作品タイトル不明
第359話:『虚構の威光、裸の覇王』
夜の底を這うような厳しい冷気が赤茶けた荒野に霜を降らせていた。
東の地平線が白らみ、昇り始めた太陽が薄明るい光を大地に投げかけている。光を浴びた肌には微かな温もりが宿るが、日陰を吹き抜ける晩秋の風はまだ刃のように冷たく頬を刺した。
前日、得体の知れぬ「見えざる死」によって無惨な肉塊が撒き散らされた最前線の跡地。黒く乾いた血痕が残るその死の領域を前に、ヴォルガルド覇国の数万の軍勢は息を殺して立ちすくんでいた。
「――道を空けろォッ!!」
その凍りついた静寂を地鳴りのような咆哮が切り裂いた。
巨大な黒馬を駆り、覇王クルガンが軍の最前列へと進み出る。その分厚い胸板を反らせ、肩に担いだ大剣が朝の光を鈍く反射していた。
彼の背後では三将軍であるボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァをはじめとする親クルガン派の族長たちが、まるで主君を巨大な肉の盾にするかのようにぞろぞろと身を縮こまらせて付き従っている。誰の目にも彼らが前に出ることを極度に恐れ、クルガンの背幅に隠れようとしているのは明らかだった。
「俺が呪いを粉砕してやる! 見ておれ!」
クルガンは振り返り、後方の兵たちへ向かって豪語した。
だが再び前へ向き直り、愛馬の腹を蹴ってあの「死の領域」へと足を踏み入れようとした瞬間――。
クルガンの背筋を氷水のような悪寒が舐め上げた。
(……ヴィクトルの言葉に乗せられて出てきたが……)
音もなく、何の前触れもなく、強固な鎧ごと半身がトマトのように弾け飛んだら。
(もし……もし俺も、一瞬で肉塊に変えられたら……?)
クルガンの手が無意識のうちに大剣の柄をギリィッと握りしめた。革の柄巻きが軋む。分厚い首筋を冷や汗が一筋伝い落ち、冷たい風に吹かれてヒヤリと体温を奪った。
彼は血走った黄色い瞳を限界まで見開き、見えない死神が潜むであろう南の空を牙を剥き出しにして睨みつけた。威嚇ではない。それは極限の恐怖からくる獣の防衛本能だった。
一歩。また一歩。
馬の蹄が乾いた土を踏みしめる音だけが不気味に響き渡る。
張り詰めた緊張の糸がギリギリと音を立てて引き伸ばされていく。数万の兵士たちは、次の瞬間に覇王が血飛沫となって空中に散るのではないかと固く目を閉じ、あるいは息を止めてその背中を見つめていた。
十歩。五十歩。百歩。
クルガンは前日の犠牲者が倒れたラインを完全に越えた。
――だが何も起きなかった。
風が吹き抜けるだけだ。
何も起きない現実。
重く垂れ込めていた雲がふっと切れ、朝の柔らかな陽光が、平原の中央で立ち尽くすクルガンの巨躯をまるでスポットライトのように照らし出した。
その瞬間だった。
「お、おおおおっ……! さ、さすがは覇王陛下!!」
クルガンの背後で縮こまっていたボルガスが 堰(せき) を切ったように大仰な歓声を上げた。
「見たか! 見えざる呪いも陛下の覇気の前に恐れをなして逃げ散ったわ!」
「ヒヒッ……素晴らしい! やはり我らの先陣を導き、この北を統べるのは陛下をおいて他におりませぬなぁ!」
ゾルヴァーグが揉み手をしながら甲高い声で叫び、ユルヴァも大げさな安堵の笑みを浮かべて拍手をおくる。
彼らの本音はただ一つ。「これで自分たちが先頭を死地へ歩かされずに済んだ」という心底からの安堵である。
だがその見え透いた保身のおだては、先程まで極度の恐怖に冷や汗を流していたクルガンの耳に極上の甘露となって注ぎ込まれた。
(……そうだ。そうだ! 俺の力が平伏させたのだ!)
