軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話「三日の道」

「お嬢様、そろそろ休憩の時間です」

侍女の声で、エステラは馬車の窓から視線を戻した。

王都を出発して二日目の昼だった。街道沿いの宿場で馬車が止まり、御者が馬に水を与えている。護衛の騎士たちが周囲を確認し、侍女が馬車の扉を開けた。

王城からの護衛騎士が随行していた。レオンハルトの馬車には政務補佐としての護衛が、アルヴィンの馬車には王太子としての護衛がつき、エステラの馬車には侍女と騎士が一名。三台の馬車が縦列で進む行程だった。

馬車を降りると、空気が違った。

王都の石畳の乾いた空気ではなかった。土の匂いがした。道の脇に畑が広がり、遠くに低い丘が連なっている。街道を行き交う荷馬車の轍が、土の上に深い筋を刻んでいた。

宮廷にはない景色だった。

窓から見ていた時は絵のようだったものが、馬車を降りた途端に匂いと音を持った。畑の土。牛の声。風に混じる草の青さ。公爵家の屋敷にも王城にも存在しない、生活の気配。

エステラは宮廷の外の世界をほとんど知らなかった。公爵家と王城の往復。馬車の窓から見える街並み。それが「外」の全てだった。

宿場の休憩所。木造の簡素な建物の前に、石のベンチが並んでいた。

レオンハルトが先に降りていた。手元に書類を持っている。馬車の中でも代案の数字を確認していたのだろう。休憩の間も政務の顔だった。

アルヴィンも馬車を降り、休憩所の前に立っていた。王太子としての正装ではなく、移動用の簡素な装い。だが背筋の伸び方に、再教育を経た人間の落ち着きがあった。

レオンハルトが書類を広げながら声を落とした。

「ゲオルクへの説明の構成を確認しておきたい。投資規模、工期、関税の経過措置、負担配分。この順序で問題ないか」

アルヴィンが頷いた。

「領地経営の観点から一つ。負担配分の項目は、商会側の初期負担を先に提示した方がいい。商人は自分たちの出費がどれだけかを最初に知りたがる」

「なるほど。順序を入れ替える」

兄弟が政務の実務で連携している。代案の作成で始まった協力が、視察の場でさらに具体的になっていた。レオンハルトの分析力とアルヴィンの領地経営の知識。それぞれの力が噛み合って、一つの交渉準備が形になっていく。

エステラは少し離れた場所でその様子を見ていた。

配偶者教育の復習用に持参した外交儀礼の書物と、フェルトハーフェンの基礎情報をまとめた覚書を膝の上に置いていた。港湾都市の規模、主要な輸出入品目、商会の構成。座学で学んだ知識を現地に当てはめるための準備。

だが二人の連携を間近で見ていると、膝の上の書物が薄く感じられた。

レオンハルトは数字を精査している。アルヴィンは実務的な論点を整理している。二人の間で交わされる言葉は短く、正確で、政務の場に立ってきた人間同士の密度があった。

エステラの役割は陪席だった。

黙って座る。公務の場を経験する。それが配偶者教育の実地段階として定められた役割。

黙って座ることと、何もできないことは、同じなのだろうか。

その問いが、馬車の振動の中で少しずつ大きくなっていた。

休憩が終わり、出発の準備が整った頃、アルヴィンがエステラの方に歩いてきた。

「視察は初めてですか」

形式的な声だった。だがその声に、わずかな硬さがあった。

アルヴィンとエステラが私的な会話を交わすのは、ほとんど初めてだった。婚約解消以降、公的な場での短い発言だけが二人の間にあった。王家会議での「異論はない」。披露の宴での「弟の婚約を祝福する」。全て公式の言葉だった。

「ええ。勉強させていただきます」

エステラの返事も硬かった。

アルヴィンの目は穏やかだったが、その穏やかさの中に距離があった。かつて自分が判断を誤った相手。弟の現在の婚約者。その二つの認識が混在した、置き場の定まらない距離感。

アルヴィンは小さく頷き、自分の馬車に戻った。

短い会話だった。だがその短さの中に、まだ名前のつかない関係の輪郭があった。

三日目の夕刻。

馬車の窓の外の景色が変わった。

畑が減り、代わりに倉庫のような建物が増えた。荷馬車の数が多くなった。街道が石畳に変わり、建物の壁に貿易商の看板が並び始めた。

そして——匂いが変わった。

潮の匂い。

魚と木材と油の混じった、重い空気。宮廷にはない匂い。公爵家の屋敷にもない匂い。窓を開けると、それが一気に馬車の中に入ってきた。

フェルトハーフェンだった。

港が見えた。

大きかった。想像していたよりもずっと。石造りの埠頭が海に向かって伸び、帆を畳んだ船が何隻も並んでいる。埠頭の上を荷運びの人足が行き交い、荷を積んだ馬車が列を作っていた。

だが同時に、老朽化も見えた。埠頭の石組みが所々崩れ、修繕の跡が継ぎ接ぎのように残っている。倉庫の屋根が傾いたものがあり、桟橋の木材が黒く腐食している箇所があった。

代案の対象が、目の前にあった。

紙の上の数字ではなく、匂いと色と音を持った現実として。

市の迎賓館に入った。港に面した石造りの建物で、貿易商の接待にも使われる施設だという。質素だが清潔で、王城の華美さとは対極にあった。

翌日の商会長との面会の準備が始まった。

レオンハルトが迎賓館の一室で書類を広げた。エステラとアルヴィンが同席していた。

「明日の面会では、俺が説明する。代案の内容と数字は俺の管轄だ」

レオンハルトの声は政務の調子だった。事実の確認。

アルヴィンが頷いた。

「私は弟の補佐として同席する。領地経営の観点から補足が必要な場面があれば」

「頼む」

レオンハルトの視線がエステラに向いた。

「お前は陪席だ」

制度上正しい言葉だった。配偶者教育の実地段階として、公務の場に同席する。発言権は持たない。

エステラは頷いた。

「承知していますわ」

声は落ち着いていた。揺れてはいなかった。

だが胸の中に、「陪席」という言葉が重く残った。

陪席。同席するが発言しない。公務の実態を学ぶ場。それが今の自分の役割。制度が定めた役割。

正しかった。正しいことは分かっていた。

だがこの港の匂いの中で、殿下が作った代案のために殿下が交渉する場に黙って座る自分を想像した時、あの回廊で感じた非対称が、少しだけ重くなった。

侍女が夕食の準備を告げに来た後、もう一つの報告があった。

「お嬢様。商会長ゲオルク様は、明日の面会に商会の主要な貿易商数名を同席させるそうです」

エステラの手が止まった。

「商会長お一人ではなく、組合全体の総意を確認する場になるとのことです」

想定より重い場だった。

商会長との一対一の面会ではない。東部の貿易商を束ねる組合全体が、代案の内容を聞き、判断を下す場。

レオンハルトの説明する数字が、一人の商人ではなく、組合全体の目に晒される。

エステラは窓の外を見た。

港の灯りが、夕暮れの中で一つずつ点いていた。潮の匂いが、開けたままの窓から入ってきていた。

この街で人が働いている。この街のために殿下が代案を作った。

わたくしは——この街のために、何もしていない。

明日、商会長に会う。わたくしは黙って座る。

黙って座ることしか、今のわたくしにはできない。