軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話 姫君はつつがないか

藤乃姫が料理を作るようになってから、柴田の屋敷は少しだけ変わった。

とはいえ、大きく何かが変わったわけではない。

朝になれば男たちは鍛錬をし、女たちは奥向きを整え、八右衛門は帳面を見て胃を押さえ、勝家は必要最低限の言葉で必要以上の厄介事を運んでくる。

いつも通りである。

けれど、夕餉の膳に一品、見慣れぬ料理が加わるようになった。

その一品を見た時、義銀はわずかに目元を和らげる。

千若丸は、分かりやすく顔を明るくする。

藤乃姫は、それを見てようやく少しだけ安心したように息を吐く。

於光は、その様子を見るたびに思った。

あの姫君は、料理が好きなのではない。

食べさせることで、ようやく息ができる人なのだ。

「姫君は、つつがないか」

その日の夕刻、勝家がそう尋ねてきた。

於光は思わず笑いそうになった。

若君方は、ではない。

斯波の方々は、でもない。

姫君は。

なるほど。

弟の気に掛かる先は、どうやら藤乃姫らしい。

「藤乃姫も、若君方も、つつがなくお過ごしですよ」

於光は、あえて順番を入れ替えて答えた。

勝家は少しだけ眉を動かす。

けれど、何も言わない。

昔からそうだ。

勝家は、言葉が足りない。

表情も足りない。

しかし、気に掛けているものは分かりやすい。

於光は、帳面を閉じながら言った。

「藤乃姫は、一日一品だけ料理をなさっています。こちらが条件をつけましたので、無理はなさいません」

「そうか」

「掃除をしようとして女中に止められ、皿を洗おうとして炊事場の者に泣きつかれ、今はようやく料理一品で落ち着かれました」

勝家は黙った。

眉間に、ほんの少しだけ皺が寄る。

「……働かせすぎではないか」

「働かせなさすぎたので、倒れそうになっておられました」

「何故だ」

「何かしていないと、落ち着かないのでしょう」

於光は静かに答えた。

「今まで、ずっとそうして生きてこられたのだと思います」

勝家は、何も言わなかった。

その沈黙には、怒りに似たものが混ざっていた。

けれど、その怒りの向け先は藤乃ではない。

藤乃をそのように生きさせたものへ向いている。

於光には、それが分かった。

勝家は武骨な男だ。

言葉は少ない。

けれど、一度守ると決めたものを雑に扱う男ではない。

だからこそ、於光は話を続けた。

「若君方は、朝にあなたと鍛錬をなさっているそうですね」

「ああ」

「義銀様はどうです?」

「筋は悪くない」

勝家は短く言った。

それは、勝家にしてはかなり褒めている。

於光は少し笑った。

「千若丸様は?」

「まだ幼い。だが、兄をよく見ておる」

「そうでしょうね」

千若丸は、義銀をよく見ている。

義銀が背筋を伸ばせば、千若丸も背筋を伸ばす。

義銀が食べれば、千若丸も食べる。

義銀が我慢すれば、千若丸も我慢しようとする。

だから、於光はまず義銀を食べさせた。

『義銀様が召し上がらねば、千若丸様が真似をなさいます』

そう言えば、義銀は黙って膳に向かった。

賢い子だ。

賢く、そして痛々しい子だと思った。

「八右衛門殿は、若君方に読み書きと計算を見ております」

於光がそう言うと、勝家は少し顔を上げた。

「どうだ」

「八右衛門殿が驚いておりました」

「八右衛門が?」

「ええ」

そこへ、噂の八右衛門が部屋に入ってきた。

手には帳面を持っている。

いかにも仕事の途中です、という顔だ。

「お呼びでしょうか」

「呼んではおりませんが、ちょうどよいところへ」

於光が言うと、八右衛門はほんの少し嫌そうな顔をした。

於光に「ちょうどよいところへ」と言われる時は、大抵仕事が増える時である。

「若君方の学びについて、勝家に話しておりました」

「ああ」

八右衛門は納得したように頷いた。

「それでしたら、早めに良き師を選んだ方がよろしいかと」

勝家が眉を動かした。

「お前では足らぬか」

「私では少々、手に余ります」

八右衛門は率直に言った。

「読み書き、計算、帳面の見方。この辺りならば私でも見られます。ですが、義銀様はただ字を覚えたい、数を扱いたいという段階ではございません」

「どういうことだ」

「物の見方が、妙に実務的なのです」

八右衛門は帳面を開いた。

「たとえば、兵糧の数を問えば、人の数だけではなく、日数、道の状態、雨の場合の遅れまで考える。地図を見せれば、どこで兵が詰まるか、どこから回り込まれるかを見る。武器について話せば、武器そのものより、それをどう動きに組み込むかを考える」

