軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九話 帳面の数字が合いません

翌日。

於光様に呼ばれた私は、少し緊張しながら奥の一室へ向かった。

いや、緊張する。

普通に緊張する。

昨日、於光様から「明日、少しお手伝いいただきたいことがあります」と言われた時、私は思わず前のめりになった。

仕事。

仕事である。

掃除は止められた。

皿洗いも止められた。

薪運びは義銀ともども止められた。

葱を勝手に抜くことも禁じられた。

だが、仕事を任せてもらえる。

これは大きい。

私は、柴田家の客人である。

それは分かっている。

でも、客人として何もせずに座っていると、どうしても落ち着かない。

食べて、寝て、休む。

それが必要だと頭では分かっている。

分かっているけれど、心が休まらない。

守護邸では、何かをしていなければ家が回らなかった。

米を数え、薪を数え、千若の小袖を繕い、義銀に字を教え、兄上の機嫌を見て、家臣の顔色を見た。

何もしない時間は、不安になる。

だから、於光様が仕事を任せてくれると言った時、心の底からほっとした。

そして同時に思った。

よし。

ちゃんと役に立とう。

そう思っていたのだが。

「藤乃姫、こちらを見ていただけますか」

於光様が差し出したのは、帳面だった。

帳面。

まさかの帳面。

私は一瞬、固まった。

いや、前世では社会人だった。

数字は苦手ではない。

むしろ、三國志の年表を覚えるくらいには数字には強い。

だが、ここは戦国時代である。

帳面の字が、まあ、読みにくい。

単位も違う。

表記も違う。

何より、全部手書きである。

エクセルがない。

電卓もない。

ついでに、令和の便利な会計ソフトもない。

転生特典はどこですか。

ここでも私は、地道に読まなければならないらしい。

「無理のない範囲で構いません。書き写しの抜けや、数字の違いがないかを見ていただければ」

「はい」

私は頷いた。

そして帳面を開いた。

米。

味噌。

薪。

布。

薬。

馬の飼葉。

柴田家の奥向きに関わる帳面らしい。

ふむふむ。

なるほど。

うん。

……ん?

私は、目を止めた。

ここの合計、合ってなくない?

いや、待て。

もう一度見よう。

私は数字を追った。

一つ目。

二つ目。

三つ目。

足す。

もう一度、足す。

やっぱり合っていない。

「あの、於光様」

「はい」

「ここの合計、違うような」

於光様が瞬きをした。

「どちらですか」

「ここです。米の項目なのですが、こことここを足すと、この合計にはならないと思います」

於光様は帳面を覗き込んだ。

そして少し眉を寄せる。

「……本当ですね」

「あと、こちらも」

私は別の行を指した。

「こちらは引き算が違います。残りの数が多く書かれています」

「まあ」

於光様の声が、少し低くなった。

怖い。

いや、私に怒っているわけではないと分かる。

分かるけれど、於光様の低い声は怖い。

「他にもありますか」

「少しお待ちください」

私は帳面をもう一度見た。

気になる。

ものすごく気になる。

こういう数字のズレは、放っておくと後で大変なことになる。

米が一俵違えば、食べられる人数が変わる。

薪が一束違えば、冬の火が変わる。

薬が一つ違えば、誰かの命に関わるかもしれない。

数字は、ただの数字ではない。

家の命綱だ。

私は、近くにあった紙を一枚借りた。

「少し、書いてもよろしいですか」

「ええ」

筆を取る。

墨をつける。

そして、数字を縦に並べた。

桁を揃える。

一の位。

十の位。

百の位。

和数字だと少し面倒だが、頭の中で現代式に置き換えれば何とかなる。

縦に足す。

繰り上げる。

引く。

借りる。

筆算である。

懐かしい。

ありがとう、義務教育。

私は黙々と計算した。

一つ。

二つ。

三つ。

間違いが、出る。

出る。

出る。

いや、多くない?

