作品タイトル不明
第368話:『三将の突出、老狼の罠』
風が止んだ。
荒野の静寂を破るのは 数多(あまた) の人間が発する荒い呼吸と鎧が擦れる乾いた音だけだった。
「進めぇッ! 貴様ら何をしておるか!」
クルガンの怒号が雷鳴のように響き渡る。
だがその声は虚しく大地に吸い込まれていった。彼の背後に広がるはずの黒い大波は完全に押しとどめられていた。見えざる死神の恐怖と左右の丘陵を埋め尽くす白銀の帝国軍が放つ無言の威圧。それが覇国軍の兵士たちから一歩を踏み出す意志を根こそぎ奪い去っていたのだ。
その巨大な停滞の中でクルガンと三将軍――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァ――の直属部隊だけがまるで干上がった川底に取り残された魚のように平原の中央で孤立して浮き上がっていた。
(……冗談じゃねえ)
ボルガスの巨躯が脂汗で不快に濡れていた。
(後ろの奴らが動かねえのにこのまま俺たちだけ突っ込んでも帝国の盾にすり潰されるだけだ。犬死にじゃねえか!)
ゾルヴァーグもユルヴァも同じように顔を強張らせ背後の本隊と前方に立ち塞がる北辰同盟の陣列を落ち着きなく交互に見やっていた。彼らの配下の戦士たちでさえ将軍たちの逡巡を察しじりじりと後ずさりを始めている。
「……ええい帝国の犬どもめッ! 我らを怯えさせたとでも思っているのか!」
クルガンが大剣を天に突き上げ左右の丘陵へ向かって吼えた。その声には苛立ちと自らの威信が崩れ去っていくことへの焦燥が入り混じっている。
その時。
前方の北辰同盟の陣から一頭の馬が進み出た。
バラクだった。
彼は単騎で平原の中央へと進み出ると余裕の笑みを浮かべてクルガンを見据えた。
「がっはっは! 何を吠え面をかいておるクルガンよ」
その声はかつて彼に恭順を誓った老人のそれではない。荒野を生き抜く古狼の鋭く深い響きだった。
「帝国軍にあれこれと文句をたれておるがお前さんの相手はわしら『北辰同盟』よ。……帝国軍はな、ここで我々が貴様を討ち果たすのを特等席で見届けに来ておるだけじゃ」
その言葉にクルガンだけでなく三将軍の動きもピタリと止まった。
(……見届けに来ているだけだと?)
ボルガスがギラリと目を光らせた。
確かによく見れば帝国軍は陣形を崩す気配がない。手を出せば不要な血を流す。彼らにとってここで北の蛮族同士が殺し合うのを高見の見物と決め込むのは理にかなっている。
(ならば……)
ゾルヴァーグが蛇のように舌なめずりをした。
(目の前の生意気な族長どもをここで血祭りにあげてしまえば良いのだ。あの老いぼれどもが死ねば北の同盟とやらは瓦解する。……我々の勝利だ)
ユルヴァもまた妖艶な笑みを浮かべて頷いた。
帝国軍の目の前で北辰同盟の長たちを惨殺する。そうすれば帝国も迂闊に手出しはできまい。何よりこの窮地を脱し自らの立場を不動のものにする最高の好機だ。
「――ふん。よく吠える老いぼれどもだ」
ボルガスが馬を進め巨大な戦斧を肩に担ぎ直した。
「そっちも三人。こちらも三人だ。……わざわざ兵の血を流すまでもない。我らが直接貴様らに引導を渡してくれよう!」
「……クックック。面白い」
その時、背後のクルガンが喉の奥で 嗤(わら) った。彼は背後の無様な自軍への苛立ちを隠しもせず、しかし血に飢えた目で三将軍を見下ろした。
「良かろう。貴様らが俺の剣となる価値があるか、ここらで試してやる。……あの三匹の首を俺への貢物として転がせ。それができぬようなら、貴様らの首を一つずつ、この俺が叩き落としてやるからな」
覇王の吐き捨てた言葉は、単なる命令ではなく明確な死刑宣告だった。
「……! お、お任せを、覇王陛下! 瞬きする間に終わらせてご覧に入れます!」
ゾルヴァーグが上擦った声で叫び、三将軍は背後から突き刺さる殺意に急き立てられるように武器を構えた。こうなっては彼らにも退路はない。
その挑発と殺気に満ちた気配に、バラクの背後からゴードとエルラが進み出た。
二人の瞳には、長年の屈辱を晴らすべく燃えるような闘志が宿っている。
丘の上の本陣からその様子を見つめていたリナはハッと息を呑んだ。
(駄目ですバラク殿! 彼らの挑発に乗る必要はありません。このまま持久戦に持ち込めば敵は自壊する……!)
