軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話「本物の涙」

エステラはヴィクトール公爵の書斎で、地方視察の許可を願い出た。

未確認の貸付先は、エールバッハ男爵家そのものだった。レオンハルトの調査で判明したその事実を、エステラが知ったのは前夜のことだった。侍女が持ってきた情報——政務室の文官からの伝達——の続き。商会の貸付記録に残っていた最後の一件。

ルートヴィヒは養子縁組の時点で男爵家に多額の資金を貸し付けていた。返済条件として「養女の宮廷活動への協力」を取り付けていた。男爵家はルートヴィヒの指示に従い、ミルフィを宮廷に送り込み、王太子への接近を支援していた。

ミルフィの宮廷での振る舞いの一部は、養家の指示に基づいていた。養家の指示は、ルートヴィヒの指示だった。

この事実はレオンハルトの調査で確定し、王家会議に報告された。

エステラはその報告を聞いた夜、眠れなかった。

ミルフィの行動の全てが「自発的な悪意」ではなかった可能性。庭園で流した涙、審議の場での証言、あの健気泣き。その一部は「やらされていた」人間の涙だったかもしれない。

あの最後の夜。アルヴィンの部屋で「殿下のお傍にいたかっただけ」と泣いたミルフィ。あの涙の真偽が分からないまま残っていた問いに、新しい文脈が加わった。

そして、もう一つ。

昨日の庭園でのレオンハルトの言葉が、まだ胸の中にあった。「嘘はつきたくない。お前の前では」。あの言葉に、エステラは答えを返せなかった。レオンハルトは一歩引いた。感情を認めかけて、しかし踏み出せずに。

その余韻が消えないまま、新しい事実が重なった。

ミルフィに会いたい。

その衝動が、夜の間に静かに形を成していた。

翌朝。エステラは公爵家への帰邸を侍女に伝え、父の書斎を訪ねた。

「お父様。男爵家の領地を訪問する許可をいただきたいのです。公爵家の地方視察の名目で」

ヴィクトールは書簡から目を上げ、娘を見た。

「理由を聞こう」

「ミルフィーユさんに、お会いしたいのです」

ヴィクトールの眉がわずかに動いた。

「商会の工作に関する確認か」

「いいえ。合理的な理由は、ございません」

エステラは正直に言った。この書斎で嘘をつくつもりはなかった。

「ただ——会って、話がしたいのです。わたくし自身の気持ちとして」

ヴィクトールは長い間、何も言わなかった。娘の顔を見ていた。

「侍女と騎士を随伴させる。それが条件だ」

「ありがとうございます、お父様」

回廊の窓際。学園に戻った翌日の、いつもの時間。

レオンハルトに視察の予定を伝えたのは、政務書類の受け渡しの際だった。

「ミルフィーユに会いに行く」

レオンハルトの手が書類の上で止まった。

昨日の庭園での会話の余韻が、二人の間にまだ薄く残っていた。「嘘はつきたくない」と言い合い、しかし答えを出せなかった空気。その空気の中で、エステラは別の話を切り出していた。

「なぜ会いに行く」

「合理的な理由はありませんわ」

レオンハルトの目がわずかに細くなった。

「証拠の確認でも、証言の裏取りでもございません。ただ、会いたいのです」

沈黙が落ちた。

昨日、レオンハルトは「感情で動くことが怖い」と言った。感情で動けば兄と同じになると。

エステラはその恐怖を理解していた。理解した上で、今、自分が感情で動くことを選んでいると伝えていた。

「感情で動くのか」

「はい」

即答だった。自分でも驚くほど迷いのない声だった。

レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。

「父上の許可は」

「いただきましたわ。公爵家の地方視察の名目です。侍女と騎士が随伴します」

「そうか」

レオンハルトは書類を整え直した。

「戻ってきたら、報告しろ」

「もちろんですわ」

男爵家の領地。

馬車を降りたのは、午後の早い時刻だった。男爵家の屋敷は宮廷の華やかさとは無縁の、堅実な造りだった。石壁に蔦が這い、庭の植え込みは手入れされているが質素だった。

面会の場として通されたのは、客間の一つだった。広くはない。窓から午後の光が差し込み、簡素な調度品を照らしている。

ミルフィーユは既にそこにいた。

椅子に座り、膝の上で両手を重ねていた。以前より痩せていた。頬に疲労の色がある。だが宮廷にいた頃の、怯えた空気や計算された仕草はなかった。涙を武器にする相手がいない場所で過ごした日々が、ミルフィの表情から何かを削ぎ、別の何かを残していた。

