作品タイトル不明
エピローグ
鏡の前に立ったわたしは、ゆっくりと息を吐いた。
白を基調にした婚礼衣装。細やかな刺繍が光を受けて控えめにきらめき、長いヴェールが肩から背へ流れている。
鏡の中の女は、思っていたよりずっと綺麗だった。
「綺麗」
思わず口から漏れた言葉に、自分で少し笑う。
いや、綺麗だ。
我ながら、そう思う。
背筋を伸ばし、顎を少し上げる。幼い頃から叩き込まれた立ち姿。文官として働く中で身についた落ち着き。
そして、ここまで積み重ねてきたもの。
全部が今のわたしを作っている。
レオン、なんて言うかしら。
驚くかもしれない。
たぶん、ものすごく褒める。
いや、あの人のことだから、緊張しすぎて言葉が飛ぶかもしれない。
そう考えると、自然と口元がゆるんだ。
「早く見せたい」
ぽつりと呟いて、指先で髪を整える。
けれど、その瞬間。
鏡の奥に、もう一人の自分が見えた気がした。
あの頃の自分、テリウスと婚約していた頃の。
胸の奥が、ちくりと痛む。
婚約破棄の判断は間違っていなかった。
あの人は婚約者としてふさわしくなかった。
優柔不断で、周囲に流され、肝心な場面で支えてくれない。
今なら、冷静にそう言える。
けれど。
「傷つかなかったわけじゃないのよ」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
テリウスの病弱な従妹。一度、町で出会った。
美しさも、気品も、家格も、財力も。
すべて、わたしの方が上だった。
そう、思っていた。
なのに、テリウスは、あちらを選んだ。
心の奥深くに、誰にも見せたくない傷が残った。
まるで、自分という存在そのものを秤にかけられ、「お前ではない」と言われたような感覚。
惨めだった。
悔しかった。
プライドが、ずたずたになった。
でも、それを見せるのはもっと嫌だった。
だから平然としてみせた。
冷静に切り捨てたふりをした。
平気です、と。
わたしは困りません、と。
自分の価値を証明したくて、文官試験を受けた。
合格した。
その時は、少し誇らしかった。
王宮でも輝くと。
けれど現実は甘くなかった。
周囲は全員、合格者。
優秀な者たちの集まり。
自信なんて、あっという間に消えた。
できると思っていた、も違った。
わたしなんて、埋もれてしまった。
自分が恵まれていたことを知った。
周囲が助けてくれていたことを知った。
ほんと、あの頃のわたしに言いたい。
現実を見なさいって。
今になって思えば、わたしは勘違いしていたのだ。
実家で父の仕事を手伝っていた頃。
わたしは、自分はできる人間なのだと思っていた。
父の執務室へ出入りし、来客予定を確認し、手紙を書き、数字の確認をする。
ときには父の代わりに簡単な手紙を書くこともあった。
周囲も褒めた。
『エリー様はお優秀ですな』
『さすが旦那様のお嬢様です』
その言葉が嬉しかった。
テリウスとの婚約中でもあったから、なおさらだった。
両家を繋いで二人でより発展させる。
そう思っていた。周囲も期待している。そう思っていた。
あれは、父が懇意にしている地方貴族とのやり取りだった。
領地の橋の修繕費をめぐる話で、こちらが少し資金援助をする代わりに流通の便宜を受ける。
そんな内容だった。
「エリー様、返書をまとめていただけますか」
そう頼まれた時、わたしは胸を張った。
「ええ、もちろん」
机に向かい、さらさらとペンを走らせる。
理屈は通っている。条件も公平。
わたしは少し得意になっていた。
けれど、その時だった。
「お嬢様」
低く落ち着いた声。
振り向くと、家令のグレアムが立っていた。
白髪交じりの髪。皺の深い顔。口うるさくて、いつも正論ばかり言う老人。
幼い頃から、どうにも苦手だった。
「なに?」
「少々、拝見しても?」
「別に構わないけれど」
差し出すと、グレアムは静かに読み始めた。
数秒後。
「少し、言葉を柔らかくいたしましょう」
「必要かしら?」
思わず言葉が強くなる。
「内容は正しいわ」
「ええ」
グレアムは否定しなかった。
「ですが、正しいだけでは人は動きません」
その言葉に、少し腹が立った。
「条件はこちらが上よ?」
「先方は誇り高いご当主です」
淡々と返される。
「支援してやるではなく、共に助け合いたいと見せた方が、長く続きます」
「でも、事実としてこちらが助けるのでしょう?」
