作品タイトル不明
第3話「父の領分」
エステラは父の書斎の扉を叩いた。
二度目だった。婚約の見直しを相談した時と同じ扉。同じ重い木の感触。だが今回持ち込むのは、自分自身の問題ではなかった。
「お入り」
ヴィクトール公爵の声が、扉越しに届いた。
書斎は前回と変わらず整然としていた。壁一面の書架。重厚な机。インクの匂い。午前の光が窓から差し込み、書簡の束を照らしている。
ヴィクトールは机の向こうに座り、エステラを見た。穏やかな目。だがその奥に、公爵家当主としての秤がいつも置かれていることを、エステラは知っている。
「座りなさい」
椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「お父様。エールバッハ商会について、お耳に入れたいことがございます」
ヴィクトールの表情は動かなかった。先を促すように、静かに待っている。
エステラは、レオンハルトから得た情報を正確に伝えた。エールバッハ商会が複数の下級貴族家に資金を貸し付けていること。御用商人の認定を申請していること。商会がミルフィーユの実父の経営であること。そして、貸付先の一つにフォルスター子爵家が含まれていること。
ヴィクトールは黙って聞いていた。エステラが話し終えるまで、一度も口を挟まなかった。
「情報の出所は、レオンハルト殿下の政務補佐としての記録照会の範囲内です。わたくしが独自に調べたものではありません」
補足を加えた。情報の経路を明示するのは、公爵家当主に報告する際の作法だった。
ヴィクトールはペンを置き、両手を机の上で組んだ。
「フォルスター子爵家か」
その名前に反応した。エステラの予想通りだった。
「領地経営が苦しいとは聞いていた。商家から借財しているとは知らなかったが、不思議ではない」
ヴィクトールは窓の外に目をやった。
「エステラ。お前がこれを報告してくれたことには感謝する。だが、ここから先は——」
「お父様の領分ですわ」
エステラが先に言った。
ヴィクトールの眉がわずかに動いた。驚き、ではない。娘の言葉を測る表情だった。
「商家の工作への対処は、公爵家当主の判断と権限で行われるべきものだと存じます。わたくしが動けば、公爵令嬢が商人と直接対立する構図になりますわ。それは公爵家の体面にも、わたくし自身の立場にもよろしくない」
「自分で考えて、その結論に至ったのか」
「はい」
ヴィクトールは長い間、娘の顔を見ていた。
「分かった。商会の信用調査は、私が進める。出入りの商人を通じた民間の調査だ。公爵家が直接動いたと知られない範囲で行う」
エステラは深く頭を下げた。
「それと」
ヴィクトールの声が、わずかに柔らかくなった。
「婚約の見直し協議の件。王家会議で正式に議題として取り上げられることが決まった。日程は近く通知されるはずだ」
エステラの手が、膝の上でわずかに動いた。
来た。
アルヴィンとの婚約。あの庭園での断罪の日から始まった問題が、ようやく制度の手続きの中で動こうとしている。
「わたくしの意志は変わっておりません」
「承知している。だが、協議の場ではお前自身の言葉が必要になる。公爵家が娘の意に反して婚約を解消させたと見られてはならない。お前の意志として、お前が述べるのだ」
「はい、お父様」
ヴィクトールは頷いた。
その一つの頷きに、公爵家当主としての承認と、父としての信頼が込められていることを、エステラは感じ取った。
学園に戻ったのは、その日の午後だった。
自室で侍女が淹れた茶を飲みながら、エステラは自分の判断を振り返っていた。
商家の工作を「父の領分」と判断し、委ねた。婚約の見直しは「自分の問題」として、自分の言葉で臨む準備を始める。
切り分けている。
前世の自分なら、全部を一人で抱えていた。窓口に立つのは一人。クレームを受けるのも一人。対処するのも、飲み込むのも、翌日笑顔を作るのも一人だった。助けを求めるのが苦手だった。助けを求めること自体が、自分の無力を認めることだと思っていた。
今は違う。
父に委ねた。レオンハルトの情報を活用した。それぞれの領分を認め、自分の領分に集中する。それは弱さではなく、手持ちの駒を正しく配置することだった。
全部を一人で抱えなくてよい。
その認識が胸の内に確かに在る。前世には無かったもの。
エステラは茶を一口含んだ。温かい液体が喉を通る。安心、というにはまだ柔らかすぎる感覚。だが、地面が足の下にあるという感触には近い。
婚約見直しの王家会議。そこでは、自分の意志を自分の言葉で述べなければならない。
泣く必要はない。演技も要らない。自分が何を望み、なぜそれを選ぶのか。それだけを、嘘なく語ればいい。
エステラは茶器を置き、窓の外を見た。
守られるだけではいけない。
あの日、父の書斎で婚約の見直しを相談した時に固めた覚悟。それが今、次の段階に進もうとしていた。自分の意志で立場を選ぶ。防衛ではなく、選択として。
三日後、侍女が書簡を持ってきた。
王家会議からの正式な通知。婚約見直し協議の日程。十日後。
エステラは書簡を開き、日付を確認し、静かに畳んだ。
その日の政務書類の受け渡しの際、レオンハルトが短く告げた。
「協議の日程は聞いたか」
「ええ。十日後ですわ」
「一つ、言っておく」
レオンハルトは書類を手渡しながら、声を落とした。
「協議の場で、兄上がどう出るか分からない」
エステラの指が、書類の上で止まった。
「破棄を撤回したのは兄上だ。だが、見直しの協議をエステラの側から提起したことで、兄上の中にある自尊心がどう反応するか。同意するのか、抵抗するのか。俺にも読めない」
レオンハルトの声は平坦だった。兄について語る時の、感情を排した声。だがその平坦さの裏に、兄弟の溝を感じさせる冷たさがあった。
「兄上は感情で動く人間だ。論理で予測できない判断をする。準備しておくことだ」
以前も同じ言葉を聞いた。「準備しておくことだ」。あの時は審議の前だった。そしてレオンハルトの忠告は正しかった。
「ご忠告、ありがとうございます、殿下」
「忠告じゃない。事実を述べている」
素っ気ない返し。いつものレオンハルトだった。
エステラは書類を受け取り、一礼してその場を離れた。
自室に戻り、書簡をもう一度広げた。
十日後。
アルヴィンがどう出るか。同意するのか。抵抗するのか。
あの人は、根が悪い人間ではなかった。判断が甘く、感情に流されやすいだけだった。だがその感情には、王太子としての自尊心が含まれている。婚約を解消されること。それは「自分が拒否された」という意味を持つ。
エステラの側から申し出たことが、アルヴィンの自尊心にどう響くか。
考えても答えは出なかった。レオンハルトの言う通り、感情で動く人間の判断は論理で予測できない。
ならば、予測ではなく準備をする。
エステラは書き物机に向かい、王家会議の場で述べる言葉を書き出し始めた。
自分の意志。自分の理由。自分の言葉。
泣かない。演技しない。ただ、嘘のない言葉を選ぶ。
羽根ペンを走らせながら、エステラは小さく息をついた。
これは、わたくしの問題だ。
父の領分は父に委ねた。商会の工作はレオンハルトと父が動いている。
婚約の結末は、わたくし自身が決める。
ペン先が紙の上で一瞬止まり、また動き出した。
窓の外では、日が高く昇り始めていた。