軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

17

それから。

どうやって屋敷に戻ったのか覚えていない。ただ、いつの間にか湯あみを終えた私は、自室のベッドで横になっていて。赤ん坊のように丸くなり、そして、泣いていた。

侍女が何度か顔を拭いてくれたけれど、あまり意味がない。拭った先から涙が零れ落ちて止まらないのだ。と、同時に、がたがたと震える身体は極寒の地に置き去りにされたのかと思えるほどで、歯の根も合わない。

縮こまるようにして胸の前で両手を握りしめる。祈る相手もいないのに、祈らずにはいられなかった。

死なないで。

イリアはもう息絶えていた。知っているはずなのに、それでも思う。死なないで、生きていてと。

何度も繰り返し、叶うはずもない祈りを捧げて、その度に彼女はもう死んだのだと言い聞かせる。

牢獄からの帰り道もそうだったし、屋敷に戻ってさえもそうだった。

アルフレッドやフランツといつ別れたのかも、そのときちゃんと挨拶を交わしたのかも何も覚えていない。

後から聞いたところによれば、どうやらフランツが送り届けてくれたようだった。アルフレッドの行方は知らされなかった。ヨハンや四人目の騎士のことも。

分かっているのは、彼らとはもう二度と会うことがないということ。

「……マリアンヌ。せめて飲み物くらい飲んでくれないかな。そのままじゃ干からびてしまうよ」

一昼夜泣き続けた私に声をかけてくれたのは、仕事から戻ったエイヴァンだった。外出着のままベッドに乗り上げ、私の顔を覗き込む夫は「やはり何を置いても君の傍に居るべきだった」と、過ぎ去ってしまった時間についての後悔を語る。まるで あ(・) の(・) 光景を目の当たりにしたかのように蒼褪めていた。

助けを求めるように手を伸ばせば、握り返してくれる。その温もりにまた涙が落ちた。どうあがいても、悲しみを抑えることができない。

「さぁ、飲んで」

メイドがベッドサイドテーブルに果実水を運んできてくれたようで、爽やかな臭いが鼻を掠める。

だけど、牢獄の酷い臭いが今もまだ顔周りに纏わりついているようで。

触発されるようにして、イリアの最期の姿を思い出し、その場で嘔吐してしまった。

何も食べていないので、出てくるのは胃液ばかり。苦しい。その内、吐き出せるものもなくなって。吐きたいのに、吐けない状態になる。胃が痙攣しているようで、息がうまく吸えない。

何度も 嘔吐(えづ) いて、それでも出てくるものはなかった。

汚れるのも厭わず、エイヴァンが包み込むようにして背中を擦ってくれる。その腕が、これほどに心強いと思ったことはない。

そして、思うのだ。

私にはいつだって、抱きしめてくれる腕があった。父であり、母であり、あるいはエイヴァンであり。

イリアは?

「……助けようと、……助けようとっ、したの、です……!」

見捨てたわけじゃない。四人の騎士と、自分。あの場にはいなかったけれどエイヴァン、そして父、シンシアやヴィルヘイムも協力してくれた。

なのに彼女は、あんな場所で、あんな風に、たった一人きりで死んでしまった。

「知ってるよ。マリアンヌ。君は最善を尽くした。あれ以上にやりようはない。……残念なことだけれど」

強く抱きしめてくれる夫の腕の中で思う。

―――――貴方は、あの光景を見ていない。

いくら、私のことを慮ってくれても、一緒に監獄へ行った気になっているとしても。あの地獄を見れば、到底、最善を尽くしたとは言い難い。だって、血は乾いていなかった。あと一時間でも、二時間でも早く到着していれば違った結末があったはず。監獄へ侵入するのは深夜ではなく、もう少し早い時間でも良かったのではないか。で、あるなら騎士たちとの待ち合わせは夕刻でも良かった。

いや、それよりも。

私が父へ助力を乞うのがあと一日でも早ければ? もしくは、アルフレッドが我が家に来るのが、もっともっと早ければ。

何よりも。街頭でイリアが捕縛されたことを知ったときにすぐ、私が、動き出していれば。

救えた命だったのでは?

