作品タイトル不明
【幕間】『玉座の算段と、待ち受ける無限の衣裳部屋』
帝都の喧騒から隔絶された、皇宮の 静謐(せいひつ) な執務室。
分厚い絨毯が敷かれ、壁一面の書架が歴史の重みを無言で主張するその空間に、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声が響き渡っていた。
「がっはっはっは! 空を飛んだだの、見えざる雷を落としただの、果ては魔法の茶室で洗脳だと!? いやはや、民の想像力というものは実に愉快だな!」
北壁への「お忍び視察」から帰還したばかりの皇帝ゼノンは、手に持った一枚の粗末な瓦版を指差し、肩を揺らして大笑いしていた。
その向かいで留守を預かっていた宰相アルバートは、主君の豪笑にも表情一つ変えず、静かに銀縁眼鏡のブリッジを押し上げた。カチャリという微かな金属音が、ゼノンの笑い声をスッと遮る。
「……陛下、笑い事ではございません」
アルバートのレンズの奥で、灰色の瞳がギラリと 怜悧(れいり) な光を放った。
「このような荒唐無稽な噂が広まることは、通常であれば国政のノイズとなります。……ですが、今回の件に限っては、これは使えます」
ゼノンの笑みがスッと消え、絶対的な権力者としての鋭い眼差しがアルバートを射抜く。
「ほう? 使える、か」
「はい」
アルバートは瓦版を机の上に置き、その皺を丁寧に伸ばした。
「この『神格化された軍師の偶像』を、あえて訂正せず、放置いたします。いや、むしろ水面下で 尾鰭(おひれ) をつけて流布させ、公式なプロパガンダとして祭り事(政治)に組み込むのです」
アルバートの指先が、瓦版に描かれたデフォルメされた軍師の絵をトントンと叩く。
「彼女を単なる『知恵者』ではなく、帝国の繁栄を約束する『天意の代行者』として民の心に定着させる。そうすれば、帝国に仇なそうとする無用な反乱分子は、見えざる雷を恐れて震え上がり、民の心は『天翼の軍師』という強力な象徴のもとに、かつてないほど強固にまとまりましょう」
ゼノンは腕を組んで黙考した。
民の熱狂をそのまま帝国を強固にするための「接着剤」として利用する。まさに宰相らしい血の通わない、しかし極めて効率的な計算だ。
「……うむ」
やがてゼノンの口角がゆっくりと、ひどく悪い形に吊り上がっていった。
「あの者が知ったら、『やめてください! 私を何だと思ってるんですか!』と、あの小さな頭を抱えてしまいそうだがな」
「これも国益のため。軍師殿には、少々割を食っていただきましょう」
大国を回す二人の男の視線が交差し、その思惑が完全に一致した。
彼らの頭の中ではすでに、帰還する軍師をどのように「祭り上げ」、最大限に利用するかという大人たちの悪巧みが音を立てて組み上がり始めていた。
◇◆◇
一方、静謐な執務室とは対照的に、皇妃セレスティーナのサロンは甘く濃厚な香水と華やかな熱気に満ちていた。
ふかふかのソファに身を預けたセレスティーナの手元には、街で出回っている瓦版ともう一つ……侍女長クララから密かに送られてきた数枚の精緻なスケッチ画が広げられている。
そこに描かれていたのは、あの荒野に設えられた『茶室』の様子と、リナが考案したという曲線を一切使わずに布を巻き付ける未知の衣装――『ワフク(和服)』のデザイン画だった。
「まあ……」
セレスティーナはスケッチ画に描かれた『ワフク』を着たリナの想像図を見つめ、陶然と息を吐いた。
「あんなに小さな身体で、冷たい北の荒野で、恐ろしいバケモノたちと戦ってきたなんて。……本当に、健気で愛おしいこと」
彼女の美しい青い瞳が、妖艶に細められる。
「帰ってきたら、たっぷりと癒やして差し上げませんとね……うふふふ」
セレスティーナの言う「癒やし」。
それは、周囲の侍女たちがよく知る世にも恐ろしい「無限着せ替えイベント」の開幕を意味していた。
パンッ!
セレスティーナが優雅に扇子を鳴らすと、控えていた侍女たちが一斉に背筋を伸ばした。
「急いで、帝都中の最高級の絹、それも今までにないような色柄のものを集めなさい!」
皇妃の指示が、サロンの空気を一気に戦場へと変える。
「この『ワフク』という未知の衣装をあの子に一番似合うサイズで、何十着……いえ、何百着でも仕立てるのです! 髪飾りも帯というものも、最高の職人を呼んで作らせなさい!」
「は、はいっ! 皇妃殿下!」
「うふふ……。凱旋の夜は、朝まで徹夜でお着替えですわよ」
満面の笑みで放たれたその言葉は、どんな拷問よりも恐ろしい、愛に満ちた宣告だった。
サロンの侍女たちは、来るべき「軍師様のお着替え(生贄)の宴」に向けて、血走った目で布地の手配へと走り出していった。
◇◆◇
帝都でそんな「神格化の利用」と「着せ替えイベント」が待ち受けているとは露知らず。
遠く北の荒野。
戦後処理を粗方終え、建設中の『道の駅』に併設された仮設の宿舎へと向かう馬車の中で。
「へっっくちゅ!」
リナは不自然な大クシャミをした。
鼻をこすりながら小首を傾げる。
「……なんだか、帝都の方角から、とてつもなく嫌な悪寒がするんですけど……」
ブルッと身を震わせるリナ。その背筋には、見えない巨大な手が伸びてくるような、底知れぬプレッシャーが走っていた。
「お風邪ですか? いけません、もっと着込みましょう」
向かいに座っていたセラが、すかさず心配そうな顔をして立ち上がった。
「いや、そうじゃなくて、なんだか背中がゾクゾクっと……」
「いけません。北の風を舐めてはなりませんよ」
リナが抗議する間もなく、セラは手際よく分厚い毛布を広げ、リナの身体にぐるぐると巻き付けていく。
「あ、あの、セラさん? ちょっと、苦し……」
「まだ足りませんわね。ヴォルフラム、そちらのショールも」
「はっ!」
あっという間にリナは首から下を何重にも毛布とショールで巻かれ、完全に身動きの取れない真ん丸な毛玉のような状態にされてしまった。
「むー……」
毛玉の中から、不満げなリナの顔だけがちょこんと覗いている。
だがその不満も、馬車の心地よい揺れとセラたちの温かい過保護な愛情の前に、次第に溶けていく。
帝都で待ち受ける大人たちの恐ろしい悪巧みを知らぬまま。
丸い毛玉となった小さな軍師は、しばしの安息を求めて平和な帰路につくのだった。