軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第334話:『惰弱の宴、届かぬ号令』

ヴォルガルド覇国の本拠地、『黒の宮殿』。

外では、凍てつく北の風が悲鳴のように吹き荒れ、黒いゲルを容赦なく叩きつけていた。だが、その分厚い獣皮に守られた内部は、外の極寒が嘘のような、むせ返るほどの熱と退廃的な空気に満ちていた。

巨大な焚火には、惜しげもなく香木がくべられ、甘く、頭を芯から痺れさせるような濃密な煙が漂っている。炎の上で炙られた巨大な獣の肉から、脂が滴り落ちてはジュウと音を立て、胃の腑を刺激する匂いを撒き散らしていた。

ダンッ!

その堕落した空気を切り裂くように、玉座から乾いた音が響いた。

覇王クルガンが、苛立たしげに肘掛けを殴りつけたのだ。

彼の足元には、各地の部族から届けられた紙束が、ゴミのように散乱している。

「……どいつもこいつも、寝言ばかり並べおって」

クルガンの黄色い瞳が、足元の紙束を忌々しげに睨みつける。

『病の呪いが未だ癒えず、出兵は困難』

『病による死者を弔う期間ゆえ、今しばらくの猶予を』

どれもこれも、彼が下した『バラク討伐令』に対する、もっともらしい言い訳と延期の懇願ばかりだった。

ヴィクトルの策により、「バラクは民を毒牙にかけた逆賊」という大義名分は全土に浸透したはずだった。それにもかかわらず、諸部族の動きは致命的に鈍かった。

「――ボルガス! ゾルヴァーグ! ユルヴァ!」

クルガンは、玉座の下で思い思いにくつろぐ将軍たちを怒鳴りつけた。

「小部族どもが使えんのなら、貴様らが行け! あの老いぼれの首を刎ね、南の拠点を完全に掌握してこい!」

だが、その絶対的な号令に対する反応は、クルガンの予想を裏切るものだった。

「ガハハ! 覇王様、そう急ぎなさんな」

山のように積み上げられた毛皮の上で、ボルガスが巨体を揺らして笑った。彼は、かつてカナンから奪ったであろう極上の絹のクッションに寝そべりながら、大杯に注がれた葡萄酒を煽っている。

「あんな貧相な辺境の爺の首一つ獲るために、わざわざ俺たちの精鋭があんな荒野に出向く価値があるか? 獲るモンもねえド田舎だぞ」

「ヒヒッ……ボルガス殿の言う通りですよぉ」

部屋の隅の影で、ゾルヴァーグがねっとりとした声を上げる。彼は大粒の宝石を光に翳し、恍惚とした目で弄んでいた。

「ただの『毒殺魔』の老いぼれです。放置しておけば、いずれ身内に首を刎ねられるか、帝国にすり潰されるのがオチ。……わざわざ私の愛しい刃を汚すほどの獲物ではありませんな」

「それに、交易網からはすでに弾き出してやったじゃないか」

ユルヴァが、長いキセルから甘い煙を吐き出しながら、気だるげに言葉を継ぐ。

「物流を絶たれ、孤立した部族なんて、冬を越せずに干からびるさ。放っておけば、そのうち泣きを入れてくるよ。……兵を動かすのは、その時で十分だねぇ」

クルガンは、ピクリと眉を吊り上げた。

かつて、わずかな肉と草を求めて、死に物狂いで荒野を駆け回っていた彼らの姿は、もうそこにはない。

『覇国』という巨大な檻の中で、他者から搾取することの甘い蜜を覚え、温かいゲルと美味い酒に浸り続けた結果。彼らの中にあった、飢えた狼のようなハングリー精神は、削ぎ落とされていっていた。

「実害のない労力」を嫌い、確実な利益がなければ動こうとしない、肥え太った豚のような怠惰。それが、今の覇国の将軍たちの実態だった。

「……貴様ら、腐ったか」

クルガンが、ドス黒い殺気を放ちながら立ち上がろうとした、その時。

「――彼らの言う事にも一理あるかと。覇王陛下」

静寂を切り裂くように、ヴィクトルが氷水のような声で進み出た。

彼は神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げると、散らばる紙束を冷ややかな目で見下ろした。

「バラクを逆賊とする風潮は、我々の計算通り、すでに北の全土に浸透しました。奴は完全に孤立無援です。……今、こちらから兵を動かせば、無用な犠牲を払うだけでなく、奴を『帝国との防波堤』として利用する利点すら失います」

「利用するだと?」

「ええ」

ヴィクトルは、薄い唇を三日月の形に歪めた。

「是迄は薬草を糧にでもして、上手く立ち回っておったのでしょう。しかし、今回の事で孤立したバラクは、生き残るために帝国軍と血みどろの戦いを繰り広げるしかない。……今しばらくは、彼ら防波堤として限界まで消耗させ、干からびたところを、我々が悠々と回収する。それが、最も我らの兵の血を流さず、かつ最大の利益を得る『効率的』な道かと存じます」

それは、論理に裏付けられた完璧な「正論」のように思われた。 奇(く) しくも、王国でのロベール伯爵領における反乱の鎮圧、その時リナが提案した「放置戦略」と、ほぼ同じ対応であった。

クルガンは舌打ちを一つすると、不満げに玉座に深く座り直した。

「……ふん。ならば好きにしろ。だが、あの老いぼれが帝国に寝返るような真似を見せたら、その時は貴様の理屈は聞かん。俺が直々に踏み潰す」

「御意に」

ヴィクトルは深く、慇懃に一礼した。

彼のペールブルーの瞳の奥には、盤面を完全に支配しているという優越感が宿っていた。

将軍たちが怠惰に浸っていることなど、彼にとっては些末な問題だ。むしろ、余計な動きをしない駒の方が、管理する側としては扱いやすい。

彼は、自らが構築した「恐怖と情報のネットワーク」が、機能していると信じて疑ってはいなかった。

……そう。

この時、ヴィクトルはまだ気づいていなかった。

彼が「孤立した」と思い込んでいる南の果てで、かつて自分が滅ぼしたカナンの遺民たちと、一人の少女が、彼を呑み込むための見えざる巨大な 顎(あぎと) を、すでに完成させつつあることに。

そして、彼が放った優秀な『影(密偵)』たちが、その顎に向かって自ら歩みを進めていることに。

黒の宮殿を満たす甘い香木の煙が、彼らの嗅覚を鈍らせ、足元から忍び寄る「死の匂い」を完全に覆い隠していた。