「私の、せいっ、」

「マリアンヌ」

「私のせいだわ、」

「マリアンヌ」

「私には彼女を、助けることが、できた、」

「……マリアンヌ!!」

耳元で響いた大声は、エイヴァンから発せられたものとは思えないほどの怒りを滲ませていた。これまでに一度も聞いたことがない類の声色だ。

「違うよ、マリアンヌ。いくら君でもできないことはある。一人の命を救うのにはそれだけ多くのものが必要だということだ。君だけが足りなかったわけじゃない。……全員、足りなかった。ほんの一瞬の躊躇いが、彼女を追い詰めたんだ」

ならば、ただの一瞬も迷わなければ彼女を救えたというのか。堂々巡りの自問自答に視界はますます歪んで、支離滅裂の言葉も零れて止まらない。身を裂くほどの悲しみに心臓は張り裂けそう。

―――――牢屋で、私は彼女に、触れられなかった。

怖くて、触れられなかったのだ。凄惨な死を前にして、怯んだ。彼女に別れを告げる猶予を与えられたはずなのに。手を伸ばすどころか、指先すら動かず立ち竦んでいた。

そんな自分に、幾度目かの失望を覚える。

「マリアンヌ。これは君の罪じゃない」

夫はそう言ってくれたものの。どうしてこれが、私のせいじゃないと言えるのか。今すぐにでも涙を止めて、彼女の汚名を濯ぎ、雪辱を果たすべく立ち上がるべきなのに。どうすれば彼女を救えたのかという、意味のない仮定を頭の中で組み立てる。幾通りもの救出方法を思い描き、だけど、どんなことをしてももう彼女は死んだという事実を突きつけられるだけ。

「誰にも彼女を救うことはできなかったんだ」

現実にしてはあまりに残酷な事実。

「マリアンヌ。水分を取ったら、今度は食事だ。お願いだから、自分を大事にして」

目を閉じれば暗闇が訪れて、見たくない景色は隠してくれる。

夫の懇願にも答えず、再びベッドの住人と化す。

そんな風に何日もふさぎ込んで。

悲しみに暮れる私を見かねたエイヴァンが、とうとう私の生家に連絡を入れたのは一週間後だった。

時を待たずして現れたのはシンシアである。

「マリアンヌ様、散歩に出ませんか?」

ずっと閉じたままにしていたカーテンを開いたのは彼女だった。控え目に、だけれども遠慮せずなされた提案に顔を上げれば、半ば強引に上半身を起こされる。侍女ではなかなか実行するのが難しいほどの思い切りの良さだった。エイヴァンもこれを見越していたのだろう。

ぼんやりとしている間に着替えまで完了し、参りましょう、と腕を引かれて部屋を出る。

廊下を歩く間もずっとシンシアは私の手を握り、言葉数少なく、ただ寄り添ってくれた。

まさに母親のような寛大さである。また一つ涙が零れた。

伯爵家の女主人として仕事が山積しているだろうに、私のために時間を費やしても惜しまない。なぜ、ここまでしてくれるのかと問えば、

「マリアンヌ様が私にしてくださったことをやっているまでですわ」と微笑した。

父を説得するために実家へ赴いたときも同じようなことを言っていた。私に恩があると。けれど、私は特に彼女たちのために何かしたわけではない。

自分のために、自分がしたいことを選んだ。

「マリアンヌ様」

「はい、」

「私にはかつて、心の底から愛した人がおりました。もう、亡くしてしまいましたけれど。……あの方を失ったことは、本当に辛く苦しいことで、立ち直ることなどできようはずがないと思いました。けれど、気づいたので。失くしてしまったこと以上に、出会ったことによって与えられたもののほうが大きいと」

苦しみや悲しみを凌駕するほどの喜びを、出会ったとき、既に与えられていたのだと続ける。

「貴女様にもいつか、お分かりになりますわ」そう言って穏やかに目を細める。

それから実に、ひと月もの間、我が家へ通い詰めてくれたのだった。

そうしているうちに、ゆっくりとではあったが自発的にベッドから出られる日が多くなり、食事量も増していった。やがて、もう大丈夫だと判断したらしいシンシアも顔を見せなくなって。

僅かばかりに気力を戻した私は、拭えない疲労感はそのままにイリアの死の真相を追及すべく一人で書庫に籠った。

これまでに集めた情報を紙にまとめ、同時に公的に開示されている彼女に関する資料を読み漁る。ここに運び入れてくれたのはシンシアだ。彼女を通じて父に頼み込んだのである。当然、良い顔をしなかったようだが、公開資料ならばいつかは目にすることもあるだろうと、渋々用意してくれたらしい。

けれど。

どれだけ時間をかけて読み込んでも、これまでに分かっている事実を覆せるような材料はなく。新しい情報は何も得られなかった。まとめた資料から推察できるのはやはり、イリアは仕組まれた罠にかかり冤罪によって断罪されたということだけだ。ただそれも、私がイリアを信じているからこそ導き出される答えであって。この資料 だ(・) け(・) を事実とするならそれは、彼女はれっきとした悪人であった。

だとすれば。

何とかアルフレッドに連絡を取ることはできないだろうか。

彼なら私の知りえない情報を入手しているはず。

我が家の護衛に声をかけてみようか。騎士同士であれば、もしかしたら何等かの連絡手段を持ち合わせているかもしれない。

慧眼であるかのように。意気揚々と部屋から出ようとしたそのとき。外側から勢いよく開いた扉に後ずさりする。現れたのはエイヴァンだ。その彼に、再び部屋の中に押し込められた。