勝家は、黙って聞いていた。

「そこらの名家の子より、よほど筋がよい。ですが、正式な師について学んだ形ではない。どこかで誰かが、実際に役立つ部分を選んで教えたように見えます」

於光は、静かに言った。

「藤乃姫ですね」

八右衛門は頷いた。

「おそらく」

勝家は、何も言わない。

けれど、顔に少しだけ得心した色が浮かんだ。

「ただ、あの姫君の教えは奇妙です」

八右衛門は少しだけ眉を寄せた。

「悪い意味ではありません。むしろ、良い。ですが、出どころが分からない。兵法書をただ読ませたというより、何か別の考え方を混ぜておられる」

於光は思わず笑った。

「三國志、だそうですよ」

「三國志?」

勝家が首を傾げる。

「藤乃姫が時折、義銀様に話しておられます。孔明先生だの、仲達先生だの」

「何故、先生なのだ?」

「私には分かりません」

於光は正直に言った。

八右衛門が小さく咳払いをする。

「ともあれ、義銀様には良き師が必要です。千若丸様も、義銀様を追いかけて学ぶでしょう。お二人とも、放っておくには惜しい」

勝家は短く頷いた。

「考える」

それは、勝家なりに重く受け止めた返事だった。

その時、膳が運ばれてきた。

勝家と八右衛門の前に膳が置かれる。

於光の前にも、控えめな膳が置かれた。

その中に、見慣れぬ汁物があった。

葱が多めに入り、白身の魚が丁寧にほぐされている。

骨はきちんと取り除かれ、薄味だが出汁がよく出ている。

勝家が、それを見た。

「これは」

於光は微笑んだ。

「藤乃姫がお作りになったのですよ」

勝家の視線が、汁物に落ちる。

「料理が趣味なのですって」

そう言うと、八右衛門が何とも言えない顔をした。

「趣味、でございますか」

「ええ。藤乃姫はそう仰いました」

於光は、箸を取る。

「けれど、あれは趣味というより、役目なのでしょうね」

「役目?」

勝家が聞く。

「義銀様と千若丸様に食べさせること。それが、あの方の役目だったのでしょう」

於光は汁を一口いただいた。

温かい。

特別に豪華な味ではない。

だが、丁寧に作られている。

魚の骨が残らぬように。

葱が柔らかくなるように。

食べる子供が困らぬように。

そういう手の入れ方だった。

「守護家の姫君の料理というより、家族に食べさせる料理です」

於光はそう言った。

勝家は黙って汁を口にした。

しばらく、何も言わなかった。

そして短く言う。

「うまい」

それだけだった。

だが、於光は知っている。

勝家にとって、その一言は十分すぎるほどの褒め言葉だった。

八右衛門も同じように汁を口にする。

「……なるほど。これは千若丸様が喜ばれるわけです」

「でしょう」

於光は少し笑った。

食事が終わった後、三人はしばらく黙っていた。

話題は自然と、斯波家の三人に戻る。

「相当、過酷な暮らしだったのでしょうね」

於光が言うと、八右衛門は頷いた。

「藤乃姫は、客人として扱われることに慣れておられません。義銀様も、千若丸様も同じです。何か出されるたび、まず相手の顔色を見る」

「食べる前にも、互いを見る」

勝家がぽつりと言った。

於光は少し驚いた。

「よく見ておりましたね」

「目についた」

「そうでしょうね」

藤乃は、まず千若丸を見る。

義銀を見る。

その二人が食べてから、自分の箸を取る。

義銀は義銀で、藤乃が食べているかを見ている。

千若丸は、二人が食べるまで遠慮する。

それは、温かな家族の気遣いでもあった。

だが同時に、食べ物が足りない家の癖でもあった。

於光は、それを見抜いていた。

「藤乃姫は、自分が食べることに慣れておられません」

「軽かった」

勝家が、不意に言った。

於光が顔を上げる。

「軽かった?」

勝家は少し考えるように、於光を見た。

次の瞬間だった。

勝家が立ち上がり、於光を抱き上げた。

「……勝家?」

於光は、弟の腕の中で静かに目を細めた。

八右衛門が固まる。

「勝家殿、何を」

勝家は、真顔で言った。

「重い」

於光はにこりと笑った。

「いきなり姉を抱き上げておいて、第一声がそれですか。怒られたいのですか?」

勝家は、少しだけ気まずそうな顔をした。

「いや、すまぬ、姉上」

