軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【ver.改訂前】第283話:『獅子の憂鬱、監査官の矜持』

北壁の砦の朝は、鋼の匂いと、張り詰めた決意の空気で満ちていた。

だが、私の私室だけは例外だった。焼きたてのパンの香ばしい匂いと、湯気の立つミルクの甘い香りが、窓から差し込む柔らかな陽光に溶けている。

その穏やかな食卓で、事件は起きた。

ヘルマンさんが、まるで敵陣への突撃命令でも受けるかのように厳粛な面持ちで、一枚の紙を恭しく掲げた。帝都から届いたばかりの、皇帝陛下の 印璽(いんじ) が押された辞令だった。

彼は一つ咳払いをすると、その内容を朗々と、しかしどこか震える声で読み上げる。私の自由裁量で運用できる活動資金として、当初の要求額の倍にあたる金貨が下賜される、と。

「……はっ?」

カタン、とフォークが皿に落ちる甲高い音が響いた。

私はパンを持ったまま固まり、口元がひくつくのを抑えられない。視線が意味もなく宙を彷徨い、近くの壁の染みを数え始めた。

(……いりませんてば!)

声にならない絶叫が、喉の奥で炸裂する。

(どうしろと!? このお金があれば、孤児院の子供たちに何年分のケーキを買ってあげられると思っているんですか、陛下は!)

脳内で皇子たちに見せられないような大の字で寝転がり、手足をばたつかせている自分の姿が浮かぶ。私は衝動的にテーブルの下で足を組み替えた。

「陛下の御心、ありがたく頂戴いたしましょう」

セラの冷静な声が、私の心の嵐を現実へと引き戻した。

「これでマキナ局長の研究や、皆様の活動も円滑に進みますわね」

(……いや、そういう問題じゃなくて……!)

彼女は私のための資金が増えることを、割り切って喜んでいるらしい。

「さすがはリナ様! 陛下もリナ様のご偉業を、正しくご理解されているのです!」

ヴォルフラムさんの瞳は、もはや潤んでいた。

私一人が、金色の重圧に押し潰されそうになっている。

その、温度差のある朝食が終わりかけた頃、新たな嵐の到来を告げる報せがもたらされた。シュタイナー中将からの緊急の召集命令だった。

◇◆◇

作戦室の重い扉が開き、長旅の疲れなど微塵も見せぬまま、背筋を伸ばした一人の男が入室してきた。

私たちは中将の呼び出しに応じ、『天翼の軍師』の正装で既に席に着いていた。陪席を許されたユリウス皇子たちも、壁際に控えている。

現れた男は、歳は二十代半ばだろうか。貴族らしい端正な顔立ちだが、その肌は青白く、まるで陽光を知らぬかのようだ。糊のきいた襟元は一分の隙もなく、その立ち姿は鞘に収められた抜き身の刃のような、近寄りがたい鋭さを放っている。

だが何より印象的なのは、その瞳だった。冷たい灰色の瞳が、室内を検分するように一瞥すると、最終的に私の仮面に突き刺さった。そこには感情というものが存在せず、ただ物事を分析し、断罪するためだけの光が宿っていた。

帝都からの監査官、アイゼンハルト子爵。

彼はシュタイナー中将に着任の挨拶を済ませると、私に向き直り、一切の敬意を払わぬ事務的な口調で切り込んできた。

「私が予算執行の監査を命じられたアイゼンハルトです。早速ですが、これまでの帳簿と今後の計画案を、全てご提示願いたい」

その声は、帝都の冬の朝のように冷え切っていた。

「一兵卒の食費に至るまで、銀貨一枚の使途も見逃すつもりはありませんので」

その挑戦的な一言で、室内の空気が一瞬で凍りついた。

ヴォルフラムさんの手が、無意識に剣の柄にかかるのが気配で分かる。

「貴様、軍師殿に対して何たる物言いを!」

カッと顔を赤らめたのは、ゼイドだった。

彼は椅子を蹴るように立ち上がり、その手は腰の剣へと伸びかけている。騎士としての純粋な怒りが、その若い顔に燃え上がっていた。

だが、それをユリウス皇子が静かな手振りで制す。彼の顔には怒りではなく、どこか 憐憫(れんびん) に近い複雑な表情が浮かんでいた。

レオン様もまた、眼鏡の奥で面白そうに目を細めている。

(……始まったな)

若き獅子の脳裏に、この旅が始まったばかりの頃の、自分たちの未熟な姿が重なっていた。

私は、彼の挑戦を柳に風と受け流す。

「文句があるなら、全てを決裁された皇帝陛下に直接どうぞ」

銀の仮面の下から響く声は、凪いだ湖面のように静かだった。

「私は陛下の勅命に従うまでです。必要な書類はヘルマンがお持ちします」

私はそれだけ言うと、セラさんたちを伴い、さっさと部屋を退出していく。その背中は、子供の 癇癪(かんしゃく) に付き合う気はないとでも言いたげだった。

取り残されたアイゼンハルトは、屈辱に肩を怒らせながらシュタイナー中将に食ってかかる。

「あの態度は何事です! 監査への非協力は、皇帝への反逆と見なしますが!」

「まあ、まずは落ち着いて、見て、知ることだ。……茶でも、飲むか」

だが、中将は全く取り合わず、どこか楽しげにすら見えた。

アイゼンハルトが部屋を出ていく。その背中を見送りながら、ゼイドがまだ憤りを隠せないでいた。

「あのような無礼な男に……!」

シュタイナー中将はそんな彼を見て、静かに、しかし鋼のように重い問いを投げかけた。

「……では、そなたならどうする?」

「……え?」

「あの男の『正論』に、どう立ち向かう?」

その問いが、ゼイドの心に深く、鋭く突き刺さった。

彼は言葉に詰まり、ただ立ち尽くすしかなかった。