目と鼻の先に迫る、苦渋に満ちた顔。双眸が赤く染まっている。

戸惑っていると、君は一体何をしているのかと震える声で問われた。

椅子に座るように促されてよくよく夫の様子を窺うと、そのただならぬ雰囲気に息を呑む。立ったまま私を見下ろすその姿に、抑えきれぬ怒りが滲むのを肌で感じて、動揺が走った。

彼はいつだって私の味方だったから。

そら恐ろしいものを感じ取りながら、それでも誤魔化さず、素直に問われたことに答える。

イリアの死についての真相を探っていると。

すると。

「いい加減にするんだ!!」と天井が落ちてきそうなほどの怒声が降ってきた。

反射的にびくり、と身を竦ませる。いつもなら、ただちに「驚かせてごめん」と言ってくれるだろうに、エイヴァンは険しい表情を崩さない。

「君はこの数日、自分の娘に何が起きていたか知っているかい?」

「……え?」

思わぬことを訊かれて、返事に詰まる。―――――娘? 咄嗟に立ち上がろうとして肩を押された。

「高熱で、……ずっと苦しんでたんだよ」

「何てこと!」再び立ち上がろうとするも、やはり体を抑えつけられてうまくいかない。「もう、大丈夫だから」と、夫は身を屈めて私を抱きしめた。

「でも、……あの子は死ぬところだった」

先ほどまでの怒りが嘘のように、今度は弱々しく消え入るような声で明かされた真実に。頭を殴られたような思いがした。ひゅっと息を吸った音が響く。「今回のことだけじゃない。君はずっとイリア様のことに一生懸命で。僕や、……娘のことはお構いなし」

あの子は、熱に浮かされている間、君を呼んでいたんだよ。

そう言われて、今すぐにでも娘を抱きしめたい衝動に駆られる。けれど、きつく拘束された身体では椅子から降りることすらままならなかった。

「君が、イリア様の死の真相を知りたいと思うのは分かる。君にとってイリア夫人がどれほど大切なのかも知っている。……だけど、彼女はもういない」

「!」

「そう。死んだんだ。今更、どうあがいたって戻ってはこない。なのにまだ、囚われ続けるの?」

「、」

「それで。その間、僕たちはどうすればいい? 君なしでは生きていけない僕やあの子は、」

「……エイヴァン、」

「君には、僕のことが見えてる?」

君は僕を、愛してる?

人よりも幼く見える外見のせいで苦労した夫は、言動まで幼く見えることを気にして。いっそ大袈裟なほどに泰然とした振る舞いをするよう心掛けてきた。私と話すときよりも少し低く抑えた声。身振り手振りは最小限に、老齢の紳士であるかのように、人によっては不躾と捉えられるような物言いをしてきた。

その彼が、はっきりと悲哀を滲ませた涙声で問うてくる。

「……貴方のことは、……とても、大切に想っています」

「うん。知っているよ。君は優しいから。僕のことを無碍に扱ったりはしないんだって」

「エイヴァン、」

「僕は君を愛しているんだ。だから。これまでずっと、僕がただ、君を愛せばいいと思ってきた。でも、時々、とても空しい」

「……っ、」

「僕はね、幼い頃からずっと、君に愛される努力をしてきたんだ。……知らないでしょ?」

だって君は僕に興味がなかったから、と彼が私の肩に顔を埋める。

「マリアンヌが今、僕を愛していないことくらい知ってるよ。だから、だけど、だったら、……努力して。僕を愛せるように努力してよ……!」

僕や自分の娘のことを、ちゃんと見て。と乞われて、自分がこれまでどれほどエイヴァンを傷つけてきたのか痛切に思い知らされる。

緩んだ両腕の中で、自身も手を伸ばす。抱き返せば、その体が震えていることに気づいた。

視界の端に、これまでに集めたイリアに関する資料が山積みとなっているのが見える。手を伸ばせば届く距離にあった。後でもう一度読み返そうと思っていたものだ。

けれど、私がすべきことは、もうない。

―――――と、言い聞かせる。

そういえば、最近娘を抱きしめたのはいつだろう。世界で一番大事なはずの存在を忘れていたことにぞっとする。そうだ。私には愛すべき存在が居て、私も確かに愛されている。

幸せだ。

そのはずで、そうでなくちゃならない。私が望んだものは全てここにあり、他には何も望んでいない。恵まれていると知っている。だからこそ。

なぜ、イリアは。

イリア だ(・) け(・) が、私の前から消えてしまったのだろう。

それは私が、彼女に向き合わなかったから。

「私、エイヴァンを愛すると誓いますわ」

「マリアンヌ……?」

「これから先、どんなことがあっても貴方を愛すると、誓います」

瞼が熱い。頬を滑り落ちる涙を止めるために、両目を強く閉じる。

もう何も失いたくない。

だったら私は、向き合わなければ。

エイヴァンと娘のためだけに生きていかなければ。

**

***

「―――――おばあさま。お加減はいかがですか?」

「……ええ、とても良いわ」

窓辺に置いた揺り椅子でうたた寝していると、孫娘が声をかけて来る。丸い頬に長い睫毛。きらきらと輝く眼差しが娘によく似ている。もうすぐ五つの誕生日を迎える利発な子だ。

