作品タイトル不明
第243話:『北壁の慟哭』
孤児院に残した温もりを振り切るように、私たちの馬車は再び北を目指していた。
流れる景色は日ごとに険しさを増し、頬を撫でていた風はいつしか肌を削る刃となる。やがて地平線の先に、天を貫く 峻嶺(しゅんれい) と一体化した巨大な影が姿を現した。
帝国の北方を守護する要塞、『北壁』。
風化した城壁に掲げられた旗が、唸りを上げてはためいている。馬車が砦の巨大な門をくぐり抜けた瞬間、空気が変わった。
鼻腔を突き刺すのは、錆びた鉄と生々しい血の匂い。そして、消毒薬のツンとした刺激臭。砦全体が、まだ癒えぬ巨大な傷口のように、痛ましい空気を吐き出していた。
出迎えたシュタイナー中将の、まるで岩から削り出したような顔には、深い疲労と苦渋が刻まれている。
「……ようこそお越しくださいました。見ての通り、少しばかり騒がしくてな」
その言葉通り、砦の中は負傷兵を運ぶ担架が慌ただしく行き交い、衛生兵たちの焦燥に満ちた怒号が飛び交っていた。つい先日、国境付近で小規模ながらも激しい戦闘があったのだという。今回の敵の特攻は、双方に癒しがたい傷跡を残したらしい。
司令部へ向かおうとする足を止め、私は匂いの源へと、まるで引かれるように急ぎ歩を進めた。
「リナ殿!?」
ユリウス皇子たちの戸惑う声を背に、私は一つの大きな天幕へとその足を踏み入れる。何事かと、彼らも息を飲んで後に続いた。
そして、彼らは地獄を見た。
天幕の中は、呻き声と祈り、そして絶望で飽和していた。
床に敷かれた藁は 夥(おびただ) しい血で赤黒く染まり、薬草と甘ったるい匂いがむせ返るように立ち込める。負傷兵で埋め尽くされた空間を、衛生兵たちが悲鳴に近い声で走り回っていた。ランプの揺れる光が、苦痛に歪む兵士たちの顔を不気味に照らし出す。
帝都の清廉な宮廷しか知らぬユリウス、レオン、ゼイドは、その凄惨な光景に言葉を失い、蒼白になった顔で思わず口元を押さえた。
だが、私は動じない。
東部戦線で見た光景は、もっと酷かった。鼻を焼く匂いも、耳を塞ぎたくなる呻き声も、私の覚悟を揺るがすには至らない。
むしろ、目の前の混沌に、私の思考は氷のように冴え渡っていく。北部戦線は長らく膠着していた。それ故か、衛生兵たちの動きはあまり良くなく、連携が取れていない。
「――あなた!」
私の凛とした声が、混沌を鋭く切り裂いた。
血まみれの包帯を抱えて立ち尽くす若い衛生兵の腕を掴む。
「トリアージは済んでいるのですか! 軽傷者はあちらの隅へ! すぐに復帰できる者から手当てを!」
「それは、止血帯の場所が違う! もっと心臓に近い箇所を強く縛って!」
「水と清潔な布が足りていません! 今すぐ井戸へ!」
年の頃は半分以下の、見知らぬ少女からの矢継ぎ早の指示。衛生兵たちは一瞬呆然とするが、その声に宿る絶対的な確信と的確な判断に、抗うことなく弾かれたように動き始めた。
私もスカートの裾をたくし上げ、その戦場へと飛び込む。兵士の傷口を慣れた手つきで洗い、手際よく包帯を巻いていく。それは、東部戦線で血と泥に塗れながら、何度も、何度も繰り返した行為だった。
その姿を、ユリウス皇子たちはただ見ていることしかできない。
自分たちよりも遥かに小さなその背中が、この地獄の中心で、まるで熟練の指揮官のように気高く輝いて見えた。
その時だった。
「もう駄目だ、この子は! 脈が弱い! 次の者を!」
天幕の隅から、衛生兵の絶望に満ちた声が響いた。
その声に引かれるように、私は振り返る。
そこには、腹から血を流し、浅い呼吸を繰り返す若者が横たわっていた。その顔にはまだあどけなさが残っているものの、年の頃は十六歳前後だろうか。血の気を失った唇が、何かを求めて微かに動いている。
それが引き金だった。
それまで氷のようだった私の思考が、音を立てて砕ける。
手当てをしていた手を止め、ふらつく足でその子の元へと向かった。一歩、また一歩と近づくにつれ、足元の血に染まった藁が、じゅくじゅくと厭な音を立てた。
「しっかりして… 死なないで!」
その傷口に両手を押し当て、必死に圧迫する。だが、温かい血は指の隙間から無情に溢れ出し、私の小さな手を赤黒く染め上げていった。
(この人にも、故郷で待つ家族が、愛する人がいるはず……!)
脳裏で、二つの光景が激しくせめぎ合う。
ヴォルフラムを救った、あの温かい光。
そして、グラン宰相が語った神話の結末――『その魂は大地に溶け、人の形を失う』。
使えば、救えるかもしれない。
でも、使えば、私は……。
過酷な天秤が、私の心をへし折ろうとする。
息が、荒くなる。ひゅっ、ひゅっと喉が鳴り、心臓が肋骨を内側から激しく叩いた。指先から急速に血の気が引き、氷のように冷たくなっていく。
遠くで、セラが「リナ様!?」と叫ぶ声が聞こえた気がしたが、もう私の耳には届かない。
怖い。
消えたくない。
でも、この人が……!
青年の瞳から、光が消えかけている。
その瞬間、私の内側で何かが決壊した。
私は震える唇を開き、祈りの言葉を紡ぎ始めた。
「――《大い……なる……み、ずの……みたま……よ》」
声が、かすれる。喉が見えない手に締め付けられたように、息が詰まる。それでも、続けなければ。この命を救うために。
私の異変に気づいたヴォルフラムが、「リナ様!」と叫びながら駆け寄ってくるのが、視界の端に映った。だが、その動きがひどくゆっくりと見えた。
「《……ど……うか……この……とうとき……いのちの……ともしびが……》」
血の気が、足元から引いていく。
世界が真っ白に染まり、音が遠のく。
紡ごうとした最後の言葉は、もはや音にならなかった。
「……う……」
私は、兵士の上に崩れ落ちるように、意識を手放した。
最後に聞こえたのは、私の体を抱きとめたセラとヴォルフラムの、悲鳴にも似た絶叫だった。
ユリウス皇子たちは、その全てを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
これが、戦争。
自分たちとそう変わらぬ年頃の若者が、こうも無惨に命を散らす現実。
ユリウスは、この小さな少女がこれまでどれほどの地獄の只中にいて、どれほどの重圧とたった一人で戦ってきたのかという事実を。
その重みを、今、初めて骨身に染みて知ることになった。