一瞬前までの恐怖が反動で極大な自己陶酔へとひっくり返る。
クルガンは天を仰ぎ、大剣を陽光に向けて高く掲げた。
「がっはっはっは!! 見たか! 俺は神をも超えたのだ!!」
その傲慢な高笑いが荒野に響き渡る。
三将軍の芝居がかった歓声に乗せられ、後方の兵士たちの中にも「これで死なずに済む」という安堵から覇王を讃える声が上がり始めた。極限のストレス状態にあった彼らは、この不条理な恐怖から自分たちを救ってくれる「絶対的な存在」をただ盲目的に求めていたのだ。
熱狂は雪崩のように広がり、数万の軍勢が狂信的な喚声を上げて再び南下を始める。
だがその「熱狂」はあまりにも薄っぺらい虚構だった。
◇◆◇
日が西へと傾き始め、荒野の影が長く不吉に伸び始めた頃。
日中の微かな温もりは急速に失われ、骨の髄まで凍りつくような冬の底冷えが再び大地を覆い始めていた。
「覇王陛下、万歳!」
前衛を行くクルガンと三将軍の周辺だけが、まるでそこだけ季節が違うかのように空虚な熱気に浮かされて馬鹿騒ぎを続けている。自分たちが無敵の軍団であると錯覚したまま。
しかしその後方。
『岩窟の民』を率いて軍の後方を歩むガルドの深緑の瞳には全く別の光景が映っていた。
ガシャァンッ!
少し前方を歩いていた 輜重(しちょう) の荷車が鈍い音を立てて傾いた。
車軸が見事に折れ、荷台に積まれていた麻袋が地面に転げ落ちる。袋の底は不自然にほころびており、中から貴重な穀物が乾いた土の上へ無残にぶちまけられた。
「ああっ! クソッ、またかよ!」
護衛の兵士が忌々しげに舌打ちをする。
ガルドは目を細めた。
その壊れた荷車の周囲をみすぼらしい格好をしたカナンの下働きたちが、申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながら、しかし一切の手伝いをすることなく通り過ぎていく。
エノクの指示による兵站の破壊工作は、音もなく、だが致死の精度で完了していた。
帳簿上の数字は改ざんされ、実際の備蓄は底を突き、運搬手段すら次々と「不慮の事故」で失われている。
急激に下がる気温の中、後衛の兵士たちの顔には前衛の熱狂など微塵も届いていない。
彼らの頬はこけ、目は虚ろに濁り、ただ寒さと飢えに身を震わせながら、機械のように足を前に出しているだけだ。隣の者が倒れても、誰も助け起こそうとしない。己の体温を維持するだけで精一杯なのだ。
(……なんという有様だ)
ガルドは前衛から響いてくる空虚な笑い声と、目の前で静かに死を待つ兵士たちの姿を交互に見やった。
この軍はもう死んでいる。
頭だけが空虚な熱に浮かされて叫び声を上げているが、胴体はすでに腐り落ち、内臓を食い荒らされた巨大なゾンビでしかない。
ガルドは手綱を握る手を離し、自らの懐へとそっと手を差し入れた。
分厚い革鎧の下で、その指先が密かにバラクから託された『紫の紐の袋』に触れる。息子の命を救い、北の未来を示す温もり。
狂王が支配する死の泥舟と、古狼が示した未来の温もり。
その二つの間で彼の実直な魂は深い絶望と喪失感に苛まれていた。
だがこのまま黙って共に沈むわけにはいかない。
(……狂った夢から目を覚まさせねばならん)
ガルドは懐から手を引き抜き、決意の固まった目で夕闇の彼方で馬鹿騒ぎを続ける本陣の天幕を睨み据えた。
今夜、クルガンにこの崩壊の事実を突きつける。それが最初の剣として覇王に忠誠を誓った自分の最後の務めだ。
太陽が完全に地平線の下へと沈み、北の荒野にすべてを凍らせる漆黒の夜が訪れようとしていた。