軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第360話:『狂王の夜宴、岩窟の孤影』

北の冷たい風が巨大な獣皮の天幕を無遠慮に叩いていた。

しかし覇王クルガンの居所であるその内側は、外の寒気など存在しないかのようなむせ返るほどの熱と脂の匂いに満たされている。

「――がっはっはっは! 見たか! 俺が先頭に立った途端あの忌々しい『見えざる呪い』とやらもピタリと止みおったわ!」

クルガンが黄金の杯を高く掲げ獰猛な笑い声を響かせた。

「帝国だろうが天翼だろうが俺の覇気の前に恐れをなして手も足も出まい! 呪いなど所詮は弱者の言い訳よ!」

「全くだ! 覇王陛下の威光の前には見えざる敵も震え上がって逃げ出す始末!」

巨漢のボルガスが骨付き肉を貪りながら口の端を脂で汚して同調する。

「陛下さえ先陣におわせば南の老いぼれどもなど我が部隊が一捻りでございますよ、ヒヒッ」

ゾルヴァーグが毒虫のように目を細めて追従しユルヴァも気だるげに杯を傾けながら妖艶な笑みを向けた。

天幕の中は実体のない勝利の予祝と空虚な太鼓持ちの言葉でどす黒く煮え立っていた。

そこへ重い足音が近づき天幕の入り口の幕が乱暴に跳ね上げられた。

吹き込んだ冷たい夜風が炎を大きく揺らす。

現れたのは『岩窟の民』族長ガルドだった。

その使い込まれた革鎧は土埃にまみれ、深い緑の瞳には宴の熱気とは対極にある氷のような疲労と焦燥が色濃く刻まれていた。

「……遅いぞガルド。どこで油を売っておった」

クルガンが不機嫌そうに顎をしゃくる。

ガルドは無言で差し出された杯を無視し、静かにだが重く響く声で口を開いた。

「……後方部隊の状況が芳しくありません」

その一言で天幕の空気がわずかに冷えた。

「食料の備蓄が底を突きかけています。配給が滞り飢えた兵たちの間に暴動の兆しすら見え始めている。加えて見えない敵への恐怖が完全に抜けきっておらず夜逃げを図る者も後を絶ちません。……このままでは敵とぶつかる前に軍が内側から自壊します」

ガルドは鋭い視線を巡らせ眉をひそめた。

「……ヴィクトル殿の姿が見えませんが。この崩壊寸前の 輜重(しちょう) と士気をいかに立て直すおつもりか参謀の意見を伺いたい」

その問いに将軍たちの間からあからさまな嘲笑が漏れた。

「ガハハ! あの青白い優男か? 決戦が近づいて恐れをなして尻尾を巻いたのだろうよ!」

ボルガスが腹を揺らして笑う。

「口先だけの臆病者でしたからねぇ。姿が見えないならそういうことです。まあ気になさるなガルド殿。我々が陛下の両腕として全て解決してご覧に入れますから」

ゾルヴァーグが、いない参謀を貶めながらクルガンへ媚びるような視線を送った。

クルガンは舌打ちをし杯の酒を呷った。

彼にとって、自らの武威に酔いしれるこの瞬間に食料だの士気だのと小言を並べるガルドの存在はひどく目障りだった。実直すぎるその眼差しがまるで己の足元の脆さを指摘しているようで、腹の底が煮え返る。

「……ええい鬱陶しい!」

クルガンは空になった杯を卓に叩きつけた。

「飯がねえなら戦で勝って南の奴らから奪えば済むことだ! 逃げる腰抜けなど放っておけ。どうせ足手まといだ」

「しかし陛下。軍の体を成していなければ――」

「黙れガルド!」

クルガンが立ち上がり圧倒的な覇気でガルドを見下ろした。

「後方の烏合の衆が騒ぐというならお前がその首輪をしっかり握っておけ! あの役立たずどもの管理は全てお前に任せる。……俺の視界をこれ以上煩わせるな!」

それは将としての進言を完全に切り捨て厄介事を丸投げする暴君の宣告だった。

ガルドはギリッと奥歯を噛み締めそれ以上何も言わずに深く一礼して天幕を後にした。

◇◆◇

幕をくぐり抜けた瞬間荒野の凍てつく風がガルドの全身を打ち据えた。

背後からは再び下品な笑い声と酒を煽る音が漏れ聞こえてくる。

だが眼下の闇に広がる野営地から聞こえてくるのは勝利の鬨の声ではない。腹を空かせた兵達の恨み声、寒さに震える者たちの呻き、そしてどこへ向かっているのかも分からない絶望の溜息だった。

「……これが俺の信じた『秩序』の果てか」

ガルドは誰もいない闇に向かってぽつりと呟いた。

軍を支えるべき食糧はなく、兵を導くべき将は保身と虚栄に溺れ、頭脳であるはずの参謀は影も形もない。

この巨大な軍勢はすでに底の抜けた泥舟だった。

彼は夜空を見上げた。

雲の切れ間から冷たい星の光が瞬いている。

(……バラクよ)

かつて焚火を囲み共に北の未来を語り合った古い戦友の皺深い顔が脳裏に浮かぶ。

明日その戦友と刃を交えなければならない。

この腐り落ちた泥舟の最後尾に立ち己の部族を守るためだけに無意味な行軍を続ける自分。

(お前の目には……俺たちが今どう映っているのだ)

ガルドは腰の剣の柄を固く握りしめた。

その手は怒りでも寒さでもなく行き場のない喪失感に微かに震えていた。

決戦の夜明けはもうすぐそこまで迫っていた。