エステラが入ると、ミルフィは顔を上げた。

目の色が変わった。警戒。困惑。そしてかすかな怒り。

「エステラ様。何をしにいらしたの」

敬語と素の口調が混じっていた。宮廷の礼節を保とうとする癖と、保つ理由を失った本音が、同時に滲んでいた。

エステラは扉を閉め、数歩だけ近づいた。騎士は屋敷の入口に、侍女は部屋の外に控えている。

「あなたに聞きたいことがあるの」

エステラもまた、公爵令嬢としての口調を崩していた。意図してではなかった。この場に宮廷の作法を持ち込む気になれなかった。

「あの涙は——全部、あなた自身の意志だったの」

ミルフィの目が揺れた。

「何のこと——」

「分かっていると思うわ。殿下の前で流した涙。審議の場での涙。全部。あなたが自分で決めてやったことなの」

沈黙が部屋に満ちた。

ミルフィの両手が膝の上で握りしめられ、指先が白くなった。

長い間の後、小さな声が落ちた。

「……全部じゃない」

エステラは動かなかった。

「お父様に——実の父に言われたの。『泣けば守ってもらえる。殿下の前で泣けば、あの方はお前を庇う』って。最初は、それだけだった」

ミルフィの声が震えていた。演技の震えではなかった。制御を失いかけた声だった。

「でも途中から、分からなくなった。泣けって言われて泣いているのか、自分が泣きたくて泣いているのか。殿下の前にいると、本当に怖くなることもあった。エステラ様が——あなたが怖かったのも、嘘じゃない」

声が途切れた。

「わたし、最初は本当に殿下のことが好きだったの。でも途中から、お父様の言う通りにしないといけなくなって、何が本当の気持ちか分からなくなった」

ミルフィの目から涙が溢れた。

堪えようとしていなかった。健気泣きでも、恐怖泣きでも、怒り泣きでもなかった。ただ零れた。前世で十年間、涙を分析し続けてきたエステラにも、名前をつけられない涙だった。

「自分の涙が本物かどうか、自分で分からないの。それが——一番、怖い」

エステラの胸の奥で、何かが軋んだ。

自分もまた、同じだった。

嘘の涙を武器にした。計算で泣いた。庭園で、必要な時に必要な涙を流した。レオンハルトの前で初めて嘘を認めた日。「善処いたしますわ」と声が震えた日。あの震えは本物だった。だが本物と嘘の境界は、エステラの中でもまだ曖昧だった。

ミルフィの言葉が、前世の十年間と重なった。窓口に立ち、笑顔を作り、頭を下げ、理不尽を飲み込む日々。「やらされていた」十年間。笑顔が本物か演技か、自分でも分からなくなった日があった。

同じだった。

エステラの目が熱くなった。

止めなかった。

涙が一筋、頬を伝った。

横隔膜の制御も、呼吸の調整も、何もしていなかった。ただ、泣いていた。

ミルフィが目を見開いた。エステラの涙を見て、表情にこれまで見たことのないものが浮かんだ。困惑。そしてかすかな——本当にかすかな——安堵のようなもの。

自分だけではないと知った人間の顔だった。

「わたくしも、嘘の涙を流しましたわ。だから、あなたを一方的に責める資格はございません」

和解ではなかった。許しでもなかった。ただ、互いの真実を確認する対面だった。

ミルフィは何も答えなかった。ただ小さく頷いた。

エステラは目元を拭い、立ち上がった。

「話してくれて、ありがとう」

部屋を出た。

馬車の中で、涙の跡が乾いていくのを感じた。

侍女が心配そうに傍に寄ったが、エステラは首を振った。

「大丈夫ですわ」

誰かに聞かせるための言葉ではなかった。

学園に戻ったのは翌日の午後だった。

回廊で政務書類の受け渡しの時間を待ち、レオンハルトの姿を見つけた。

「お約束通り、ご報告に参りましたわ」

レオンハルトは書類から目を上げ、エステラの顔を見た。何かを読み取ったのだろう。視線がわずかに長く留まった。

「ミルフィーユさんの涙は、全てが自分の意志ではなかったそうです。実父の指示が最初にあったと。ただ——途中から、本物と嘘の区別が自分でもつかなくなっていた、と」

レオンハルトは黙って聞いていた。

「それだけですわ」

「それだけか」

「ええ」

一拍の間。

「泣いたのか」

エステラは一瞬、言葉を探した。誤魔化す言葉は浮かんだ。だが、嘘はつきたくないと言い合った翌日だった。この人の前では使えない。

「ええ」

「演技か」

「いいえ」

レオンハルトの目がわずかに見開かれた。すぐに元に戻った。

「本物でしたの」

エステラは小さく笑った。自分でも驚くほど自然な笑みだった。

「感情で動きましたわ。合理的な理由もなく、会いに行って、泣いて帰ってきました」

レオンハルトは何も言わなかった。

数拍の沈黙の後、口の端がわずかに上がった。

「呆れてはいない」

短い一言だった。だがその声の温度に、昨日の庭園で引いた一歩の、かすかな揺り戻しがあった。

エステラは一礼して、その場を離れた。

自室への廊下を歩きながら、胸の内側に残っているものを確かめた。

ミルフィの言葉。「自分の涙が本物かどうか、自分で分からない」。あの言葉に、前世の自分が重なって、自然に涙が出た。

本物の涙だった。

レオンハルトが「泣きたいなら、本物の方を頼む」と言った、あの本物。

だがそれは、レオンハルトの前で流した涙ではなかった。

その事実が、小さな棘のように胸に残った。

次にこの人の前で涙を流す時は——本物を、この人に見せたい。

その感情に、エステラはまだ名前をつけられなかった。

けれど、名前がつかないまま抱えていることを、もう怖いとは思わなかった。