作品タイトル不明
第276話:『湖畔の残照、軍師の覚醒』
湖畔の朝は乳白色の靄に包まれていた。鳥のさえずりだけがその静寂に細く澄んだ音色を響かせる。建物の前には既に出発の準備を整えた幌馬車が待機し、馬が白い息を吐いていた。その姿は夢のような休日が終わったことを告げる使者のように見えた。
玄関ホールではクララと侍女たちが完璧な一列に並び、深々と頭を下げている。厨房からはコックコート姿のパティシエたちが名残惜しそうにこちらを見つめていた。彼らの顔にはもう初対面の時の緊張はない。この数日間で生まれた確かに温かい感情が、言葉にならない眼差しとなって私に注がれていた。
私は一人ひとりに「ありがとうございました」と丁寧に礼を述べ、最後にクララの前に立った。
「また美味しいケーキお願いしますね」
悪戯っぽく微笑むと、彼女の完璧な仮面の下にほんの一瞬だけ柔らかな光が灯った気がした。
セラとヴォルフラムに促され、幌馬車へと乗り込む。
御者台のヴォルフラムが手綱を握り、馬車がゆっくりと動き出した。石畳を離れ、湖畔の小道を進む車輪の音が別れの合図のように響く。
私は窓の外の景色に目をやった。昨日はしゃぎながら魚釣りをした桟橋。みんなでケーキを囲んだ芝生。その一つ一つが夢のようにきらきらと輝いて見え、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
(……楽しかったな……)
唇をきつく結び、遠ざかっていく景色から目が離せない。その姿は『天翼の軍師』ではなく、楽しい遠足の終わりを惜しむただの八歳の少女そのものだった。
その様子を向かいの席に座るセラが胸を痛めるような眼差しで見つめている。隣のユリウス皇子たちもまたリナの子供らしい横顔に、かける言葉を見つけられずにいた。
湖畔の景色が完全に木々の向こうへ消え、馬車の中は気まずいほどの沈黙に包まれる。車輪の音と馬の息遣いだけが響いていた。誰もが悄然とした様子の私を気遣い、どう声をかけるべきか迷っている。
しばらく外を眺めていた私はふっと息をつき、顔を上げた。
その瞬間車内の空気が一変した。
(……いつまでも感傷に浸ってはいられない)
それまでの寂しげな少女の面影は消え失せ、その瞳には再び盤面全体を見据える軍師の冷徹な光が宿っていた。私は背筋を伸ばし、その場にいる全員に向き直る。
「セラさん、ヴォルフラムさん。砦に戻り次第すぐに軍議を開きます。ヘルマンにも伝達を」
「ゲッコーさんにはバラクからの最初の情報を受け取る準備を指示してください」
「ユリウス皇子、レオン殿、ゼイド殿。あなた方にも陪席していただきます。よろしいですね?」
その声はもうか細い少女のものではなかった。凛として澄み渡り、聞く者の背筋を伸ばさせる指揮官の声。
そのあまりに見事な切り替えに、セラとヴォルフラムは「はっ!」と力強く応じ、皇子たちもまたその覇気に気圧されるように「……ああ」「承知した」と頷くことしかできない。
私は再び窓の外、北へと続く険しい道を見据える。
(あの温かい場所を守るために。私は戦わなければならない)
馬車は速度を上げ、土煙を巻き上げながら砦へと向かう。休息の時間は終わり、再び血と鉄の匂いがする戦場へと戻っていく。車内の空気を再び張り詰めさせていた。