「ええ」
グレアムは少し笑った。
「だからこそ、言い方が必要なのです」
そして赤字を入れ始める。
――先方の尽力への感謝。
――橋の重要性への共感。
――双方に利益がある形で。
気づけば、文章はまるで別物だった。
「回りくどいわ」
そう言うと、グレアムは困ったように目を細めた。
「人は回りくどい生き物でございます」
今思えば、あの人は笑っていた。
子供の背伸びを見る大人の顔だった。
それでも当時のわたしは納得しなかった。
細かいことばかり言う、わたしの邪魔をする人。
そのくらいにしか思っていなかった。
けれど、今ならわかる。
あれは教育だった。
そして、守られていた。
もっと後になって、そのことを知る。
文官試験に合格する少し前。
偶然、父とグレアムの会話を聞いてしまった。
「エリー様も、だいぶ形になって参りましたな」
「そうだな」
父が笑っていた。
「お前が後ろでずいぶん直してくれた」
その言葉に、思わず足が止まった。
「いえ。旦那様も何度も先方へ手を回しておられました」
「気づかれないようにするのが苦労だったがな」
二人が笑う。
意味が、わからなかった。
いや。
わかりたくなかった。
「最初の頃など、あの文面のまま送っていたら喧嘩になっていた案件もございました」
「ははは。若いからな」
父の笑い声。
頭が真っ白になった。
わたしは、できていたのではなかったの?
認められていたのではなかったの?
あれは全部……守られていた?
部屋へ戻ってから、しばらく動けなかった。
悔しかった。
恥ずかしかった。
惨めだった。
でも同時に、思ったのだ。
それでも誰も笑わなかった。
見捨てなかった。
父も、グレアムも使用人たちも。
わたしが未熟だと知りながら、少しずつ前へ出してくれていた。
王宮で挫折した時、ようやく腑に落ちた。
わたしは一人で立っていたのではない。
支えられていた。
守られていた。
王宮へ出た時、初めてわかった。あの日々が、どれほど手厚いものだったか。
だから、一人になった王宮では必死だった。
ついていくだけで精いっぱいだった。
「あの頃のわたし、感じ悪かったでしょうね」
苦笑が漏れる。
そんな時だった。
婚約者候補として紹介されたのが、レオンだった。
正直に言えば、第一印象は最悪に近い。
もっさりした田舎者そのものだった。
緊張でおどおどして。
目もろくに合わせられず。
「ぼ、僕なんか嫌なら……その、断ってください」
情けないくらい小さな声。
思い出して、思わず吹き出した。
「本当に失礼なこと思っていたわね、わたし」
どうでもいいと思った。
適当に愛想よくして終わるつもりだった。
気づいたのはいつだろう?なにがきっかけ?
目が離せなくなっていた。
服装が少しずつ洗練されていく。
話し方が変わっていく。
自信がついていく。
王都育ちの男たちが横並びにいる中で、むしろ素材の良さが目立ち始めた。
よく見れば、顔立ちだって整っている。
姿勢も良い。声も落ち着いている。
そして何より、あの人は、ずっとわたしを見ていた。
まっすぐに。
疑いなく。
まるで、世界で一番価値のあるものを見るみたいに。
わたしが一番だと。
それが、どれほど心を救ったか。
知らないうちに、凍っていた場所が溶けていった。
高官が彼に目を付けた時は、少し怖かった。
上には上がいる。
商会の後ろ盾。
将来性。
力。
自分など比べ物にならない。
そう思った。
けれどレオンは変わらなかった。
わたしを見た。
いつだって、わたしだった。
「ありがとう」
鏡の中の自分へなのか。
彼へなのか。
わからないまま、そっと呟く。
この幸運を。
この人を。
大事にしていこう。
そう決めている。
コンコン。
扉が叩かれた。
「エリー様、お時間です」
侍女の声だ。
「ええ、今行くわ」
そう返事をして、最後に鏡を見る。
少しだけ緊張している顔。
でも、大丈夫。
もう、あの頃のわたしじゃない。
扉へ向かいながら、ふと胸が高鳴った。
式場で待つ人の顔を思い浮かべる。
きっと……ものすごく、驚く。
そして真っ赤になって。
困ったように、でも必死で褒めるのだ。
『き、綺麗です……その、すごく』
そんな声が聞こえた気がして、思わず笑ってしまった。
「さて……あなたの顔を見に行こうかしら、レオン」
胸を張って、わたしは扉を開けた。