作品タイトル不明
間話:『王の器、獅子の哲学』 276.3
重厚な扉が閉まり、アイゼンハルト子爵の足音が遠ざかっていく。
後に残された執務室はまるで嵐の前の静けさのように、重い沈黙に支配されていた。
「陛下。アイゼンハルトの言葉、一理あります。財政を預かる者として、彼の懸念は無視できませぬ」
宰相アルバートが重い口を開いた。
皇帝は窓辺に立ち、帝都の街並みを見下ろしながら宰相に静かに問いかける。
「アルバートよ。そなたは帝国で最も価値あるものは何だと思う?」
「民、でございます」
「ではその民の中で、最も価値ある者は誰だ?」
皇帝は振り返り、その瞳に絶対的な王者の光を宿して語り始めた。
「アイゼンハルトの考えは小役人のそれだ。国を『管理』することはできても、『創造』することはできん」
「『自ら動き、結果を出す者には投資は不要』。それはただの『搾取』だ。そのような王の下ではいずれ誰も動かなくなる。国は緩やかに死に向かうだけよ」
皇帝の言葉が熱を帯びる。
「真に価値ある者とは、何もない荒野に道を創り、種を蒔き、実りをもたらす者だ。リナやマキナがまさにそうだ。彼女たちがもたらす利益に対して、我々が投じるものは百分の一にも満たぬわ」
「何も生み出さぬ者、金や地位を与えねば動かぬ者に金を投じるのはただの浪費。だが自ら動き、1の投資で100の結果を生む者には、1000の褒賞と万の支援を与えるのが王の務めだ!」
「『産み出した分だけ、それ以上を投じる』。そうでなければその者の努力と才能を国が搾取することになる。そのような王にこの私をしてくれるな」
その本質を突いた哲学に、宰相アルバートは息を呑んだ。
彼は自らの不明を恥じるように深く頭を垂れた。だが、再び顔を上げたその目には、ただの臣従ではない、王の唯一の諫言役としての覚悟が宿っていた。
「……陛下。その御哲学は、陛下でなければ扱えませぬ刃でもあります」
静かな、しかし鋼のような芯の通った声だった。凡庸な王が真似ればただの寵愛と腐敗に行き着く危険な道。それを扱えるのは、陛下、あなただけです、と。
その言葉に、皇帝は満足げに、そして誇らしげに頷いた。
「……分かっておるわ」
宰相は、改めて深く頭を下げる。。
「……陛下のお考えの深さ、このアルバート、遠く及びませぬでした」
皇帝は満足げに頷くと宰相に厳命した。
「アルバート! 帝国の金庫から最高の技師と物資を追加で送れ! 面白い玩具も存分に作らせろ! リナの屋敷も経済特区への予算も、アイゼンハルトの案の倍を確保しろ!」
「あの小娘は褒美などいらぬと言うだろう。ならば強制的にでも受け取らせよ。……それがこの国を救った英雄への、我らができる礼儀というものだ」
「ははっ!」
宰相が力強く応じる。そして皇帝は最後に、もう一つの決断を下した。
「それと、アイゼンハルトを呼べ。……あやつは規律を重んじ、不正を許さぬ目を持つ。見るべきものがある」
皇帝は悪戯っぽく笑う。
「奴に北壁の砦へ視察に行くよう命じろ。『天翼の軍師』の予算執行が適正か、その目で直接確かめてこい、と。……これは左遷ではない。奴への『投資』だ。あの規格外の現実に触れ、奴がどう変わるか楽しみではないか」
皇帝の決断により、リナへの支援体制はさらに盤石なものとなる。
その頃北壁の砦では、帝都から届いた追加予算の報せにセラが目を丸くし、私が「いりませんてば!」と頭を抱えていた。
そして帝都ではアイゼンハルトが予期せぬ勅命に戸惑いながらも、その目に新たな闘志の光を宿していた。