軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【ver.改訂前】間話:『玉座の前の刃』283.5

北壁の砦の空気は、鉄と、規律の匂いがした。

無駄口一つ叩かずに行き交う兵士たち。石畳を打つブーツの音だけが、規則正しく響いている。

監査官アイゼンハルトは、作戦室の窓からその光景を眺めていた。だが、彼の灰色の瞳は、眼下の兵士たちを映してはいない。その視線は、数日前の記憶――帝都の、あの静まり返った書斎へと飛んでいた。

◇◆◇

帝都皇宮、西の回廊は音を吸い込むように静まり返っていた。

侍従の案内はない。ただ一言、『西の書斎へ』とのみ伝えられた勅命。その無駄のなさこそが、これから始まる対話の異質さと重要性を物語っていた。

磨き上げられた大理石の床が、私の硬い靴音を無機質に反射する。陽光が降り注ぐ公的な空間から、次第に窓の少ない私的な領域へと足を踏み入れていく。空気が密度を増し、冷えていくのを感じた。

玉座の間ではない。

皇帝ゼノンの私室たるその書斎で、主は椅子に座ってすらいなかった。窓の外、眼下に広がる帝都の街並みを背に、ただ静かに佇んでいる。

それだけで、全てを理解した。

これは儀式ではない。内輪の話だ。

「アイゼンハルト」

名を呼ばれただけで、背筋が自然と伸びる。

跪くことは求められていない。この帝王は、最初からそれを望んではいない。

「北壁に、一人、面白い娘がいる」

それだけだった。

功績の説明も、噂話もない。だがその一言の重みを私は知っていた。

“面白い”――それは、陛下が滅多に使わぬ評価。最高級の賛辞であり、同時に最も危険な存在への警戒を示す言葉。

「予算を渡した。裁量も与えた。軍も、研究も、現地の判断で動かせるようにしてある」

皇帝は、淡々と机に置かれた紙束に目を落としたまま続けた。

それが何であるか説明はない。だが、その紙の厚みが北で動く金の巨大さを雄弁に物語っていた。

「そこで、だ」

皇帝が、ゆっくりとこちらへ振り返った。

その目には期待も警戒もない。ただ――研ぎ澄まされた刃が、相手の真価を測るような絶対的な光だけがあった。

「お前が行け」

命令ではない。

だが、拒否という選択肢も存在しない。

「監査をしろ。帳簿を見ろ。金の流れを追え。人の顔を見ろ」

一つひとつが寸分の狂いもなく急所を抉る、外科医のメスのような言葉だった。

「そして、判断しろ」

何を、と問う必要はなかった。

皇帝の視線が私の心の奥底を射抜く。

「――あれが、余の死後も生きる『思想』かどうかを」

空気が、わずかに重くなった。

皇帝ゼノンは、自らの死を未来の当然の前提として語った。そこには不吉も感傷もない。ただ、為政者としての冷徹な現実だけがあった。

「もし、個人の善意で回っているだけなら――危うい」

「もし、属人的で真似のできぬ奇跡なら――いずれ壊れる」

「だが」

そこで、ほんの一瞬だけ彼の口角が吊り上がった。それは、極上の獲物を見つけた狩人の獰猛な笑みだった。

「もし、この帝国という『 制度(システム) 』に食わせられる怪物なら……面白い」

私は、ようやく全てを理解した。

北壁の『天翼の軍師』は、守るべき存在ではない。討つべき敵でもない。

この帝国という巨大な船が次の時代へ渡るに値するかどうかを試される、一つの試金石なのだ。

「お前は、嫌われ役をやれ」

皇帝は再び窓の外へ視線を戻し、淡々と続ける。

「礼を尽くすな。情を見せるな。正論だけで殴れ」

それは、失敗した時のための保険でもあった。

「それで折れぬなら、使える」

「それで壊れるなら、そこまでだ」

なんと壮大で、なんと残酷な試練か。

だが、私の心は奇妙なほどに凪いでいた。むしろ、この歴史的な試練の当事者となれたことに官僚としての血が沸き立つような興奮さえ覚える。

私は、音もなく一礼した。

「承知、いたしました」

その言葉に、忠誠は含まれていない。

あるのは任務の完全な理解と、それを遂行する者としての静かな矜持だけだ。

背を向け、回廊へと歩き出す。

重厚な扉が閉まる音を背中で聞きながら、ふと立ち止まった。

(……なるほど)

皇帝は軍師を見ているのではない。

軍師の“後ろにできる世界”を見ている。

だからこそ私という『刃』を送り込んだ。

折るためではない。

(――折れないかを、確かめるために)

◇◆◇

アイゼンハルトは、回想の海から意識を引き戻した。

窓の外、練兵場で泥にまみれながらも剣を交えるユリウス皇子とゼイドの姿が目に映る。その傍らでは、レオンが書物を片手に何やら思索に耽っていた。

以前、ただの若造と断じた彼らが、この北の地で確かに何かに触れ、変わろうとしている。その小さな変化が、彼の灰色の瞳に微かな光を灯した。

見せてもらおうか、『天翼の軍師』。

陛下が築き上げたこの帝国という 制度(システム) に喰われるか、喰らうか。

北の空を思い浮かべ私の口元にもまた、皇帝と同じ種類の冷たい笑みが浮かんでいた。