私は思わず顔を上げた。

「……於光様」

「はい」

「こちら、計算違いが少々多いようです」

「少々、ですか」

「少々……ではないかもしれません」

於光様の目が、すっと細くなった。

あ。

これは柴田家の誰かが怒られる気配。

私は慌てて言った。

「あ、でも、書き写しの時にずれた可能性もありますし、急ぎの帳面なら仕方ないこともあると思います」

前世でもそうだった。

忙しい時ほどミスは出る。

人間が手でやる以上、間違いは出る。

責めたいわけではない。

ただ、合わないものは合わない。

私は再計算を続けた。

気づけば、於光様が黙って私の手元を見ていた。

「藤乃姫」

「はい」

「今のは、どのように?」

「え?」

「ずいぶん早く、正確に数を合わせられましたね」

しまった。

私は筆を持ったまま固まった。

やばい。

やりすぎた。

つい、前世の感覚で計算してしまった。

いや、でも帳面の数字が合わないのが悪い。

数字が合わないと気になる。

気になったら計算するしかない。

だが、この時代に筆算がどれくらい一般的なのか、私は知らない。

算木?

そろばん?

何かそういうものはあるかもしれない。

でも、私がやったのは完全に令和式の筆算である。

やばい。

どう誤魔化す。

そう思った時だった。

「叔母上?」

声がして、義銀が顔を出した。

どうやら勝家殿との鍛錬を終えたところらしい。

少し汗をかいている。

「あら、義銀様」

於光様が柔らかく声をかける。

「ちょうどよいところへ。藤乃姫が帳面の計算を見てくださっていたのですが」

義銀の目が、私の手元の紙に向いた。

そして、あっさりと言った。

「あ、藤乃叔母上の計算式ですね」

私は固まった。

義銀。

義銀さん。

そこで言う?

