り出した雨音にかき消される。顔を濡らす雨粒を払うために掲げた両手はしわくちゃで、過ぎ去った年月のことを容赦なく突きつけられる。だというのに、今まさに牢獄の中に囚われているような感覚に陥った。足元に血塗れの彼女が横たわっていて、光を失った双眸が私を見ているような気がしたのだ。そんな彼女に弁明する。あんな場所で、あんな風に、独りで死なせるつもりじゃなかったと。
現実でも夢の中でも、死した彼女を前にしてただの一言も口にできなかったのに。
どうして今になって、知りもしない人の前で懺悔してしまうのか。
イリアには聞こえていない。彼女はもう、いないというのに。
「……助けようとしたの?」
問われて頷く。「君も、 そ(・) う(・) なの?」
何が「そう」なのか分からない。だから、膝をついたまま茫然とこちらに顔を向ける少年を、ただ見つめ返す。黙ったまま向かい合う二人の間を雷光が通り抜けていった。その間にも、ざあざあとうるさいほどの音で世界が雨水に沈んでいく。
おもむろに立ち上がった彼はふらふらと近づいてきて、私の両頬をその手で包み込んだ。
闇をそのままはめ込んだみたいな黒い双眸に呑み込まれるようだった。そんな私のことなんかおかまいなしに「君は、」と小さく呟くカラス。
地面が震えるほどの轟音にたたらを踏めば、一歩後退したその人の足元が金色に輝きだす。
「―――――待って……!」
なぜか、彼が去ってしまうことが分かった。
巻き起こった突風に体ごと攫われそうになった刹那、
「 今(・) 度(・) は、その長い人生で一度くらい、友人のために尽くしてみて。お願いだから」
歪な笑みを浮かべてカラスは言った。どうせ叶うはずはないと、吐き捨てるように。
「―――――力を尽くすわ!! 絶対に、間違ったりしない」
もしも、本当に今度があるのなら。もしも、人生をやり直すことができるなら。
彼女の力になれるように尽くすと誓う。
なのに。
「誓ったって意味がない。だって、どうせ誰も覚えていない。いつも、そうだから。どの世界に行っても、誰も僕を覚えていないし、彼女だって、全部忘れているんだ。だから意味なんてない。君だってそう。君がいくら、今、そう思ったって。願いは叶わない」
ローブの裾が翻る。彼を包み込むように金色の光が走った。地面に大きな円が広がり、そこに何か分からない呪文のようなものが刻まれていることに気づく。古に失われたとされる「魔法陣」というやつだ。
「だけど」
「だから」
待って! 行かないで! 叫び続けるけれど、老いた声帯では届かない。
光の本流の向こう側。その人は確かに、言った。
「期待せずに待ってるよ、―――――マリアンヌ」
もしもその時がきたら手伝って。君にも分かるように合図を送るから。