「貴女、こんなところに来て大丈夫なの? お勉強は?」

「大丈夫です。呑み込みが早いと家庭教師からも太鼓判を押されています! それに、お母様からおばあさまの様子を見て来るように言われているんです」

「まぁ、ふふ。心配してくれなくても大丈夫だって言ってくれるかしら」

「お母様だけではありません。おじいさまも心配なさっています」

「エイヴァンが? さっき顔を合わせたばかりなのに」

「おじいさまはただ、おばあさまのことが気がかりなんですわ。ここ数日、元気がないと仰って」

「そう……、」

きっと三日前に見た夢のせいだ。

ずっと昔の出来事だというのに、今でも鮮明に思い出すことができる過去の一場面が。夢に現れては私を苛む。毎日、毎晩、思い出さない日はない。

目を閉じると、途端にそこは血の海である。立ち竦む自身の目が捉えているのは、屍となった大切な人。

叫び声をあげながら、それでも手を伸ばすのに、指先は宙を掻いて決して触れられない。

夢の中の私は、微動だにできずただ彼女の死を眺めていた現実の私よりも、ほんの少しだけ勇ましい。

だというのに。

夢の中ですら彼女に触れることはできないし、声も掛けられない。

これまでも、これからも。

「今日はこの後、庭を散歩しようと思っているの。だから大丈夫よ。貴女も自分の部屋へお戻りなさい。他にもやることがあるのではないの?」

「もう済ませてあります。ですから、私もおばあさまと一緒にお庭に参りますわ」

「まぁ。それは有難いわね」

膝に置いていた編みかけのショールをテーブルに置く。ゆっくりと立ち上がったのに、なぜかふらついてしまう。侍女が支えてくれたので転ぶことはなかったけれど。すっかり足腰が弱くなってしまった。

最近とみに肉体の衰えを感じる。未だに心身ともに健康で乗馬に狩りにと余暇を楽しんでいるエイヴァンによれば、とにかく美味しいものを食べて、好きなことをするのが長生きの秘訣であるらしい。

にわかには信じがたいが、その内このどこからくるか分からない疲労感にも慣れるのだろうか。

「そういえばおばあさまはご存じ? 来週、隣国の新国王がこちらにお見えになるのですって」

「まぁ、そうなの。女王陛下だったわね。あちらの国も長年、内乱が続いていたけれど。大きく政局が変わったのね……、」

「とてもお若い方らしいですわ」

孫娘との他愛無い会話を続けながら。

昔のことを思い返していた。

イリアは明らかに何者かによって殺害されていたのに。あの後、街頭にはイリアの処刑が執行されたという知らせが貼り出された。みすみす何者かを牢獄に侵入させ、囚人が殺害されたという事実を隠蔽するためと思われる。

けれどもその頃には市井の関心も薄れていて、壁に貼られた号外の前で立ち止る人間も少なかった。あれほどに世間を賑わせた事件だというのに。こんなにもあっさりと忘れ去られてしまう出来事だったのだ。

その一方で。

彼女に直接関わった人間たちの行く末には大きく影を落とした。

ソレイルが、ノルティス侯爵家から出奔したと聞いたのはイリアが亡くなってから二年後のことである。

それよりも前に、市井の娼館でどうやら騒ぎを起こしたらしいのだ詳細は知らない。興味も持てなかったから聞き流した。そのことがあったからなのか、侯爵家からはとうの昔に見限られていたようだ。

跡取りを失った侯爵家は、親戚から養子を迎えたものの国王陛下の代替わりも重なり、没落の一途を辿った。イリアの生家も同じようなものだった。

一番気になっていたのはアルフレッドだが。彼はどうやらこの国を出て、単身隣国へ渡ったらしい。

その後の行方は誰も知らない。だが、革命軍の中に彼に似た人物がいたという話を聞いたことがある。

なぜ他国の戦争に身を投じるのか。あまりに不可思議なことだ。自暴自棄になっていたとも言えなくないが、彼が革命軍に居たことを立証する術はなく、根拠にも乏しい。きっと、他人の空似だったのだろう。

我が家だけが何も変わらず。むしろ、エイヴァンの事業は大成功を納め、今では王族との親交もある。