於光様の目が、すっと義銀に向く。

「義銀様は、これをご存じなのですか」

「はい」

義銀は普通に頷いた。

「叔母上に教わりました。桁を揃えると、数えやすいのです」

於光様の視線が、私に戻る。

私は笑った。

笑うしかなかった。

「ええと、その、簡単なやり方でして」

「義銀様も、できますか」

「できます」

義銀は当然のように答えた。

於光様は紙を差し出した。

「では、こちらを」

義銀は筆を取り、私と同じように数字を並べた。

桁を揃える。

足す。

繰り上げる。

引く。

早い。

正確。

うん。

教えたのは私だ。

でも、いざこうして人前でやられると、やばい。

於光様の顔が、どんどん真剣になっていく。

そこへ、千若までひょこっと顔を出した。

「兄上、何してるの?」

「計算だ」

「僕もできる!」

千若。

かわいい。

かわいいけど、今は来ないで。

於光様が、ゆっくりと千若を見た。

「千若丸様も、できますか」

「うん!」

「では、こちらを」

於光様、試すのが早い。

千若は嬉しそうに筆を持った。

六歳である。

令和なら小学校一年生くらいだ。

それでも、千若は真剣な顔で数字を見た。

「ここを、そろえるんだよね」

そして、たどたどしくも、ちゃんと桁を揃えた。

小さな手で筆を動かす。

足す。

繰り上げる。

少し間違えて、義銀が横から直す。

「千若、そこは一つ上へ持っていく」

「あ、そっか」

そして、答えを出した。

合っていた。

於光様が、完全に黙った。

私は遠い目をした。

終わった。

何かが終わった気がする。

その時、廊下の向こうから足音がした。

「於光、何かあったのか」

現れたのは、渋川八右衛門殿だった。

於光様は、手元の紙を無言で差し出した。

八右衛門殿はそれを見る。

まず、帳面を見る。

次に、私の書いた計算を見る。

義銀の書いたものを見る。

千若の書いたものを見る。

そして、眼鏡があったら絶対にずり落ちていただろう顔をした。

「……これは?」

「藤乃姫の計算式だそうです」

於光様が言った。

八右衛門殿が私を見る。

義銀が言う。

「叔母上に教わりました」

千若も言う。

「僕もできるよ!」

八右衛門殿は、ゆっくりと座った。

胃を押さえながら。

「藤乃姫」

「はい」

「このやり方を、教えていただけますか」

「あ、はい」

教えるくらいなら問題ない。

たぶん。

私は紙を取り、説明を始めた。

「まず、桁を揃えます。大きい数も、小さい数も、位を揃えると見やすくなります」

八右衛門殿は真剣に聞いている。

於光様も聞いている。

義銀と千若は、当然のような顔をしている。

「足し算の場合は、下から順に足して、十を超えたら次の桁に一つ上げます。引き算の場合は、足りなければ隣の桁から借ります」

「借りる?」

「ええ。たとえば、こちらの桁が足りない時は、上の桁から一つ借りて十にするのです」

説明しながら、私は実例を書いた。

八右衛門殿の顔が変わった。

最初は驚き。

次に理解。

そして最後に、実務家の顔。

「ああ……これは早い」

「そうですね。慣れれば、かなり早く確認できます」

「帳面の検算にも使えますな」

「はい。合計の確認には便利です」

八右衛門殿の目が輝いた。

実務の人だ。

この人、完全に実務の人だ。

便利なものを見た時の顔が、前世の仕事場で新しい表計算関数を覚えた人と同じである。

少し親近感が湧いた。

「藤乃姫」

「はい」

「この計算は、どこで?」

来た。

来てしまった。

私は固まった。

どこで。

どこでと言われても。

令和の小学校です。

とは言えない。

前世です。

もっと言えない。

私は必死に頭を回した。

斯波家。

守護家。

落ち目とはいえ、文書はあった。

本もあった。

古いものも、読めないものも、いっぱいあった。

燃えたけど。

燃えたから、もう確認できないけど。

ごめん。

燃えたのを利用する。

私は目を泳がせながら、言った。

「……屋敷には、文書だけはたくさんありましたので」

八右衛門殿が黙る。

於光様も黙る。

私は続けた。

「古い書物や、帳面の類も多く……その中に、こうした数の扱いについて書かれたものも、あったような……なかったような……」

自分で言っていて苦しい。

苦しいが、押し通すしかない。

「燃えてしまいましたし、どの本だったかは、もう分からないのですが」

その瞬間、於光様の顔が変わった。

八右衛門殿も、息を呑んだ。

しまった。

私は内心で慌てた。

あ。

生家が燃えた話、重かった?

いや、重い。

普通に重い。

でも、今のは誤魔化しとしては悪くないはず。

証拠は燃えた。

本は燃えた。

確認できない。

よし。

たぶん誤魔化せた。

私は内心で胸を撫で下ろした。

一方で、於光様はそっと目を伏せた。

八右衛門殿は、痛ましそうな顔をした。

「……そうでしたな。守護邸は」

「ええ」

於光様が静かに言う。

「大切なものも、多く失われたのでしょう」

私は頷いた。

「はい」

嘘ではない。

本当に失った。

兄も。

屋敷も。

甥たちの居場所も。

米櫃も。

葱畑も。

そして、たぶん本も燃えた。

だから嘘ではない。

ただ、その本に筆算が書かれていたかどうかは、かなり怪しい。

いや、書かれていたことにしよう。

あった。

多分あった。

本がたくさんあったから。

あったはず。

たぶん。

八右衛門殿は、しばらく沈黙してから、深く頭を下げた。

「つらいことをお聞きしました。申し訳ございませぬ」

え。

謝られた。

私は慌てた。

「い、いえ、その、気になさらず」

「ですが、この計算の仕方は、実に役立ちます。もし藤乃姫がよろしければ、私にも、屋敷の者にも教えていただきたい」

「それはもちろんです」

私は即答した。

「役に立つなら、いくらでも」

於光様が、少し驚いた顔をする。

「よろしいのですか」

「はい。難しいものではありませんし、帳面の間違いが減るなら、その方がいいと思います」

八右衛門殿の顔が、感動に近いものになった。

やめて。

そんな顔をしないで。

ただの筆算です。

令和の小学生が習うやつです。

でも、八右衛門殿はとても真剣だった。

「では、後ほど改めて、時間をいただきます」

「はい」

義銀が少し誇らしげに私を見る。

千若もにこにこしている。

「藤乃おば様、すごいね」

「千若もできたでしょう?」

「うん!」

千若が笑う。

その笑顔に、私はほっとした。

よかった。

とりあえず、誤魔化せた。

文書が燃えたので確認できません作戦、成功である。

そう思っていた。

けれど、その横で於光様と八右衛門殿が、ひどく痛ましそうな顔をしていたことに、私は気づいていなかった。

彼らはきっと、こう思っていたのだろう。

藤乃姫は、生家が燃えたことを、まだ平気な顔で口にしてしまうほど追い詰められているのだ、と。

一方の私は、こう思っていた。

よし。

前世の知識、なんとか誤魔化せた。

完全にすれ違っていた。