軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「薔薇の棘なく」

「今日から、よろしくお願いしますね」

王妃マルガレーテの声は穏やかだった。あの客間での隙のない声でも、薔薇園で秤を降ろした時の震える声でもなかった。もう少し日常に近い、力の抜けた声だった。

王家会議での婚約承認から数日が経っていた。

王城の薔薇園。王妃が個人的に手入れしている庭。あの日、エステラが「退かない」と答えた場所。蕾だった薔薇がいくつか開き始めていて、淡い色の花弁が朝の光を受けていた。

配偶者教育の初回。

王家会議での婚約承認後、王族の配偶者としての基礎教育が正式に開始される。宮廷作法の深化、外交儀礼、王家の系譜、領地経営の知識。教育は王妃の管掌下で行われ、王妃が教育担当者を指名する慣習がある。

王妃はエステラの教育を、自ら担当すると決めたらしかった。

「まずは宮廷作法の実地指導から始めましょう。王族の配偶者として求められる所作は、公爵令嬢の作法とは細部が異なります」

王妃の指導は丁寧だった。歩き方、座り方、扇の持ち方、杯の受け方。公爵令嬢として身につけてきた作法の、さらに上の層。王族の配偶者だけに求められる細かな所作の違いを、王妃は一つ一つ実演して見せた。

エステラは真剣に学んだ。身体が覚えるまで繰り返した。

王妃の教え方には癖があった。言葉で説明する前に、まず自分の手で見せる。「こう」と短く言いながら、指先を動かす。あの客間での隙のない問い方とは全く違う、実務的で温かい教え方だった。

教育の合間に、薔薇園のベンチで茶を飲んだ。

王妃が茶碗を置いた。

「一つ、教育とは関係のない話をしてもいいかしら」

エステラの手が、茶碗の上で止まった。

王妃の声が変わっていた。教育担当者の声ではなかった。薔薇園で秤を降ろした日の、あの声に近かった。

「レオンハルトに——あなたから伝えてくださらない」

王妃の目が、薔薇の蕾に向いていた。エステラの顔を見ていなかった。

「わたくしが母として至らなかったことを、詫びたいと思っていると」

エステラの呼吸が浅くなった。

王妃がレオンハルトに詫びたいと言っている。義母として踏み込めなかった後悔を、言葉にしようとしている。

だがその言葉を、エステラを介して届けようとしている。

直接ではなく。

エステラは茶碗を膝の上に置いた。

王妃の申し出を引き受けることはできた。仲介者になることはできた。王妃の言葉をレオンハルトに伝え、二人の間を橋渡しすることは、難しいことではなかった。

だがそれでは、王妃とレオンハルトの関係は「エステラ経由」のままになる。

嘘のない関係を知った人間として、エステラは分かっていた。直接伝えることの重さを。あの庭園で「好きだ」と「好きですわ」を交わした時、間に誰もいなかった。回廊で書類を渡す時も、言葉を交わす時も、いつも二人の間に仲介者はいなかった。

直接でなければ届かないものがある。

「お伝えします」

エステラはまず引き受けた。

王妃の顔がわずかに緩んだ。安堵の色。

「ただ——王妃様」

エステラは続けた。

「できましたら——直接、殿下にお伝えになりませんか」

王妃の目がエステラに向いた。

「わたくしがお伝えすることはできます。けれど、王妃様のお言葉は、王妃様の声で届けた方が」

言葉を選んだ。だが選びすぎないようにした。あの客間で嘘をつかなかった時と同じだった。

「殿下は——お聞きになると思いますわ」

確信はなかった。レオンハルトが義母の詫びをどう受け取るかは分からなかった。「母と呼んだことはない」と言ったあの声。距離を置いたまま長い時間が経った関係。一度の詫びで何かが変わるかどうか。

だがエステラは、直接伝えることを提案した。

仲介者にならない。橋を架けるのではなく、橋を架ける場所を示す。

王妃は数拍の間、黙っていた。

薔薇園の風が、開きかけた花を揺らした。

「直接——そうね」

王妃の声はかすかに震えていた。だがあの薔薇園での告白の時よりも、震えは小さかった。

「退く癖は、もうやめなければね」

エステラの言葉を借りて、王妃が自分に言い聞かせた。

退く癖。

同じ癖を持つ人間同士が、同じ言葉を共有していた。

自室に戻ると、侍女が控えめに報告を持ってきた。

「お嬢様。カッセル侯爵家について、新しい情報がございます」

エステラは椅子に座り、侍女の言葉を聞いた。

「侯爵が、外交問題に乗じて『公国の公女との婚姻を推すべきだ』と宮廷内で発言しようとされたそうです」

エステラの手が膝の上で止まった。

カッセル侯爵。王太子変更論を推進し、レオンハルトを自派閥に取り込もうとした貴族。社交の場でエステラの評判を貶める噂を流した貴族。舞踏会で一人だけ拍手をせず孤立した貴族。