彼女は目で必死に訴えかけるがその思いはバラクには届かない。
いや届いていたのかもしれない。
だがバラクの決意は揺るがなかった。
(……すまんな軍師殿。ここで尻尾を巻いて帝国に守られていてはこの先北の民を束ねることなどできんのだ)
彼は自らの部族の未来と北の誇りをその背に負っていた。
バラクは振り返り傍らに控えるアランの肩を強く叩いた。
「……万が一の時はお前が皆をまとめるんだぞ」
「父上……!」
アランが悲痛な声を上げるが、バラクはニヤリと笑って背を向けた。
両軍が砂塵を隔てて睨み合う広大な平原。
バラクたちは無言で馬の腹を蹴り、味方の陣列から離れてゆっくりと歩を進めた。覇国軍側からも、三将軍の乗る馬が進み出てくる。
多くの兵士たちが見守る中、両者はただ無言で距離を詰めていく。相手の姿が次第に大きくなり、やがて互いの鎧の傷や、忌々しい顔のシワまでもが視認できる距離に達した。
六騎の馬がピタリと止まる。
「さあ来い! 驕りに満ちた豚どもよ! 北の真の牙がどれほどのものか、その身に刻んでやるわ!」
バラクが腹の底から吼え、躊躇いなく鞍から飛び降りた。
騎乗の利を捨て、自らの二本足で大地に立つ。それは騎馬の民にとって、「退路を断ち、この地に骨を埋める」という絶対の意思表示だった。ゴードとエルラもまた、己の愛馬の首を一度だけ優しく叩き、無言で馬を下りる。
三人は、それぞれの獲物を手に、さらに前方へと歩みを進め始めた。
ズッ、ズッ、と乾いた大地を踏みしめる彼らの足音には、一点の迷いもない。ゴードは巨大な 戦槌(ウォーハンマー) の柄を握り直して長年の屈辱を噛み砕くように睨み据え、エルラは二刀の曲刀をだらりと下げたまま、能面のような顔の奥で静かな殺意を研ぎ澄ませている。
迎え撃つ覇国側の三将軍もまた、忌々しげに舌打ちをして馬から降り立った。
だが、彼らの足取りはどこか焦燥に急き立てられていた。ボルガスの巨大な戦斧が荒々しく土を抉り、ゾルヴァーグが神経質に舌なめずりをしながら毒の塗られた双刃を弄ぶ。ユルヴァは妖艶な笑みを浮かべつつも、その視線はチラチラと後方を気にしていた。
もしここで手間取れば、自分たちの首が覇王の剣で落とされる。極限のプレッシャーが、彼らの闘志を泥のように濁らせている。
これまで散々虐げてきたはずの辺境の老いぼれども。だが、彼らの目には死への恐怖がなく、むしろ自分たちを「哀れな獲物」として見透かしているかのような底知れぬ静けさがある。
(……なんだ、この目は。背後の帝国軍を頼りにしているのか!? いや……)
その得体の知れない気迫を振り払うように、ボルガスが怒りの咆哮を上げて歩調を速めた。
風が、砂塵を巻き上げて二つの勢力の間を通り抜けた。
互いの息遣いが混じり合う、絶対の 死合(しあい) の間合い。
六人の戦士たちの足が、同時に大地を踏みしめ、ピタリと止まった。