作品タイトル不明
【ver.改訂前】第279話:『軍師の誓い、魂の在り処』
私はゆっくりと立ち上がると、シュタイナー中将に向き直った。
「中将閣下。少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
銀の仮面の下から響く声は、どこまでも静かだった。
「グレイグ中将とも回線を繋いだまま。……セラ、ヴォルフラム、ゲッコーも残ってください。……他の方は、一度席を」
有無を言わせぬ響き。シュタイナーは一瞬だけ訝しげに眉を寄せたが、やがて「……分かった」と短く応え、ユリウスたちに目配せで退室を促した。
重い扉が閉まり、部屋には大陸で最も私を深く知る者たちだけが残された。ランプの炎が、それぞれの顔に濃い影を落としている。
私は、ゆっくりと仮面に手をかけた。
カチリ、と小さな金属音が響き、銀の蝶が私の顔から離れる。ウィッグを外し、元の亜麻色の髪が現れると、私はようやく深く息を吐き出した。
目の前にいるのはもう『天翼の軍師』ではない。ただの八歳の少女、リナだった。
「……不安にさせてしまいました。……ごめんなさい」
か細い声が、静まり返った部屋に落ちる。
グレイグ中将の雷鳴のような叱責。セラさんの涙。ヴォルフラムさんの痛切な誓い。その一つ一つが、棘のように胸に刺さっていた。
「私がなぜ、危険を冒してまで自ら動こうとするのか。……その理由を、お話しなければならないと思いました」
私は、前世の話は伏せたまま、言葉を選び、静かに語り始めた。
遠い記憶の中の、灰色のオフィス。数字だけが人格を持つ、無機質な世界。
そこで見た、無数の「上司」たちの姿を。
「私は、知っています。安全な場所から数字だけを見て駒を動かし、その結果に一喜一憂するだけの人間を。部下の流す汗も、血も、涙も知らず、ただ報告書の上で『成果』だけを求める者たちを」
その声には、冷たい侮蔑が滲んでいた。
「彼らは、人の命を『コスト』と呼びます。人の心を『変数』と呼びます。……私は、決して、そのような者にはなりたくない」
私は、部屋にいる一人ひとりの顔を、順番に見つめた。
「グレイグ中将」
『……おう』
「あなたは私の言葉を信じ、全ての責任を負うと言ってくださった。そして、私の言葉が兵士の命を左右する事実から目を逸らすなと、教えてくださった」
「シュタイナー中将」
「……うむ」
「あなたは私の覚悟を問い、その上で信じると決めてくださった。そして、この国を守る盾となる覚悟を見せてくださった」
「セラさん、ヴォルフラムさん、ゲッコーさん」
三つの影が、静かに私を見つめ返している。
「言葉ではなく、その背中で、その剣で、私を守るということがどういうことかを示してくれた。私のために傷つき、私のために涙を流してくれた」
私は、そこで一度言葉を切った。
「ただ安全な場所から『死地へ行け』と命じるだけの者に、私はなりたくないのです」
それは、叫びだった。
「兵士たちの顔が見える場所で、彼らが感じる風を、土の匂いを、そして恐怖を、私も共に感じていたい。彼らが命を賭けるその戦場で、私もまた、別の形で命を賭けていたい……」
私は一度息を吸い、さらに深く、心の奥底にある本当の想いを吐露した。
「……それに、私がこの目で見たいのは、戦果報告の数字ではありません。敵も、味方も……この戦に巻き込まれ、飢えに苦しむ人、病に倒れる人。その一人ひとりの顔です。彼らの息遣いを感じられる場所でなければ、本当の意味で犠牲を減らすための最善手は、見つけられない」
「危険を冒したいわけではない。自殺志願者でもありません。ですが、私の存在が、私の言葉が、そこで苦しむ誰か一人でも多くの命を救い、無用な血が流れるのを防げる可能性があるのなら……私は、行かなければならないのです。……そうでなければ、私は、誰かに『戦え』と命じる資格がない」
私は一度だけ強く拳を握りしめた。脳裏に焼き付いて離れない、あの灰色の世界の記憶をここで断ち切るために。
「私は、人の痛みを知らぬ化け物にはならない。たとえ泥に塗れようと、血に塗れようと、あなた方と同じ、ただの人間として、この戦場に立ち続けたいのです!」
私の告白に、部屋は深い沈黙に包まれた。
ランプの炎が爆ぜる、乾いた音だけが響く。
最初に動いたのは、シュタイナー中将だった。
彼はゆっくりと立ち上がると、私の前に進み出た。そして、何も言わずに、その熊のように大きな手で、私の頭をわしりと一度だけ、乱暴に撫でた。
その不器用な手のひらから伝わる温かさに、堪えていた涙が、ぽろりと頬を伝った。
『……リナよ』
グレイグ中将の、ひどく掠れた声が聞こえてきた。
『……そうか』
それは問いかけではなく、深い納得を含んだ呟きだった。
『おれも、この目で部下の顔を見、同じ飯を食らわなければ、あいつらに『死んでこい』とは言えん。……お前は、その覚悟を、俺たちよりもずっと深くその背中に背負っていたんだな。……気づいてやれんですまなかった』
セラさんとヴォルフラムさんが、私の両脇にそっと寄り添う。
ゲッコーさんは、部屋の隅の影の中で、ただ静かに、その傷だらけの顔を俯かせていた。