「謝るなら下ろしなさい」

勝家は素直に於光を下ろした。

八右衛門は頭を抱えた。

「勝家殿、いきなり何をなさるのです」

「姫君が、あまりに軽すぎた」

勝家は静かに言った。

「女子とは、かようにも壊れやすい重さかと思うた」

於光は、その言葉で怒るのをやめた。

弟の顔を見上げる。

勝家は、真面目だった。

本当に分からなかったのだろう。

腕の中に抱えた藤乃姫があまりにも軽く、細く、頼りなく感じられた。

だから、女子とは皆そうなのかと思った。

勝家らしい。

ひどく不器用で、ひどく真面目だ。

於光は息を吐いた。

「いいえ、藤乃姫が軽すぎるのです」

「姉上でも抱えられるほどか」

「ええ。私でも抱き上げられるほどです」

勝家の眉間に皺が寄る。

於光は続けた。

「相当なご苦労をなさったのでしょう。食を削り、眠りを削り、若君方を守ってこられたのだと思います」

八右衛門も黙った。

於光は、藤乃の姿を思い出す。

掃除をしようとして止められた時の、所在なげな顔。

皿洗いを申し出て半泣きで止められた時の、困ったような笑み。

料理をさせてほしいと頼んできた時の、必死な目。

「あの御方は、まだ自分の身の置き場に困っておられます」

於光は言った。

「故に、何かしていないと心が休まらないのでしょう」

「休ませればよい」

勝家が言う。

於光は首を横に振った。

「ただ休めと言われて休める方なら、もう少し楽なのです」

勝家は黙った。

その沈黙に、八右衛門が口を開いた。

「でしたら、役目を渡すのはいかがでしょう」

於光と勝家が、八右衛門を見る。

「役目?」

「はい」

八右衛門は帳面を軽く叩いた。

「姫君は、若君方の養育をなさっていたのでしょう。読み書き、計算、兵法の基礎。少なくとも、義銀様を見れば分かります。あの姫君は、かなりものを考えられる方です」

「それで?」

勝家が促す。

「奥向きの帳面や文の下読みを、於光と共に手伝っていただくのはいかがでしょうか」

於光は、目を瞬かせた。

「私と?」

「ええ。もちろん、重いものを持たせるわけではありません。長く座らせるなら休ませる。ですが、ただ客間に置くより、於光のそばで文を見せた方が、あの方も落ち着かれるのでは」

八右衛門は少しだけ苦笑した。

「正直、文官仕事は手が足りませぬ。清洲の騒ぎの後始末もあります。斯波家の名に関わる文も、今後増えましょう。ならば、姫君ご自身にも見ていただいた方がよい」

於光は考えた。

藤乃姫は、働きたがっている。

だが、掃除や薪運びや皿洗いでは、周囲が困る。

料理だけでは、おそらく足りない。

ならば、文。

帳面。

手紙。

若君方の学び。

それならば、姫君の身分を損なわず、無理をさせすぎず、役目を渡せる。

「良い案ですね」

於光は頷いた。

勝家も短く言う。

「無理はさせるな」

於光は、弟を見た。

「それはあなたが一番、気をつけなさい」

勝家は黙った。

八右衛門が小さく笑いそうになり、すぐに咳払いで誤魔化した。

於光は決めた。

「では、明日から藤乃姫には、私のそばで奥向きの帳面を見ていただきましょう。まずは軽い文の下読みから。疲れたら休ませます」

「若君方は」

勝家が問う。

八右衛門が答えた。

「義銀様は、私が引き続き読み書きと計算を見ます。兵法については、早めに師を探しましょう。千若丸様は、まずは義銀様と共に基礎から」

「槍は」

「あなたが教えるのでしょう?」

於光が言うと、勝家は短く頷いた。

「教える」

その返事には、迷いがなかった。

於光は少しだけ微笑む。

役目を奪われた者は、休めない。

ならば、休ませるために、役目を渡せばよい。

藤乃姫は、きっと働く。

働きすぎるだろう。

だから、そばで止める者がいる。

食べることを忘れれば、膳を出す。

休むことを忘れれば、休ませる。

無理に笑えば、泣いてよいと言う。

そうすれば、あの姫君は少しずつ、この屋敷に身を置けるようになるかもしれない。

於光は、そう思った。

「明日、藤乃姫に話しましょう」

「頼む」

勝家は短く言った。

その声音が、ほんの少しだけ安堵しているように聞こえた。

於光はまた笑いそうになった。

なるほど。

やはり弟の気に掛かる先は、姫君らしい。