「ですが——どなたも耳を貸されなかったそうです。侯爵のお話を聞く方が、宮廷内にもういらっしゃらないと」

社交的信用の失墜。舞踏会以降、主要な貴族家が距離を置き始めていた結果が、ここに出ていた。誰も耳を貸さない。発言しようとしても、聞く者がいない。

「そしてそのことが、国王陛下のお耳に入ったそうです」

侍女の声が低くなった。

「国王陛下が侯爵を直接お叱りになったと。『王家の判断に重ねて干渉する行為である』と」

国王の直接叱責。

王太子変更を行わないと明言した国王に、なお逆らう形で外交問題に便乗しようとした。王家会議で婚約が承認された後にもかかわらず。

国王の逆鱗に触れた。

「侯爵は政治的な影響力を完全に失われたものと、宮廷では見られているそうです」

エステラは黙って聞いた。

噂工作から始まり、社交的信用を失い、舞踏会で孤立し、外交問題に便乗しようとして国王の叱責を受けた。段階的に、着実に、報いが下されていた。宮廷の慣習の中で、静かに、確実に。

侍女は続けた。

「それと——以前エステラお嬢様に冷たくされた令嬢方ですが、婚約披露の宴にはお招きがないようです」

かつてエステラに手のひらを返した令嬢たち。社交的立場の低下が続いている。公爵令嬢の正式な婚約披露の宴に、招待の名前がない。

「あと——ミルフィ様についてですが」

エステラの心が、わずかに動いた。

「お変わりなく針子のお仕事を続けていらっしゃるそうです。お元気だと」

ミルフィ。涙を武器にしていた少女。平民に戻り、針子として新しい生活を歩んでいる人。道具ではない自分を生き始めた人。

エステラはその報告を聞いて、小さく頷いた。

全てが、それぞれの場所に収まりつつあった。

窓辺の椅子に座り、薔薇園での王妃の言葉を思い返した。

「退く癖は、もうやめなければね」

王妃がそう言った時、少しだけ笑っていた。

あの笑顔は初めて見た。客間での隙のない表情でも、薔薇園で秤を降ろした時の震える顔でもなかった。

秤を降ろした人が、もう一歩先に進もうとしている顔だった。

わたくしも、ほんの数日前まで、退く癖に縋ろうとしていた。

父に「辞退した方が」と口にした日。あの書斎で「癖か」と問われた日。薔薇園で王妃に「辞退しようと思いました」と正直に打ち明けた日。

同じ癖を持つ人同士で、笑えるようになった。

それは——嬉しいことだった。

義母ではない。まだそう呼べる関係ではない。だが秤で量る人でもなくなった。同じ弱さを知っている人。同じ癖を持つ人。退かないと決めた人同士。

今はまだ名前のない関係だった。だがその名前のなさが、不安ではなかった。

侍女が声をかけた。

「お嬢様。レオンハルト殿下から伝言でございます。『義母上から、話があるらしい』と」

エステラは微笑んだ。

困惑した声が聞こえるようだった。「義母上から話がある」という事態に、あの人がどんな顔をしているか。母と呼んだことのない人から話があると聞いて、距離を置いたまま長い時間を過ごした相手からの突然の接触に、あの平坦な表情の下で何が動いているか。

「良い話ですわ、きっと」

エステラはそう答えた。

婚約披露の宴の前日が近づいていた。

代案は交渉の場で動いている。婚約は承認された。王妃との関係に、最初の橋が架かろうとしている。

エステラは刺繍枠を手に取った。

針を動かした。一針。また一針。

あの日、一針しか刺せなかった。その次の日は、もう少し進んだ。今は手が迷わなかった。

薔薇園の蕾が開き始めている。棘のない場所で、花が開こうとしている。

退かない。その言葉はもう、覚悟ではなかった。

日常になりつつあった。