軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第275話:『甘い盤上、夜明けへの序曲』

暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜ、壁に揺れる影を落とす。談話室は、夕食後のリラックスした空気に満ちていた。

私は運ばれてきたデザートのドライフルーツの皿を指さした。

「セラさん。このお菓子、とても美味しいですね。……そうだ。バラクさんたちへの次の交換物資リストに、これも加えておいてください。きっと子供たちが喜びますから」

それは軍議の場では決して出てこない、ただの少女のささやかな願いのようだった。だがその一言が、武力や金銭ではない「心」で相手を掴むための何よりも強力な外交カードであることを、セラは理解している。

「かしこまりました。すぐに手配いたしますわ」

セラは微笑みで応じ、その指示を新たなメモへと書き留めた。レオンはその何気ないやり取りの裏にある高度な心理戦に気づき、戦慄する。この少女は、日常の全てを盤上として捉えているのではないかと。

その夜遅く、皇子たちの部屋の灯りはまだ消えていなかった。

眠れずにいる三人が、今日の出来事を振り返っている。

「……僕たちが彼女を守るなどと、おこがましかったのかもしれないな」

ゼイドの呟きは悔しさに満ちていた。皇子は当然だがリナも守る。その誓いは変わらない。だが、ただ剣を振るうだけでは、彼女の隣には立つことすらできない。彼女の戦場はもっと広く、深い。

「……いや、違う」

レオンが静かに反論した。彼の瞳には新たな獲物を見つけた狩人のような光が宿っている。

「彼女の一言一句がどう盤上を動かすのか。この目で見届け、記録し、分析する。それが、彼女のためにできる唯一のことだ」

「……僕は」

ユリウスが二人の顔を見回した。

「僕はもっと彼女と話さなければならない。彼女の価値観、考え方、その全てを知りたい。そして、自分の足でこの大陸を見て回る旅に出ようと思う」

三人がそれぞれの立場で、自分たちがどうあるべきかを模索し始めていた。

◇◆◇

休日の最終日。

厨房はいつもと違う熱気に包まれていた。その中心にいたのはエプロン姿のリナだった。

数日前、帝都の屋敷で何気なくクララさんに尋ねていたのだ。「南の方の国には、いろんな香りのする草や木の実があるって本当ですか?」と。その好奇心を、彼女は覚えていてくれたのだろう。テーブルには南方の異国から届いたばかりの色とりどりの香辛料が、小さな壺や袋に入れられてずらりと並んでいる。鼻をくすぐる複雑で刺激的な香りが、私の心の奥底に眠っていた記憶の扉を静かにノックした。

――日々の記憶の中。擦り切れた心と体を癒してくれたものはいくつかあった。

その一つが、歴史のifを自分の手で紡ぐ戦略シミュレーションゲーム。そのために読み漁った古今東西の戦記物や戦略理論が、今の私の力の源泉の一つだ。

そして、休日の料理。特に様々な香辛料を自分の感覚だけを頼りに組み合わせ、オリジナルのカレーを作る時間は、何物にも代えがたい没頭と創造の時間だった。

私は目を閉じ、あの頃のキッチンに立つ自分を思い出す。

(……うん。作ろう。みんなに、私の『元気の素』を食べてもらおう)

私はクララさんに「今日の夕食は私に任せてください」と宣言した。その真剣な眼差しに、彼女は驚きながらも微笑みで頷いてくれた。

そこからは私の独壇場――と言いたいところだが、さすがに八歳の体では限界がある。

まずは玉ねぎ。山のように積み上げられたそれを前に、私は早々にロッジの料理人たちへ援軍を要請した。私の指示通り、涙を流しながらも一心不乱にみじん切りにしていく大人たち。大きな鍋にたっぷりの油を熱し、飴色になるまでただひたすらに炒める重労働も、力自慢のシェフに代わってもらった。私は踏み台の上から鍋の中を覗き込み、焦がさぬよう木べらを動かすタイミングを指揮し続ける。厨房に甘く香ばしい匂いが立ち込め始める。

次に鶏肉の塊。私が手本として一口大に切り分けると、あとは手際の良い彼らに任せて、ヨーグルトと数種類のスパイスを混ぜたものに漬け込んでもらう。ニンニクと生姜をすりおろし、トマトを湯剥きして刻む工程も、総力戦で進めていく。その的確な指示出しと手際の良さは、ただの少女のものではない。傍らで手伝っていた侍女たちが、その動きに見入っていた。

そして香辛料の調合。ここだけは私の聖域だ。

クミン、コリアンダー、ターメリック、カルダモン……。それぞれの香りを確かめ、掌の上で色と匂いのオーケストラを指揮していく。辛み、香り、深み。それらが完璧なバランスで一つになる一点を探り当てる。それは戦場で最適解を導き出す思考とどこか似ていた。

半日かけて煮込まれた鍋の中身は、ただのシチューではなかった。深い褐色に輝き、複雑で食欲をそそる香りを放つ未知の料理。炊き立ての白い米と共に大きな皿に盛り付けられていく。

その日の夕食の席は、いつもと違う期待と戸惑いの空気で満ちていた。

「……これは、何という料理だ?」

ユリウス皇子が目の前の皿を不思議そうに眺めている。

「『カレー』……っていう名前だったかな? 昔読んだ古い本に載っていたんです。一度食べてみたくて……」

私がはにかむと、皆おそるおそるスプーンを口に運んだ。

そして食堂は静寂に包まれた。

最初に声を上げたのはゼイド様だった。

「う、美味い! なんだこれは! 辛い! だが美味い!」

彼の言葉を皮切りに、あちこちから感嘆の声が上がる。

「複雑な香辛料の風味が、肉の旨味を引き立てている……見事だ」とレオン様。

「こんな料理、初めて食べましたわ……!」とセラさん。

ヴォルフラムさんは無言のまま、ただ一心不乱にスプーンを動かしていた。

私はその光景を心の底から満足して見つめていた。

美味しいものを食べると人は笑顔になる。その単純で何よりも尊い真実を、改めて噛み締めていた。

◇◆◇

数日間の休日が終わりを告げる、夜明け前の湖畔。

心身ともに完全にリフレッシュした私は、朝靄のかかる湖を見つめていた。その横顔はもう昨日までの無邪気な少女ではない。

「セラさん。……そろそろ参りましょうか」

その声にはもう迷いも疲れもなかった。ただ、次なる戦場――北壁の砦、そしてその先の未知なる地――を見据える軍師の、静かで力強い響きがあった。